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弐壱 僧正ガ谷の戦い


 咲良は鶴と一緒に、沢へ降りていった。


「綺麗な湧き水でしょ?」

 鶴が案内し、咲良は澄んだ水に手を浸した。

「すっごく冷たい。気持ちいい…」

 汗が引いていった。


「咲良ちゃん、そこに何かあるはずよ。ちょっと、手で探ってみて」

 鶴が咲良に頼んだ。


「うん。何かある…」

 咲良は被さるシダを捲り、氷水のように冷たい湧水の流れを追った。

 岩の段差で小さな滝になっていたが、沢の本流は他にあるようだ。


「千年かけて、少しずつ沢の流れがズレてきたの…。昔は、そこが小さな池になっててね…。池は枯れた。水は別の方へ流れてく…。沈んでたお墓が外気に触れる……」

 鶴の声は、隠しきれない喜びが滲み出ている。



 咲良は、表面がぬるぬるした石が重なり合う下に、何かが埋もれているのを見た。

 彼女が手でちょんと触れると、簡単に壊れた。

「これ?」

 手にしたのは、銅が緑青(ろくしょう)に錆び、土がこびりついて汚い欠片だった。


「うん…。それ。…栓を抜いて、中の水を出してほしいの」

 鶴が息を飲んだ。


「…もう壊れてるよ。水は出た」

 咲良は残った方の穴を覗いた。

 古代中国製の、鳳凰(ほうおう)の装飾付き青銅器だった。

 でも、咲良は骨董(こっとう)の値打ちを知らない。

 相当古い時代の物で、鳳凰の目に嵌められていた(ぎょく)も取れている。



「逆さにして、土の上に置いて!」

 鶴の言い方が、命令口調になった。

「うん」

 咲良は言われた通り、欠片を地面に置いた。


「咲良ちゃん。五芒星(ごぼうせい)が刻んであるの、見えるよね? それを…、一筆書きで星を書く時と逆向きに…なぞってくれへんか…?」

 鶴の声が震えた。

 咲良は晴明神社で見た五芒星の紋を思い出した。



 咲良はじっと鶴を見た。

 遠くで、野鳥が鳴いていた。

 樹上では、鬼達が固唾(かたず)を飲んで見守っていた。


「鬼、復活するの?」

 咲良は相手が、自分を首塚神社に連れていった、紅葉の顔を盗んだ鬼女だとわかっていた。


「うん…。千年待っててん…」

 鶴はにっこり微笑んだ。


 二人の間を、さわさわと風が流れていった。



「人間に復讐するの、やめにしない? そしたら、私も…」

 咲良が鬼女に向かって言った。


 微笑む鶴。

「…そうやな。それが出来たら、いかに心も安らぐか…」

 鬼の眸から、一粒の涙が零れた。


「私の話、聞いてもらえる? 咲良ちゃん。私が顔を失った、そのわけを…」

 鶴が言った。



 咲良は鬼に同情しつつ、迷った。

「話聞くだけならいいけど。人間を殺すなら、復活させてあげないよ」

 彼女は鬼に奪われないように、欠片を胸にしっかり抱きしめた。


「その鳳凰の容器には、私の大好きな人の魂が入ってる。とても大事な人…。許されぬ恋…、彼は陰謀に巻き込まれて殺されて…、鬼になったの…」

 鶴が咲良の手にある、欠片に触れた。

「熱…っ」

 鶴の手からジュッと煙が立つ。


 この封印はまだ半分生きている。

 鬼は直接触ることが出来ない。



「呪具を地面に置け。鶴の(うえ)がおっしゃる通りにしろ…」

 天狗が樹上から呟き、咲良の前に降りた。

 バサバサと羽音が続き、彼女を天狗の集団が取り囲む。


 天狗はカラスに似た翼を持っている。

 山伏の格好をしている者もいれば、僧衣の者もいる。


 一番年長と思われる天狗は大柄で、胸までの立派な白髭を持つ。

 彼だけは白い頭巾を被り、金と黒で細かな柄の入った袈裟、左の(たもと)に大珠小珠の長い数珠(じゅず)を掛け、右手に閉じた扇子を握っていた。

 その大きな眼は、人の心の奥の奥まで見透かすようだった。



「約束してよ。誰も殺さないって。そしたら、助けてあげるから…!」

 咲良は鬼女相手に、甘いことを言った。


「…咲良ちゃんも誰かを好きになったこと、一度ぐらいあるでしょ? 彼は建物ごと火をかけられて、逃げ場もなく焼かれたんやで。咲良ちゃんがもし、自分の彼氏がそんな目に遭ったら、どう思う? 人間を呪いたくなるやろ?」


 鶴の顔の、目鼻が薄くなっていく。

「私は顔を削られた。復讐の為に、美しい顔で人間の男達を騙して、喰った罰…。私は鬼になって、やっと彼と夫婦(めおと)になれた…。後悔はしてへん…」


 鶴の顔がのっぺらぼう、白くて平べったい顔に戻った。

 妖怪、ロウソクのような顔。

 顔の輪郭が美しいだけに、不気味さが際立つ。


 鶴は喋るのをやめた。

 突然、鳥居から誰かが転がり出た。





 雨音は額の絆創膏を外した。

 それは古い傷跡のように見える。


 額の眸が開く。

 淡い金色の一つ目が、くるくる動いて妖気を放つ。


 白目は一つ。瞳は二つ。

 コの字型の瞳が向き合っている。

 山上がグロいと言ったのも頷ける、気持ち悪い鬼眼。


「咲良ちゃん、どこ!?」

 雨音は鬼眼の視力を頼りに、僧正ガ谷(そうじょうがたに)の高い草を掻き分けた。



 彼は朽ちかけた小さな鳥居を見つけた。

 長年の風雨で、柱はボロボロ、傾いている。

 彼は異界に繋がる門を、遂に捜し出した。


 彼は急いで、鳥居を潜ろうとした。

 空気が押し戻そうとする。

 彼は勢いよく飛び込んで、鬼女と話し込む咲良を見た。



「咲良ちゃん、鬼の話を聞くな! 心を持ってかれる…」

 雨音が黒いケースを開き、鬼切を取り出した。


 鬼切を見て、天狗がざわめいた。

 白面の鶴は凛として、そこで雨音を待ち受けた。


「雨音くん、待って。斬らないで…」

 咲良が焦って、鶴の前に立ち塞がった。

 彼女は両腕を広げ、鬼女を庇った。

「この人、外側は人間なんだよ…! それに、可哀相な鬼なんだよ!」


「咲良ちゃんはまた、鬼の味方なんだろ!?」

 雨音が鬼切を抜刀した。



 そこに、酒井と隆一も鳥居を抜けて、異界に転がり込んできた。

「さ、ささ、咲良ちゃん!? だいじょう…」

 隆一は天狗が咲良を囲んでいるのを見て、

「出たぁーっ!! 大変やぁー!!」

 と、大声で叫んだ。


 隆一から見て、天狗は半透明。

 向こう側が空けて見える。



 酒井は自前の杖を構え、巻いていた布を解く。

 武術用の杖で四尺二寸(約1メートル28センチ)、堅い木で出来ている。

 特別に、杖の表面に梵字(ぼんじ)が入っていた。

 彼は鞍馬に、用意も無しに来たわけではなかったのだ。



 雨音は天狗の陣をまっすぐ駆け抜け、鶴を斬った。

「うわー!! 人間ごと、ほんまに斬りよった!!」

 酒井が仰天した。


 雨音は鶴を一太刀で斬り、激しく血飛沫を飛ばした。

 映画のような鮮血の飛沫が、噴水みたいに噴き上がった。

「雨音くん!!」

 咲良が悲鳴を上げた。



 天狗は雨音と距離を保ち、彼を円形に囲んだ。

「…小僧、いい太刀を持っておるな…」

 先程、咲良に話しかけてきた老天狗が言った。


「八百年前の太刀だよ」

 怖いもの知らず、雨音は堂々答えた。



 天狗はしばらく様子を見ていた。

 雨音は鶴の死体に近寄り、脳幹を刺し貫く為に、両手で太刀を持ち替えた。

 鶴の死体はピクとも動かない。


 雨音が鶴の顔を突いた。

 手応えがあった。

 鶴の何もなかった顔に目鼻が浮かび上がり、人間の女性の死体に変わった。


「雨音ぇ…、やってしもた…! ヤバい…。それは、殺人や…!」

 警察官の酒井が頭を抱え、喚き散らした。



 雨音は鬼女の魂が逃げたことに気付き、周囲を見回した。

 例の、別人みたいな雨音に変化している。


「雨音くん…」

 咲良が全身の力を込め、強張ってぶるぶる震えていた。

「手が勝手に…」

 咲良の手が青銅器の欠片を地面に置き、指で五芒星を逆になぞっていく。


「…そこに鬼が居るんだね?」

 雨音は咲良の手元に切りかかった。

 あわや、彼女の手を切り落とす寸前で、鬼の腕を切り落とした。


「ぎゃあっ!!」

 鬼女の叫びが響き、空中の何もないところから、鬼の毛むくじゃらの腕が転がり落ちた。

 キツネのような赤い毛が生え、爪が長く尖っていた。



 雨音は一瞬遅かった。

 鶴は咲良の手を引っ張って、呪具に逆五芒星を描くことに成功した。


 晴明の封印が解けた。


 青銅器の破片が粉々に飛び散った。

 玉手箱を開けたみたいに、白い煙が濛々と立ち込め、視界を遮った。


 鬼が千年を経て、よみがえる。



 雨音が慌てて、鬼女の腕を拾いに行った。

 鬼の腕は実体がなく、スカスカと雨音の指を擦り抜けた。

 雨音は刀のケースから、お経を写した紙テープを取り出し、それで巻いて鬼の腕を拾った。


 鬼の腕を持ち帰ろうとする雨音。

 渡辺綱と茨木童子の物語の、一場面のように。



 咲良は呆けて、尻餅着いて、空を仰いだ。

 雲一つない紺碧の空だ。

 鞍馬の谷の豊かな自然の、茂りに茂った濃い緑の中。


 煙が薄らいでゆき、その中心から。

 ごく小さな滝を破り、美々しい男が現れた。

 咲良は腰が抜けそうになった。


 岩盤がメリメリと鳴り、鬼の墓が砕け散った。



 現れた鬼と、咲良の目が合う。

 その鬼は穏やかな中にも憂いを帯びた表情で、繊細。

 全然鬼らしくない。


 ぽっ、ぽっ、と赤い鬼火が浮かび、鬼が照らされた。

 鬼の顔は真紅とオレンジと黄で塗り分けられ、炎の乱舞が描かれている。

 着物に炎が飛び、めらめらと燃えた。

 鬼の全身に炎が広がる。


 その者は鬼火を引き連れ、白面の鬼女を胸に抱き、空へ上っていく。


 マナブが藍色の光を発した雷神ならば、このよみがえった鬼は紅蓮の鳳凰だ。

 炎の翼を広げ、炎の尾羽を長く引き、空を羽ばたいて昇った。



「なんて美しさや…。描きたい…、これを…」

 酒井は絵師の心を鷲掴みされ、その光景にシビれた。



 空の一部が赤く染まった。

 地響きがして僧正ガ谷が揺れる。

 野鳥が一斉に飛び立った。





 その頃。

 旭は隆一と二手に分かれ、咲良を探して鞍馬山を降りた。


 奥の院・魔王殿から降りて間もなく、彼は貴船の参道に出た。

 この二つの霊山は隣り合い、道も繋がっている。


 鞍馬寺の西門を出ると、貴布禰(きふね)神社本宮からすぐ近く。

 料理屋の並ぶ辺りに出る。

 道沿いの川は、鴨川の上流・貴船川だ。



 ちょうど、本物の紅葉とコマチと神谷先生が、昼食を済ませて料理屋から出て来た。

「えーっ!? 紅葉ちゃん!?」

 旭は鬼女の紅葉と勘違いした。

 本物の紅葉は髪を切り、眼鏡を失くしていたけれど。


「川床で食事してたんですか? いつの間に!? 咲良ちゃんはどこ行ったの? 雨音は今、不動堂まで引き返して、ずっと紅葉ちゃん達を捜してるんですよ!!」

 旭は怒っている。


 コマチは手を叩いて喜んだ。

「えー、雨音くんが迎えに来てくれはったんですかー!? めっちゃ嬉しぃー!!」


 紅葉はすぐに事態を飲み込んだ。

「鬼女の鶴が私のふりして、咲良ちゃんと鞍馬に来てるんですね? それで、咲良ちゃんが行方不明になった!?」

「え…。てことは、君、本物の紅葉ちゃんの方!?」

 旭も気付いた。


「何がどうなってんの?」

 神谷先生が聞いた。

 コマチは、

「ほな、早く雨音くんとこ行こうよ、紅葉ー」

 と、紅葉を急かした。


 旭はコマチのことを、

「何? この女の子、ムカつく…」

 と、思った。



 その時、鞍馬山で地響きが鳴った。

 僧正ガ谷から白い煙が上がり、野鳥が一斉に飛び立った。


 空が半分、赤く染まった。

 燃えるような赤い光が、空へ吹き抜ける。

 光の粉がチカチカと舞った。



「わぁ、何やろ!? 地震か? 変な音がしたでー」

 料理屋から、お店の人と客が飛び出してきた。

 音が聞こえても、一般の人達が異変を見ることは出来ない。


「きっと、雨音だ。鬼とやり合ってるのかも…」

 旭が呟いた。

「嫌な予感がする…。あそこ、妖気が渦巻いてる…」

 紅葉は緊張してきた。



 彼女達は西門から鞍馬山に入った。

 そして、大急ぎで道を上っていった。


 途中で、観光客がたくさん下山してきた。

「僧正ガ谷の一部で崖崩れがあったらしいよ。危ないし、行かへん方がええよ」

 親切な人が教えてくれた。


「空が赤い…。火事?」

 紅葉は、咲良と雨音を心配した。





 咲良は老天狗の(たもと)を引っ張った。

「どうして鬼になっちゃうんですか!? みんな怨みを持って死んじゃうと、怨霊になっちゃうんですか?」


 老天狗・僧正坊(そうじょうぼう)は、肉体を持たない自分の袂を摘んだ、咲良に驚ろかされた。

「咲良…。我等は墓を守ってきた…。(いにしえ)より、この霊山を守ってきたのが天狗じゃ…」


「あの鬼は誰なんですか?」

 咲良は悲しみが込み上げて、涙をぽろぽろ零した。

「あれは焼かれた寺で没した、高貴な血筋のお方でな…。鬼としての名は、神王(しんのう)…」

 僧正坊は屈み、咲良に目線の高さを合わせた。


「そなたは鶴の上を庇ってくれた。礼を申す…」

 僧正坊が咲良の涙を指で拭き、扇子で扇いだ。

 風が起きて、咲良を火の粉から守った。

 老天狗は咲良と雨音を切り離し、彼女だけ連れて、空へ飛び上がった。


「咲良ちゃーん!!」

 地上から雨音が呼んだ。



 次の瞬間、真昼の空が暗くなった。

 夕闇の、紫がかった色。


 どこかの寺の伽藍(がらん)、塔がシルエットで浮かび上がる。

 鞍馬の森が見えなくなった。


 幻想の世界。

「ここはどこ…?」

 迷い込んだ隆一は、ぼんやり周囲を見回した。


「さっきの鬼が戻って来る。隆一、逃げろ!」

 酒井が隆一の腕を掴んだ。


「ええっ!! 俺、人間以外と戦うのは無理ですよ! あんな鬼…、どうやって戦うんですか。こんなの、聞いてないっすよ!」

 隆一は鳥居を目指し、走りながら早口に喋った。


 雨音は鬼の腕を刀ケースに入れ、酒井に渡した。

「酒井さん、この荷物を山上さんに…」

「アホか!! おまえ一人で、十二の鬼の一匹を足止め出来るわけないやろ!!」

 酒井が怒鳴った。


「死んだら、その時はその時なわけで…」

 雨音が酒井らを鳥居まで見送り、そこで立ち止まった。




 稲妻より短い一瞬、強烈な光が差す。

 突風が吹き、オレンジ色の炎が谷の草むらを舐めつくした。


 木々が炎に包まれ、背景の寺が炎上していく。

 鬼の記憶が再現されている。


 突風で、隆一は崖から吹き飛ばされた。

 隆一は木にしがみつき、木の俣に足を掛けた。

「わぁ、どうしよう…。鬼に喰われる…。そんな死に方が俺に似合うんか? 俺にはもっと美しい死に方が…」

 喋っている間も風が吹き付け、彼は鯉のぼりのように揺れた。



 酒井は天狗の攻撃を受けた。

 鬼の腕が入ったケースに天狗が飛び乗り、かっぱらおうとする。

 酒井は天狗の気配を、背負ったケースの上に感じた。


 酒井は杖道(じょうどう)の段位を持っている。

 彼はすぐさま反応した。

 けれど、彼の(じょう)は空振りになった。

 天狗は実体がない。


 天狗は団扇(うちわ)を扇ぎ、酒井を吹っ飛ばした。

 酒井は死にもの狂いで、ケースを守った。

 弁慶のような体格の天狗が、薙刀(なぎなた)で彼に襲いかかってきた。

 相手の方は酒井にダメージを与えることが出来る。



「正真正銘の鞍馬流と戦えるとは、光栄ですよ。天狗さん。俺は幸せだね…」

 酒井がお経を唱え、梵字の杖を使った。

 仏教の他力(たりき)を借りて、やっと杖が天狗の武器を受けた。


 棒術と違い、端と真ん中近くを持って居合と似た戦い方をする杖道。

 カッ、カッ、と打ち合う音が鳴る。


 酒井の杖が、薙刀の刃の側面を叩き、払う。

 彼は相手の懐に飛び込み、杖を返して鳩尾(みぞおち)を狙う。

 天狗は下がり、薙刀で大きく切り返してくる。

 酒井が薙刀の上を押さえ、滑らせるように突く。


 カッ、カッと鳴る。

 勝負がしばらく続く。

 今度は梵字の杖が炸裂し、天狗が一匹、打ちのめされた。


 しかし、天狗は多勢。

 酒井は四方から同時に切り込まれ、なす(すべ)なく、草むらに沈んだ。



「酒井さーん!! どこに逃げたらいいんですかぁー!?」

 崖から隆一が叫んだ。

 隆一の目前まで、猛火が迫っていた。


「不動堂や。不動明王が一切を炎で浄化してくれる。その為に、鬼の棲むこの谷に不動堂があるんやろ。隆一、何とか生き延びてくれ…」

 血塗れの酒井が、草むらから唸った。


 天狗がケースを引っ張り、酒井が引き摺られる。

「ふむむ…」

 彼は岩にしがみつき、全身全霊の力で踏ん張った。


「俺は…何を必死に…鬼の腕を守って…、これはそんなに重要なものか? わからん…」

 酒井は考え、しかし、意地になって鬼の腕を死守した。


「わかりましたー。ほな、お先にー。生きてたら、不動堂で会いましょうー」

 薄情な隆一がスタコラ走り、酒井の前を通り抜けて行った。

「早く行けー!! 隆一…!」

 酒井は天狗に引き摺られながらも、隆一を応援した。


 彼はわざとケースを投げ出した。

 勢い余って転んだ天狗を、杖で打つ。

 彼はケースを取戻し、鬼の腕を出して、着ているミリタリーシャツの懐へ突っ込んだ。



「そうや、雨音は?」

 酒井が雨音に目を向けた。



 紫がかった夕空から、赤い火の玉が降ってくる。

 雨のように降り、雨音が一つ一つ切っていく。


 よく見ると、火ネズミ。

 耳が大きく、全身が炎の小鬼だ。

 切られた小鬼が二つの炎になって、草地に燃え広がる。

 雨音の周囲は火の海に変わる。



「雨音のやつ。やっぱり、何も考えてへんな…。火事を拡大しとる」

 酒井が呆れた。


 雨音は無心に、火ネズミを切っていく。

 炎の壁が大きく立ち上がり、雨音を包み込もうとする。


 満身創痍の酒井が、武器の杖でふらふらと立ち上がった。

 息も荒いのに、雨音を助けに鳥居まで戻る。



「酒井さん、入らないで。こっちは鬼の結界の中です。精神にダメージ負ったら、現実に命を落とします」

 雨音が酒井を振り返った。


「んなこたぁー、わかってるわ!」

 酒井が雨音に背を向けて立ち、杖で火ネズミを打ち落とした。

 火は燃え広がるけれど、噛み付かれてもダメージを食らう。


「もうアカン…」

 力尽きて、酒井の意識が遠くなる。

 目が霞み始める。



 その時、また景色が一転した。


 雨音と酒井は、どこかの建物の中にいた。

 板間、格子の窓、朱塗りの柱…。

 遠い昔の、寺の中だ。


 さっきの幻想の、炎上する寺の中。

 窓の外が赤く、壁が異常に熱い。

 煙で視界が悪い。


「捕まった…。鬼め、俺達を蒸し焼きにするつもりかな…」

 酒井は暑さで、瞬く間に汗びっしょりになった。


「この鬼はまだ人間だった時に、お寺で焼き殺されたんです。自分の記憶を再現して、僕らに体験させようとしてる」

 雨音が言い、口をシャツの裾で覆った。

 煙が充満してきた。


「俺も感じる。凄まじい怨念やね。はよ出口を見つけんと、俺らも焼け死ぬぞ…」

 酒井がきょろきょろ見回した。

 壁や天井全体から、鬼の粘っこい視線が絡みつく。


「鬼は僕らが逃げ惑って、焼け死ぬのを愉しむつもりです…。出口なんて、あるわけないです」

 雨音が冷静過ぎるほど、冷静に言った。




 

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