肆弐 黒き龍との戦い
1
咲良は鬼・ナカツの一言に、頭の中が真っ白になった。
「酒井さんを…沼に沈めた…?」
「あれは酒井という男ではない。なれの果てよ」
鬼はせせら嗤った。
鬼は大刀に付いた血の汚れを舐めた。
「巫女よ。おぬしが雷の小刀を使うほど、体力を消耗して動けなくなる。もう一度雷を落とすと、失神するぞ…」
「それ、酒井さんの血…?」
咲良は怒りを込め、猫が毛を逆立てる時の眸をした。
咲良は心の内で、
「落ち着け、咲良。こいつは一度、学瀛を殺したほど強いんだ…」
自分に言い聞かせようとした。
「でも、戦わなきゃ殺される…。ここには誰も来てくれない。雨音くんも…」
咲良の内側に蓄積していた小鬼が一つの塊になって、鎌首をもたげるようであった。
「咲良…? どうするつもり?」
神泉が問いかけている。
「やる気か。巫女よ」
鬼が面白がった。
咲良は御守りから山上神社の呪符を取り出し、広げた。
「懐かしいな。我が一族に伝わるもの。だが、それは我には効かぬ」
鬼が忠告した。
咲良は呪符を破り始めた。
「それは鬼を遠ざけ、おぬしを護るもの。自ら破るとは……おぬし…」
鬼は声を絞り出すのをやめ、ぱっくり喉を開いて、蛇のような舌を出した。
「ヤメロ…。オヌシモ、酒井ノヨウニ、内カラ鬼ニナルゾ…」
鬼の中の龍が喋った。
咲良は呪符を細かく破り、捨てた。
「咲良。一時的に鬼と化して、この鬼と戦おうとしているのですか!? 危険過ぎます、人間に戻れなくなりますよ…!!」
神泉が察し、止めようとした。
「だって、他に方法がないよ…」
彼女は心の内の、鬼を見詰めた。
咲良の中に、黒い咲良がいる。
そいつはいつも、優しい咲良の行動を嘲笑っている。
その存在は認めたくなかったけれど、早くから気付いていた。
しばらく、咲良は無言で俯いていた。
鬼は彼女が動き出すのを、じっと待った。
ナカツの目の前から、咲良が一瞬にしていなくなった。
「消えた…!? 鬼になったか…!?」
ナカツは咲良の気配を追った。
崖の急な傾斜に、木の根を浮かせて大木が立つ。
崖の下はお寺の境内で、村人や寺の下働きの人々が、松明を手に集まってきた。
「面倒な…」
ナカツは嫌悪の眼差しを向けた。
人々は声を荒げて騒いでいる。
崖の上方に、咲良が脱ぎ捨てたレインコートが落ちていた。
ナカツは大刀を担ぎ、膝を屈め、崖上の岩場まで跳躍した。
岩場にぽつぽつと、また降り出した雨が当たった。
咲良は岩場の一番高いところ、尖った岩の先端に立っていた。
彼女の目に黒い縁取りが付き、鬼と等しく目がきつくなった。
ナカツは空に立ち込める雷雲を仰いだ。
「巫女よ…。雨を降らしたとて、我を追い込めると思うな。更なる雨はこの地に禍をもたらすのみ…」
ナカツは喉を押さえ、掠れた咆哮を上げた。
「ぐぅぅる…。我の内なる龍が暴れたがる…。挑発は止めろ。雨を好むのは、我が方だぞ…」
二俣の舌が喉から出て、シャーッと鳴いた。
雲が低く下がり、大雨を降らす。
鉤裂きの稲妻が閃いた。
咲良とナカツはびしょ濡れになった。
咲良は体力のありったけで、出来る限りの雷を呼んでいた。
「うう…うう……」
神泉を捧げ持つ、彼女の手が震えた。
彼女のエネルギーが吸い込まれ、神泉が白い雷気を吐く。
咲良の耳が尖り、額に二本の角が生えた。
より深く、鬼化していく。
血管が張り、自分の脈が大きく聴こえてくる。
「どうなっても知りませんよ、咲良…」
神泉が呟く。
「酒井さんは…、どこ…!?」
咲良は意識を四方へ投げかけて、沼を探した。
沼でブクブクと、泡が上がっている。
ガボッ、と泡が水面で弾けた。
「………」
獣の思念が泡と一緒に弾け、苦しそうに喘いでいるのが伝わった。
「酒井さん…、今助けに行くから…」
咲良の心が空を翔けた。
咲良が沼に膝まで浸かって、泥を掻いた。
何か手に引っかかった。
人間の大腿骨だ。
「骨…」
咲良は人間の頭蓋骨や大腿骨を大量に見つけた。
濁った泥水の下に、人間の骨で出来た山があった。
「何、これ…!?」
骨がばらばらに水面から立ち上がり、デタラメな人体模型みたいに組み合わさった。
頸椎骨折の角度で首が付いた骸骨が、
「サクラ…、雨ガ止マヌ。川ガ氾濫シテ…村ガ沈ンデシマウ……」
と、歯をカタカタ鳴らして喋った。
「山ノ神、河ノ神ニ祈ッタガ、雨ガ止マヌ…。コレハ鬼ノ祟リジャ…」
「昔は、水害を祟りだと思ってたんだよね…。でも、関係ないんだよ。ただの気候のせいなんだよ」
咲良は骸骨と話した。
「鬼ヲ鎮メテクレ、サクラ…。コノ村ヲ救ッテクレ…」
骨の山が隆起して、咲良を水面から持ち上げた。
骨の島となった頂で、咲良は骸骨達を見下ろした。
「ごめん、もう一回だけ。最後の雷を落とさせて。私は雨を降らすことしか出来ないの…」
「鬼ヲ殺シテモ、何モ終ワラヌ。カツテ、人間ハ龍ヲ殺シタ。シカシ、未ダ禍ハ尽キヌ。見ヨ、サクラ。コノ乳呑児ヲ…」
骸骨は骨を繋いで、咲良と同じ高さまで迫り上がってきた。
抱いていた赤ん坊の骨を、彼女に手渡す。
水害で死んだ赤ん坊の骨らしい。
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、赤ん坊の髑髏がぱかっと割れ、血飛沫が彼女の顔面に吹き注いだ。
「う…」
咲良は慌てて血を拭った。
しかし、両手に付いたのは泥だった。
彼女の心は元の岩場に戻っていた。
咲良は鬼に直接尋ねた。
「ねぇ。どうやったら、鬼の祟りは終わるの…!?」
「鬼に身を委ねよ。…おぬしの心の臓を喰らった後、教えてやろう…」
鬼が舌舐めずりして、大刀で神泉を叩き落とした。
「あっ」
神泉は岩と岩の間まで落ちていった。
ナカツが仮面のように無表情になり、首ごと背後へ反っていく。
喉の傷から二俣の舌が伸び、龍の鼻が前に突き出た。
龍の金色の眼が現れた。
ナカツの頭部は飾りのように、龍の後頭部にぶら下がっている。
龍が大口を開き、咲良に噛み付こうとする。
咲良は思わず、眸を閉じた。
龍に生きたまま喰われるなんて、死ぬほど痛そうだ。
「雷!! 最大の雷よ!!」
咲良が鬼の力を解き放って、空に叫んだ。
天から光の矢が放たれる。
龍の顎を正確に射抜き、龍の頭部が紅蓮の炎に包まれた。
咲良は失神しかかった。
彼女の意識を、酒井が繋ぎ止めた。
「咲良ちゃん!! それだけやと、ダメなんや!!」
酒井の思念が泡となって連なり、沼の底から湧いた。
「九つの頭全部を一気に切り落とさなあかん!! そいつは安倍晴明が封じた十二の鬼の、九角龍王や!! 人間の姿に騙されたらあかん!!」
「酒井さん!?」
咲良が沼を振り返った。
龍の頭をめらめら燃やしつつ、ナカツが咲良の前に数歩出た。
彼の右手と左手に、龍の新たな頭部が出現する。
「咲良ちゃん、危ない!!」
沼が膨らみ、大波が連続して岸に押し寄せた。
咲良は手に吸い付けるように神泉を拾い、龍の頭を切り落とした。
生々しい手応えがあった。
ナカツの全身が激しく震った。
咲良は龍のたてがみを掴んだ。
鬼になり、動きが倍速になっている。
鬼になったせいで、彼女は何も考えずに二つの首を切り落とした。
「あと六つの頭はどこか、わからん!! そいつの全身切り刻むしかない!!」
沼が波立ち、酒井の声を運んだ。
龍の頭と手を失った鬼がよろめき、反らせたナカツの頭部をガクガク揺らした。
咲良は伝説の黒き龍を目撃した。
ナカツと一体化していた龍が、彼の内から流れ出し、分離した。
龍の長い尻尾の先が九つに分かれ、どんどん伸びていく。
首が九つ、ヤマタノオロチのようにうねる。
頭部は三つ欠けていた。
残る頭部には夫々、長い角があった。
九角龍王が復活しようとしている。
傍らで、ナカツの右手が再生され、彼も大刀を振り上げた。
咲良は無我夢中で走り出て、ナカツの大刀をぎりぎり右に避けた。
そして、また一つ、龍の頭を切り落とした。
龍の頭は炎に包まれた。
「ぐがあぁーっ!!」
龍とナカツが、同時に呻いた。
龍がのたうち、山で土砂崩れが起きた。
寺の境内まで、土砂が流れ込む。
松明を持って集まっていた人々が飲み込まれそうになって、慌てて逃げていく。
龍が暴れる度、山が地滑りして麓へ崩れ落ちる。
龍が巨体をずるずる引き摺って、割れた山にとぐろを巻いた。
龍が咲良の首に噛み付いた。
鬼化した咲良の首筋から、青い血飛沫が飛んだ。
龍が彼女をくわえて振り上げ、数字の8の形に首を振り回した。
咲良が岩場に投げ付けられた。
龍が咲良を掴み、口元まで持ち上げた。
「コレデ終ワリダ、巫女ヨ!!」
龍が咲良を飲み込む。
龍の口の中、咲良は牙にしがみついて、大声で叫んだ。
「学瀛に会わせてあげる!! 弟に会いたいんでしょ!? 私と一緒に行けば、すぐに弟に会えるよ!!」
龍に凭れ、腕組みしているナカツが答えた。
「巫女よ、命乞いか…? おぬしの死体を、弟に見せつけてやる…。弟の片思いの相手を殺し…、我は溜飲を下げる。あの世に逝く…、弟の亡骸を抱いて…」
「違うでしょ。本当は学瀛に謝りたいんでしょ!? 鬼になった弟を救えなかったんだ。あなたは殺すことしか出来なかった…」
咲良が叫び、ナカツはぐっと詰まった。
「心配しなくていよ。学瀛はあなたを恨んでないから。学瀛は怒り狂って、わけわからなくなってるだけ。会いに行こうよ!!」
「わかったようなことを申すな…」
ナカツが苦々しく呟き、荒ぶる龍が消えた。
咲良は岩場にふんわりと下ろされた。
咲良は神泉を鞘に戻した。
鞘とは、封印なり。
鬼化していた咲良が、普通の女の子に戻った。
「咲良ちゃん、鬼なんか信じたらあかん…!!」
酒井が沼の底から叫んだ。
咲良はナカツに手を差し出した。
しかし、体力の限界が来て倒れ込んだ。
「ならば、行くか…」
ナカツが咲良を抱き上げて空へ昇り、大鬼の宿を目指して飛んでいった。
2
雨音は鬼切を抜き、生まれたばかりの鵺に向かった。
熊井と蛇男・猿男は混じり合って、三面六臂の鬼になった。
蛇の尾を持ち、猿のような毛に覆われ、顔は真っ赤で、肩と腕の筋肉は熊のようだった。
鵺は苦痛に顔を歪め、三つの顔で泣き叫んでいた。
「ふぎゃー、ふぎゃー…」
産声と言えるかも知れない。
「雨音くん、危ない…。誰か、助けて…」
紅葉は竹刀を握り締め、気付いたら祈っていた。
「山上さん、火が消えてしまう…」
コマチは火にくべる木を使い果たし、山上に訴えた。
結界に張られた藁紐が、風に煽られる。
鬼達は火が弱まるのを見て、じりじり近付いて来た。
「雨音、熊男さんを斬れ。俺が許す」
山上は切羽詰まって、雨音に指示した。
雨音は額に貼っていた絆創膏を剥がした。
彼の第三の眼を見た雲林院は、
「うわっ、雨音が鬼になったぁー!!」
と、後ろへ飛び退いた。
鵺が横転したバスに降り立った。
バスが歪み、鋼鉄の壁が凹んで、渦巻いて曲がった。
鵺が地面に足を着くと、地面が割れて、岩が砕けた。
「鵺の周りで、空間が曲がってるぞ。斬ろうとしたら、刀が折れるかも」
「雲林院は見てて。これはオレの仕事なんだ」
雨音が言った。
鵺は三つの顔を傾げ、意味不明の咆哮で威嚇し続けた。
鋭く尖った牙が口からはみ出て、ヨダレが溢れてきた。
鵺の猿じみた長い腕は、二本が地面を擦っていた。
他の四本はバスの残骸を捩じ切り、鋼鉄を割いて武器を造った。
その鋼鉄製の武器で、近くの岩を砕いた。
風が鵺の側で渦巻き、ヒュウヒュウ唸っていた。
「あんなん直撃食らったら、頭砕けて一発で死ぬぞ。雨音、逃げよう!! そいつは無理や!!」
雲林院が言った。
鵺が雨音に躍りかかった。
六本の足で地面を蹴り、空中に浮かんだ。
二つの拳が雨音の頭を打ち砕こうとする。
二本の棒が雨音の身を刺し抜こうとして、二本の棒が足元を狙って低く交差した。
雨音は半歩引いて間合いを切り、次の瞬間、体重を載せて打ち込んだ。
空間が歪んで、雨音は弾き飛ばされた。
雨音は急いで起き上がり、山上を見た。
結界の炎が消え、山上は迫る鬼や妖怪と戦っていた。
雲林院と紅葉が背中合わせに立ち、鬼と対峙している。
「紅葉ちゃん…!」
雨音は駆け寄ろうとして、鵺に阻まれた。
鵺が突進してきた。
「ひゅあ…」
雨音が息を吸い、鬼切の切先を飛ばしてゆく。
パーンと美しい弧を描き、鬼の腕がまとめて三本飛んだ。
雨音は手の内で柄を弾くように切り替えて、逆向きに切り返した。
鮮やか過ぎるほど簡単に、残る腕がまとめて三本飛んだ。
鵺は一瞬で腕を全て失い、恐竜のような咆哮を響かせた。
「雨音、スゴイ…」
雲林院は口が半開きのままになった。
雨音は空間の歪みを見て、僅かな隙間から斬ったが、直後に歪みに巻き込まれた。
鬼切は高く跳ね上がり、離れた場所に落ちた。
「ぐぁああ、ぐぁあ…るる…」
鵺が唸った。
中央の熊井が泣き顔で、
「タスケテ、タスケテ…。タスケテェ……」
と、涙を流して頼んだ。
「熊男…さんでしたっけ? …斬らせてもらいます、すみません」
雨音が謝った。
丸腰の雨音に、鵺が飛びかかる。
鋭い爪が生えた六本の足で、車輪のように地面を蹴って、捻りの入った回転をしながら襲いかかった。
雨音は素早く避け、額の金色の眸で歪みを見切り、鬼切を拾った。
鵺の蹴りと蹴りの間から、神業の速度で太刀を差し込み、三つの首を串団子みたいに貫いた。
「ぎゃおっ…!!」
鵺が短い叫びを漏らした。
雨音は跳んで、空間の歪みの渦から逃れた。
鵺は痙攣し、地面に沈んだ。
「ひゅあ…」
雨音が鬼切の柄に手を掛け、刺したまま一閃させた。
鵺の頸動脈から後頭部へ、三つまとめて斬り上げる。
ざあっと血が飛んだ。
「…嘘…」
紅葉は驚いて、鵺の終焉を見た。
鵺は燃え上がり、黒い塵になって夜空に舞い散った。
鬼と妖怪達は、鵺が簡単に斬られたのを見て、急に委縮した。
後はちりぢりに逃げて行った。
雨音が荒い息で戻って来ると、山上もぼろぼろの格好で迎えた。
「雨音、ようやった。おまえ、いっぺんに腕上がった…」
山上は息子を抱くように抱き締めた。
その時、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「山から離れた方がええな。また土砂崩れが起きるかも知れへん。みなさん、行きましょうー」
山上が結界に避難していたツアー客を呼んだ。
「旭さんは!? 離れ離れになるやん。ここで待ってた方がいいんじゃないですか!?」
コマチが慌てた。
「旭は放置しても大丈夫や。あいつが死ぬもんか」
山上は旭を信頼していた。
コマチはわあわあ泣き出した。
「旭さんが死んでしまうー」
「コマチ、いっつも旭さんと喧嘩してたよね?」
紅葉と雨音は不思議そうに顔を見合わせた。
雨が激しくなり、雷鳴が聞こえ始めた。
「これ、もしかして咲良ちゃんか? 神泉で雷落とそうとしてへんか?」
山上が心配になって、雨音に聞いた。
「僕もそう思います」
雨音は額の眼をきょろきょろ動かした。
一等大きな雷が、山の裏側に落ちた。
その後、土砂崩れの地響きが伝わった。
「うわっ」
紅葉達は村落へ続く道の途中で、低くしゃがみ込んだ。
「山上さん、僕…、咲良ちゃんを捜して来ます!」
雨音が突然、道を引き返した。
「雨音くん!! 私も行く!!」
紅葉が走った。
「紅葉ちゃんは山上さん達と、後から来て。僕は懐中電灯も要らないから、先に行く。紅葉ちゃんは元の世界へ還る方法を考えて。それは紅葉ちゃんにしか出来ないんだよ」
雨音が微笑んで、紅葉を遮った。
紅葉の涙腺がゆるみ、眸がきらきら光った。
「嫌や…。好きやもん。…心配やもん。私だって…、雨音くんと咲良ちゃん、両方…大事で……」
堪えられない涙が一粒、頬を流れる。
紅葉の頬から落ちる滴を、雨音が指で受けた。
「大丈夫。絶対、咲良ちゃんを助けるよ」
紅葉の胸がちくんと痛んだ。
雨音は岩から岩へヤギのように跳ね、急傾斜を近回りして行った。
「私達もついて行きます。この鬼ツアーの最後まで…」
ユキエが山上に言った。
ユキエの母親や、白髪になったノア・キラ姉妹、結界に避難していた全員が賛成した。
「行こう、紅葉。雨音くんを追いかけるよ。私達みんなで、咲良ちゃんを助けよう!!」
コマチが紅葉の手を繋いだ。
「うん…」
紅葉は切なくなった。
紅葉だって、咲良を助けたい。
一方で、心の片隅では、咲良なんて死んでくれたらいいのに、とも思う。
「こんなこと思いたくないのに…」
紅葉は嫉妬を抑え込む為に、自分の手の甲を抓った。
3
旭は雑木林で、土砂崩れの音を聞いた。
「もう誰も残ってないな。ここも危険だ…」
彼は沼に続く道を歩いていた。
雨が強く降りしきり、沼は風で荒れていた。
ボコボコと泡が湧いている場所があり、酒井の声が聞こえた気がした。
「はは、まさかね…」
旭は草を掻き分け、沼を見渡す岩に昇った。
「酒井さーん…」
旭が大声で叫んだ。
雨風に彼の声が消された。
「酒井さーん、何やってんだよー!! 私達はー今からー、マナブと戦いに行きますよー!!」
体を反らし、腹の底から声を出した。
沼の泡が呼応するように、ボコボコと噴き出た。
「あはは、河童が出て来そうだよ。こりゃ…」
旭は刀を構え直した。
既に鬼を多数斬り、刃こぼれでガタガタになっていた。
「山上さんに弁償しなきゃな。この刀はもう、使い捨てだ…」
旭は居合の形のように、ぴっと血振るいして納刀した。
彼は抜刀術に自信がある。
柄に手を添え、妖気噴き上がる沼から、鬼の登場を待つ。
「旭…、旭…」
泡から声が聞こえた。
「酒井さん!? マジで!?」
旭は岩に両手を着いて、濁った水を覗き込んだ。
透明度は一切ない。
人間が入れそうなほどの大きな泡が、沼の底から出て、ボコッと弾けた。
「旭ぃー…」
「何やってんすかー、酒井さん!! かなり捜したんですよ!!」
旭は笑いながら、沼に向かって話した。
「面目ない…。鬼になってしもた……」
酒井は恥じて、顔を見せようとしなかった。
「出て来て下さいよ。酒井さんの手を借りたいんです。相手はマナブだし、他にも大物の鬼がいそうなんですよ…」
「おお、そやろ…。その大物の鬼に…、水草で手足を縛られてしもてね…。刀で切ってくれへんか。動けへんねん…」
泡がいくつも弾けた。
旭はそろそろと沼に入った。
泥水が驚くほど冷たい。
彼の体重で、膝まで沈んだ。
「大丈夫かな…。怖いな…」
沼の中央に進むほど、深く沈みこんでゆく。
足元がかなり軟らかく、底なしに引き込まれそうだ。
旭は腿まで浸かった。
波飛沫が顔にかかった。
「酒井さーん、どこを切ればいいんですかー!?」
大きな泡が彼に当たって、弾けた。
「これを切ってくれ…」
水面ぎりぎりに、醜悪な鬼が浮かんできた。
首から下が、水草でめちゃくちゃに絡まっていた。
「うわわわっ!!」
旭は後ろ向きにコケた。
鬼の顔は黒い獣のようで、とてもじゃないが、酒井とは思えなかった。
「鬼が俺を騙そうとしてるのか!?」
旭は泥水を飲み、むせた。
動揺しながら、抜刀一閃、鬼に斬り付けた。




