肆肆 鬼の封印
1
雨音は肩を叩かれ、振り向いた。
間近に酒井の顔があった。
「うわわわわわっ!!」
雨音はのけ反って、酒井の変わり果てた姿を見た。
「そこまで引くなよ。俺もマナブを追いかけて、ここまで来た。さっき、山上さんに最後の挨拶して来たよ…」
酒井が言った。
雨音は急に、地面に両手を着いた。
「酒井さん、お願いします!! 咲良ちゃんとマナブさんのとこへ、僕を連れてって下さい!!」
「誰に頼んでるの? それは無理や。俺は鬼になってしもた。俺に勝ったら、連れてってやらんでもないけど…」
酒井の新しい刀が、ぎらり、刃に光を集めた。
「仕方ないですね…」
雨音も鬼切を手に取ったが、
「…酒井さんは僕の技を全部知ってる。勝てるんだろうか…」
内心、不安が過った。
「殺す気で来い。そうせんと、おまえが死ぬ。俺はおまえを殺す気で行くから…」
酒井は以前より、一回りでかくなり、腕力は桁外れに強くなっていた。
雨音は一撃受けて吹っ飛ばされた。
彼は崖から転がり落ちた。
全身傷だらけになって、黒いチェックのシャツが裂け、血が滲んだ。
酒井は素早く崖を駆け降りた。
酒井の突きを、雨音が鎬で押さえ、突き返す。
「剣術の動きの基本は、旋回や。もっと擦りながら回れ。表に、裏に、前に、下に。刃を返せ!!」
酒井が接近して、間合いの内からガンガン突いてきた。
雨音は小指を上にして受け、足を引き、親指を上に返しながら、前に踏み込む。
打ち合う勢いで上体を前に押し出しながら、膝の力を抜いて、足先を飛ばし込む。
「そうや、膝を抜いて回れ! 重心を次々移せ! 体を三角に寄せていって、回りながら体重を真下に一瞬落とせ…」
酒井が言う。
「酒井さん! 戦ってんのか、指導してんのか、どっちなんですか!?」
雨音が打ちながら叫んだ。
「…楽しんでる。俺は死に場所を求めてる…。雨音以外、鬼になった俺を殺せるヤツはおらんと思ってた。雨音は鬼みたいなとこがある…。おまえ、俺が死んだら、頭の中心を突いてくれ…。復活なんて御免やし。一度きりの人生やで…」
「わかりました…。って言うか、高校生にそんな重たいこと頼むんですか?」
「ふふん、俺を倒せたらの話やで。おまえをただの高校生なんて思ったこと、一度もないわ。最初から…」
酒井が一振りすると、周りの木が裂ける。
ズズン、と振り下ろすと、切株が木端微塵になり、岩が二つに割れた。
酒井は刃を引っ掛け、雨音の利き手の裏に回って足払いを掛けた。
雨音は転倒し、追い込まれた。
「酒井さん…、こんなことしてたら、咲良ちゃんが死んでしまう…!!」
雨音は片膝を着き、酒井を見上げた。
「おまえ、どっちが好きやの? 咲良ちゃんと紅葉ちゃん」
酒井は雨音の眼前で寸止めした。
「どっちかと言うと…、咲良ちゃん…」
雨音は正直に答えた。
「そやと思った」
酒井は獣の声で嗤った。
「ほな、一緒に死ねや、ボケ!!」
酒井が上から刀を振り下ろした。
雨音は立ち上がる途中で受け流し、左に動いた。
「死ね…、雨音!!」
このまま酒井の斬り上げが決まると、雨音の脇の下から肩へ刃がズバッと入る。
雨音は二つの塊になって飛ぶだろう。
一瞬、酒井は雨音の持ち技の中から、反応を予想した。
「どう来る、雨音…?」
雨音は防御もなく飛び込み、受けた瞬間に方向転換して斬り下ろした。
「龍尾…か。一番捨て身で来たな…。それでええ…」
酒井は呟き、割れた額から血を飛ばした。
「入った…。なんで避けないんですか、酒井さん!!」
自分で斬っておいて、雨音は驚いた。
酒井は倒れ込み、鼻血を噴き、低木の枝を掴んだ。
「酒井さん…!!」
酒井は雨音の手を払った。
「…ほな、行こか。約束やからな…。あの世の、真っ暗のトンネルを通るぞ…」
彼は死力を振り絞り、雨音を抱えて、闇に突入した。
2
学瀛が咲良を連れ去った。
ナカツが追いすがり、空中で大刀を振り回した。
「夜明けが近いぞ、瀛!!」
鬼は夜明けを嫌う。
「ナカツ兄上。私は人間の体がありますので、夜明けなんて怖くありません…」
学瀛はすいすいと大刀を避けた。
彼は兄の猛追をかわし、雲原を駆け抜けた。
ナカツの姿が見えなくなった後、学瀛が咲良に言った。
「稚桜。源次が追って来れない、現代の大江山へ行く…。鬼ツアーの終点だ」
彼が源次と呼ぶのは、雨音のこと。
「紅葉ちゃん、雨音くん、みんな、どこにいるの?」
咲良の意識は次第に遠くなった。
咲良は冷たい夜風で目を覚ました。
東の空が藍色に変わる。
山の稜線がうっすら見える。
山々が海原のように、彼等がいる小高い山を囲んでいる。
学瀛が咲良を抱っこして、風が渡る草むらをゆく。
「稚桜。物語には大抵、原型があると思わない?」
学瀛の髪が少しずつ黒くなり、鬼からヒトへ戻って来た。
一つの体を軸にして、おもてとうらに、マナブと学瀛がいる。
咲良は彼の話し方の変化に、マナブを感じた。
「この地方の羽衣伝説じゃ、天女は羽衣を隠され、地上でしばらく暮らしたんだけど、やがて丹後で没したと言う…。天に帰れなかった哀れな天女。その話は形を変えて、本当に実在した、遠くから来た美しい女の不幸な死を、慰めようとする気持ちが籠ってるんじゃないか…?」
マナブが吐息を漏らした。
「マナイと呼ばれる湧き水がある。天の恵みの水が湧き、数多の霊山に神の力が宿る。ここにいたのは修験者、神を祀る者達…。彼等は特殊な力を持ち、畏れられていた…」
「マナブ…、ここが大江山なの?」
咲良はきょろきょろと見回した。
「稚桜、僕が怖い? 当然だね、何度も殺そうとしたんだから」
他に誰もいないのに、マナブは声を潜めた。
「学瀛と長兄のシマは都を追われ、丹波に逃げた。刺客として次兄のナカツが来た…。学瀛と再会した時、ナカツは龍に噛まれた傷が元で、既に学瀛以上に鬼と化してたんだよ…」
マナブは脳裏に、学瀛の視点から見たナカツの姿を思い描いた。
「ナカツは、シマと学瀛を殺すことを涙しながら、嗤っていたよ。殺す快楽に…どうしようもなく…」
マナブの表情が一瞬曇った。
「学瀛とシマを大江山の洞窟に葬って、ナカツは呪術の限りを尽くして封印をした…。でも、百年もすれば、人々は鬼の話を忘れてしまった。鉱物の採掘をしていた者が偶然、墓室に穴を開けてしまった…。お宝は無いか? 誰かが棺をこじ開けた…」
咲良は学瀛の記憶にシンクロした。
古い石棺から、ぬっと、白骨の手が伸びる。
白骨が墓泥棒の手を掴む。
墓泥棒は必死に許しを乞うた。
「貧しくて、つい出来心で禁を犯しました。どうか許して下さい…」
白骨は墓泥棒を棺に引き込み、ムシャムシャと喰った。
棺から、蘇った学瀛が出て来た…。
口の周りに付いた血を舐めながら。
「学瀛は目を覚ましたけど、復讐は終わってたし、やることは何も無かった。心が空虚なまま、都に向かい…、君と出逢った…」
マナブは片目で咲良を見詰めた。
「頼光の妻は…、君の姉の大桜姫だったね。学瀛は頼光の妻を生きたまま喰った。…君のお屋敷に二本の桜の木があった。大きく見事な桜と、まだ低く若い桜…。君ら姉妹の呼び名の由来だったね…」
マナブの前で草が分かれ、岩の裂け目が現れた。
「ここが学瀛の墓だよ、稚桜」
「洞窟に入るの?」
咲良は緊張した。
彼等は岩の隙間を潜った。
内部は想像した以上に、とても深い。
曲がりくねり、突然広くなったり狭くなったり、少しずつ下ってゆく。
マナブは背を屈め、やっと人一人通れる幅をゆく。
咲良はマナブの鬼火を頼りに先を見た。
「何だか、気味が悪いよ…」
お寺の墓地を想像していたのに、ここはピラミッドや王家の谷みたいに、入り口から棺までが遠い。
洞窟は複雑な迷路を築いている。
咲良一人では永久に出られなくなってしまいそう。
彼女は何者かの気配を感じた。視線がねっとりと絡み付いて来る。
彼等の足音の他に、不気味な音が洞窟に響く。
ずるずると何かが這うような音。
「誰がいるの?」
「ナカツだ。龍なんて、蛇と似たようなもんだから…。九本の尾を引き摺って歩いてるんだろう」
マナブが答えた。
咲良は逃げたかったが、隙が無い。
ずるずると這う音は、次第に近付いてきた。
「マナブ。私ね、小さい頃、何度か洞窟の夢を見たの。真っ暗の洞窟のどこかに、はぐれたお母さんがいる…。お母さんは鈴を鳴らして、私を呼ぶんだ。私は鈴の音を頼りに、洞窟の中心へ向かう…。もう少しでお母さんに会えるのに、先が塞がって進めなくなる…。大体、そこで目が覚める…」
「ありがちな、潜在的な恐怖から来る夢だよ。母親の愛情に不安を抱えている、子供らしい夢だ」
現実と嫌な夢の記憶が重なり、咲良は身を硬くする。
夢に出てきた洞窟には、ナメクジのお化けが棲んでいた。
お化けと鉢合わせたらどうしよう、と幼い咲良は怯え、泣きながら洞窟を彷徨っていた。
咲良はそっと背後を振り返った。
暗闇にナカツの息遣いが聞こえた。
喉から、あの蛇のような舌をちょろちょろ出しているに違いない。
「似たようなもんだけどね。ほら、ナメクジのお化けみたいなナカツと擦れ違った。ここは呪術で迷路みたいになってて、簡単に出くわさない…。さぁ、稚桜!」
マナブが咲良を急かした。
咲良とマナブの前を、一枚の岩が塞いだ。
呪術的な文様が彫られている。
それは死者の復活を妨げる為に置かれたものか、侵入者を退ける為に置かれたものか。
マナブが怪力で、岩を奥へ押し倒した。
3
狭苦しい墓室に着いた。
マナブが息を一つ吐き、鬼火を灯した。
照らし出された墓室は方形で、天井が低く圧迫感がある。
すぐ側の壁際に、二つの石棺が並んでいた。一つは蓋が開き、壊れていた。
壊れてない方の石棺から、冷気が溢れ出している。大型の業務用冷蔵庫に入ったみたいな、強烈な冷気だった。
咲良は寒くて震えた。
その時、チリーン、チリーンと、鈴のような音が咲良を呼んだ。
鈴の音は静かな洞窟に響き渡る。咲良は音のする方向を探った。
鈴の音は、シマの石棺の内側から漏れて来るのだった。
やがて音は重なり合い、シャリシャリと激しく鳴った。
「マナブ、あの音は何!?」
咲良は恐ろしくなって、マナブの後ろに隠れた。
「シマが呼んでるんだよ…。早くここから出せ、ってさ」
マナブが咲良の耳元で囁いた。
灰色を帯びた石棺は長い年月で劣化し、表面がざらざらしていた。
墓室には盗掘の穴が開き、そこから埃が入り込んで、細かな砂が積もっていた。
「稚桜。あの棺の中が視える?」
マナブが咲良を下ろし、石棺の前に立たせた。
咲良は膝が震え、マナブの支えがなければ倒れてしまいそうだった。
「稚桜、よく視てほしいんだ。何故、シマは復活しないのか。僕の呼びかけに応えてくれないのか?」
「視たくないよ。怖いよ、マナブ…」
咲良が両手で目を覆った。
しかし、彼女は石棺の内部を感じ取ってしまう。
散らばった骨。黒い泥のようなものが付着している。
水晶の数珠。
着ていた着物の繊維が、密封されていた為に残っている。
骸骨に刺さった、腐食した金属の棒。
「何か…棒が頭蓋骨を押さえ付けてる…。それで頭が持ち上がらない…」
咲良は無意識にマナブの命令に従い、返事してしまった。
百鬼夜行。
学瀛の隣をゆく、顔だけ似た長身の天狗。
山伏の格好で手に錫杖を持ち、高下駄を履いて、額から曲がった牛の角を生やす。
天狗は錫杖を着いて闊歩し、音を都大路に響かせていた。
「もしかして…、あの天狗が…シマ!?」
咲良は後ろに下がろうとして、マナブにぶつかった。
シャリ、シャリ、シャリ…。
静寂を破り、突如鳴り出した錫杖の六つの輪。
石棺に眠っていた遺骨が息を吹き返し、カタカタと震動した。
「シマ兄上。今すぐ、その邪魔な棒を引き抜きます…」
マナブの体を再び学瀛が支配し、石棺の蓋を愛しそうに撫でた。
「やめようよ! もう帰ろう!」
咲良が学瀛の腕を引っ張った。
「稚桜。ここに指で、五芒星を描け。一筆書きの星を、逆順で…」
学瀛が命じた。
「嫌だよ!」
咲良は首を横に振った。
鞍馬寺の僧正ヶ谷の事件では、彼女はのっぺらぼうの鶴に唆され、神王の封印を解いてしまった。
「シマ兄上に会いたい。肉親が孤独を癒してくれる。稚桜、頼む」
「無理だよ。そんなこと出来ない…」
咲良は断った。
「何故? どのみち、晴明の封印は千年で効力を失った。さぁ、私を見よ」
学瀛が前髪を掻き上げ、片目を見せた。彼の邪眼は咲良を引き付けた。
咲良は瑠璃色の宇宙を視た。
ゆっくりと旋回する銀河。
瑠璃色の光が鬼の眼から零れている。
鬼の内側も、瑠璃色の光で満ちている。
月から地球を眺めるように、心を揺さぶる美しい色だ。
咲良の意思が奪われ、手が勝手に引き寄せられていく。
「咲良、ダメです。封印を解いてはなりません…!!」
神泉が鞘の中で叫んでいる。
しかし、咲良の指が逆の五芒星を描いた。
「稚桜、血を分けてくれ。この前、わかった。生贄の血は少しで足りる…」
学瀛が小刀で咲良を切りつけた。彼女の手から血が滴った。
ガタッ、と石棺の蓋が動いた。
学瀛は咲良の傷を絞り、蓋に血を撒き散らした。
ガタガタッ、と石棺の蓋が揺れた。
「きゃ…」
咲良は飛び退こうとして、学瀛に抑え込まれた。
咲良は石棺の端に膝を着き、目の前に蓋の隙間があった。
石棺から、青い小鬼達が溢れ出した。
青い小鬼達は、顔が人で体が蜘蛛の形をしていた。八本の脚で這い、石棺から墓室の床へ無数に溢れた。
石棺と蓋の狭い隙間から、ぬっ、と手の骨が出た。
何かを掴もうとするように指の骨が動き、ゆっくり蓋がずれていった。
「ヤバい…。ヤバいよ…」
咲良は蒼白になった。
骨に付着していた黒い泥が、じゅわじゅわ泡立ちながら膨らんだ。黒い肉となったが、未だ腐った汚物のような色の皮膚だった。
ベトベトした黒い手が、咲良の白い手を掴んだ。
「いやぁー!!」
咲良が大声で悲鳴を上げた。
黒い手が咲良の手をがっちり捕え、石棺の中へ引き込もうとした。
彼女は甲高い声で喚きまくった。
学瀛は嗤いながら、兄の手を摘んだ。
「シマ兄上、この娘を食むのは諦めて下さい。私の妻にするつもりです」
学瀛は興奮し、待ちきれなくなって、棺の蓋を蹴飛ばした。
「シマ兄上、安倍晴明が我等を封じてから、千年経ちました…」
学瀛が骸骨に刺さっていた錫杖を、勢いよく引き抜いた。
ばらばらだった骨が浮き上がり、黒い泥が骨を繋ぐ。かろうじて、人間の形に集まった。
「ガ…ク……、エ…ィ…ィ……」
亡者の骨がカタカタ鳴り、乾いた声を発した。
歯は残っていたが、黒い歯茎からおかしな方向に飛び出ていて、唇が無かった。
瞼が無く、目玉だけが異様に目立った。髪はバサバサ、着物は破れて筋状になっていた。
「ガクエイ…、血ノ匂イガスル…」
シマの目玉が、足元の咲良を見据えた。
目玉から青白い炎が噴き出ている。
「うう、う…」
咲良は怖さを堪え、歯を食い縛ってシマを見た。
蘇った鬼が青白い閃光を発し、天井を砕いた。
天井の岩が崩落して、墓室の内側に降り注いだ。
鬼が発した光は爆発するように膨らみ、空まで達した。
「危ない!」
学瀛が自分を盾にして、咲良を庇った。大きな破片が背中に当たり、彼は呻き声を漏らした。
「鬼なのに、どうして私を庇うの!? 大丈夫!?」
咲良は驚き、学瀛の身を心配した。
「稚桜、礼を言うぞ。おことのお蔭で、シマ兄上が蘇った…」
学瀛が咲良にかかった砂埃を、丁寧に指で払った。
「お兄さんを復活させてどうするの…? もう復讐は終わったんでしょ。なんで疫病とか水害とか、人間を食べたりとか、禍を起こして人間を困らせようとするの…?」
咲良は悲しかった。
「なんで私がここに来たか、わかる? もうやめてほしいんだよ。本当は鬼灯をお供えしたくて、持って来てたんだよ。ねぇ、マナブ…、人間に戻って。学瀛はお兄さんとあの世へ逝ってほしい…」
彼女の潤む眸を見て、学瀛はしばし黙った。
学瀛は自分の肩に積もった砂を払った。
「理由はない、鬼は鬼でしかない…」
彼はシマに向かって、
「シマ兄上…!! これを…」
と、錫杖を投げた。
シマは石棺の上、宙に浮かぶ。
天井に開いた穴から空を見上げ、
「随分、長ク眠ッテイタナ…」
と、呟いた。
シマは顏も体も不完全だが、牛のような曲がった角だけが艶々と完璧に、頭蓋骨に備わっていた。
鬼の覚醒、凄まじいまでの妖気が迸り、墓室の空気を圧迫した。
咲良はシマの足元で妖気に曝され、びりびりと痺れた。
シマは錫杖を受け取り、昔ながらの澄んだ音を響かせた。
「ガクエイ…、ソノ娘ヲ渡セ…。邪魔スルナ…」
ヨダレをボトボト落としつつ、錫杖の底で弟の顎を持ち上げた。
千年、棺の中で何も食していなかった鬼は、極限まで腹を空かせていた。
「シマ兄上…。他の娘を連れて参ります。鶴の上に申し付けて、すぐに何人か、ここへ連れて来させます。待っ…」
言い訳しようとする学瀛の胸を、シマの錫杖が貫いた。
「…ぐぅっ…!!」
学瀛が青い血を吐いた。
咲良が倒れる学瀛を受けた。
「まずい…。兄上は飢餓で正気を失った。暴走する…」
学瀛は咲良を連れ、墓室の外へ走り出した。
だが、運悪く、ちょうどナカツが辿り着いた。
ナカツは紫がかった傷だらけの顔で、頭に九本の角を生やして、九本の尻尾を引き摺っていた。
長い尻尾がずるずると、あの不快な音を立てていた。
「巫女よ。シマ兄上が…目を覚まされたのか…?」
ナカツが咲良に尋ねた。
前門の虎、後門の狼。
鬼に挟まれ、咲良は逃げる手立てがない。
「シマ兄上、瀛…。ともにあの世へ連れて逝く…」
ナカツが裂けた口に大刀をくわえ、合掌した。
背後から、
「腹ガ減ッタ…。ガクエイ。ソノ娘ヲ喰ワセロ…。早クセヌト、身ガ持タヌ…。」
シマが唸り声を上げた。
骨を繋いだ黒い泥がじゅわじゅわ泡立ち、また溶けていきそうだ。
シマの手が咲良の肩にかかった。
咲良は手を繋いだ学瀛に言った。
「千年前の稚桜は…、鬼を殺そうとしたわけじゃないんだよ。鬼の魂を、呪縛から解放してあげたかった…。人を怨みながら鬼として在り続けるより、せめて、その怨念だけでも浄化したいと願った…」
学瀛は仰天して、咲良を見た。
「何を言っている…?」
ナカツが聞き返した。
咲良はナカツの大刀に触れた。
「その大刀…、龍の頭を斬ったせいで刃こぼれしたんだよね…」
「巫女よ、何をする!?」
ナカツが嫌がって、一歩下がった。
「その錫杖で…、何人も突き殺したんだよね…?」
咲良が背後のシマに囁いた。
「どうする気だ、稚桜…」
学瀛は咲良から身を離した。
「鬼の中の憎しみよ、眠れ…」
咲良が神泉で、自分の首を切った。
血飛沫が学瀛とシマ、ナカツに飛び散った。
彼女は墓室の出口の地面に、今度は正順で、血の五芒星を描いた。
「何てことを!!」
ナカツが叫んだ。
ナカツの顔と腕から、龍の噛み傷が剥がれた。
九本の角と九本の尾が消えた。
ばりばりと魂の分離する音がした。
洞窟が震動し、ナカツの鬼の部分が、大刀と一緒に地中に吸い込まれた。
「龍はその大刀に憑りついてたんだよ…」
咲良が言った。
「グアアア!!」
シマの骨から黒い泥が剥がれ、一瞬で溶けた。
黒い蒸気となり、錫杖と一緒に地中に吸い込まれた。
ばらばらの骨だけが残り、それも塵となって、崩れて消えた。
ガタガタと音が鳴り、石棺の蓋が閉まっていく。
「シマ兄上、ナカツ兄上…」
学瀛が呟き、身を翻して逃げた。
ナカツは人間の姿に戻った。
彼は衝撃で床に倒れ、そのままミイラのように萎んでいき、骸骨に変わった。
ナカツの骨もシマと同じように、塵となって消えた…。
咲良は血塗れで倒れた。
4
墓室に、小石がぱらぱら降ってきた。
学瀛は空が見える穴を仰ぎ見て、眉間と鼻に獅子のような皺を刻み、
「源次…。どうやって、ここへ来た…!?」
と、吠えた。
雨音と酒井が、陥没した墓穴を覗き込んでいる。
「マナブさん、酒井さんに連れて来てもらったんです」
雨音が答えた。
雨音の横で酒井が息を弾ませ、ぜいぜい言っている。
酒井の様子が何だかおかしい。力尽きて、姿が薄くなってきた。
存在自体が消滅しようとしている。
「酒井さん…」
雨音が慌てて、酒井の背中を撫でようと手を伸ばした。
夜明けだ。
黎明の光が山の輪郭を刻む。
酒井は言葉もなく、少しずつ透明になって消えていく。
「酒井さんっ!!」
雨音は酒井がいた場所を触った。
酒井は僅かな温もりを残し、後は全て、この世から消えてしまった。
「そんな…。サヨナラを言う暇もないなんて…」
雨音は一粒、涙を落とした。
黒い影だった山々は、濃い緑に変わった。
自然が千年前と変わらずに残っているこの地で、千年前と同じ風が吹く。
朝日が学瀛を体の奥へ押しやり、マナブが入れ替わって、おもてに出た。
「源次。おまえはどこまで僕を邪魔するの? 何千年、邪魔し続けるつもり?」
マナブから鬼の角や牙が消え、狩衣も消えた。
現在、ごく普通の若い男に見える。
マナブの腕に抱かれた咲良は、微動だにしない。
「マナブさん、咲良ちゃんを返して下さい!」
雨音が崩れた岩場を、墓室まで降りていく。
マナブは咲良を強く抱きしめ、とても寂しそうだった。
「もしかして、咲良ちゃん…、死んでる…?」
雨音が咲良の血に染まった服を見た。




