廿 貴船の龍神、鞍馬の天狗
1
奥宮の鳥居を抜けると、足元も、樹皮も、頭上に垂れ下がる枝々も、しっとりと濡れた緑。
樹齢数百年の木々に囲まれる雰囲気は、下鴨神社の糺の森にも似ている。
小さな拝殿があり、他に幾つか摂社があるだけ。
この奥宮まで来る人々は、思い思いに瞑想したり、憩う。
コマチが泣きじゃくり、早く帰りたい紅葉と神谷先生は途方に暮れた。
「とりあえず、ここまで来たら参拝しようか」
紅葉がコマチを支え、拝殿まで進んだ。
拝殿の向こうに天突く巨木がある。
神が座すところから神気が噴き上がるのが感じられる。
この神気が龍神なんだろうか。
「この鳥居の結界に、鬼は入れへんやろな。貴船山に鬼は居ない」
紅葉は心の中で思った。
「なんでかわからへんけど、めっちゃ悲しくなって涙が出た…。初めて来た場所なのに、何回も来たことがある気がしてきて…」
コマチが近くのベンチに座り込み、紅葉に話した。
神谷先生は笑い、
「コマチ。苦しい恋でもして、縁結びの願かけに来た和泉式部みたいやな」
と、言った。
コマチは真剣に答えた。
「先生。ほんまにそんな感じです。めっちゃ好きな人がいて、会いたくて会いたくて…、そんな気持ちが急に込み上げて来たんです。切なくて悲しくて、鬼になりそうなぐらい恨めしい…」
そこでコマチは頭を振った。
「バカバカしいです。私は今まで一度も、片思いなんかしたことないのに!」
神谷先生は大笑いした。
コマチが泣きやむのを待って、紅葉はベンチから立ち上がった。
「紅葉、もう少し待って。私、気持ちが整理つかへん…」
コマチが頼んだ。
「落ち着くまで待ったげるよ。ここからはもうすぐ帰れるんやし」
神谷先生はスマホで家族に電話をした。
行方不明の夫から電話があって、奥さんがとても驚いていた。
2
咲良は偽物の紅葉とパワスポめぐりに行くことになった。
鬼女・鶴が選んだ場所は、鞍馬寺。
偶然だが、本物の紅葉とコマチがいる貴船の、山一つ東側。
源義経が幼少期を過ごし、天狗相手に剣術の腕を磨いたと言われる場所だ。
旭達が咲良を心配し、ついて行くと言い出した。
日曜の朝。
待ち合わせ場所に雨音が来て、鶴は俄かに緊張した。
「雨音くん、鬼切は置いてきた? お寺に刃物なんて、仏様に失礼かも知れへんから」
と、雨音に突っかかった。
雨音はシンプルな私服で、荷物も殆ど持ってない。
「置いて来たよ、紅葉ちゃん。鞍馬って結構、マジな山歩きになるんでしょ?」
「そうよ」
「紅葉ちゃん、俺達のことは気にしんといて。俺達はマナブが出てきた時の為のボディーガード」
隆一が言った。
隆一は親友の蘇芳の心配をしていた。
「大丈夫ですかね、蘇芳…。鬼と一つ屋根の下って…」
「蘇芳くんは大丈夫なんじゃない? マナブからでも一本取りそうだよ」
旭と隆一は鶴と距離を置き、こそこそと会話をした。
雨音は一人、先に歩いていく。
少し遅れて、咲良と鶴が喋りながら歩く。
「あれが鬼には見えません…。めっちゃ可愛いです…」
隆一が鶴の後ろ姿を眺め、唸った。
「俺達、霊感ないもんね。鬼に隙があれば斬りたいけど、外側が生身の人間じゃなぁ…。マナブに憑りついた、千年前の学瀛の怨霊みたいに、あの鬼女は生きた人間に憑りついてる。外側を斬ると、殺人罪になっちゃうわけだよ…」
旭は腕組みして考えた。
「俺達はただ、咲良ちゃんを見守ってたらいいんですよね…」
隆一と旭は目を見合わせ、頷き合った。
酒井が鞍馬寺の奥の院まで先回りし、鬼切を持って待っているはずだ。
「まぁ、いいや。雨音は不思議系。後はあいつのヒラメキに任せよう」
旭は先頭をゆく雨音に委ねた。
咲良達は出町柳から叡山電鉄に乗った。
観光客がたくさんいて、席は空いてない。
紅葉とコマチらが目指す貴船口駅を一つ過ぎ、鞍馬駅で降りた。
雨音達は前髪をゴムで束ねたチョンマゲ風で、三人ともそこそこの容姿をしている。
彼等はいつの間にか目立ってしまう。
咲良は一緒に歩くのが、何だか照れ臭かった。
駅の待合所の壁に、月岡芳年の絵の印刷物が貼ってあった。
月岡芳年は、紅葉の好きな絵師・歌川国芳の弟子。
咲良の心は、一つの絵の中へ入っていく。
牛若丸と弁慶が五条橋の上で戦う、出会いの場面が描かれている。
日本各地を代表する霊場の天狗が、鞍馬の天狗とともに、牛若丸に味方している。
満月が照らす五条橋。
天狗がカラスのような翼を広げる。
武蔵坊弁慶が薙刀で牛若丸に切りかかる。
「とりゃあっ!!」
ふわりと浮く、牛若丸の羽織物。
牛若丸は天狗に抱えられるように、空へ浮く。
天狗の傍には、それぞれの名前が描き込んである。
鞍馬僧正坊、白い髭がふさふさとした老僧。
愛宕栄術太郎、鼻が大きくギョロッとした目で、山伏の格好をしている。
飯綱三郎、弁慶の動きを邪魔している。
比良治郎坊、袈裟を着けた僧侶の姿。
彦山豊前坊、山伏の格好で、もみあげが濃く、髭が立派。
白峯相模坊、山伏の格好で、嘴のある典型的なカラス天狗。錫杖で打ちかかる。
大山伯耆坊、薙刀の柄と弁慶の足を掴む。
大峯前鬼、青い顔、肩までの白髪。口が糸で縫われた異様な顔をしている。
さすがの弁慶も、天狗が起こす風に目を細め、足を取られてよろめく。
弁慶は薙刀を振り回そうとするが、天狗に握られて動かない。
弁慶は天狗の微かな羽音を耳にする。
彼は見えない相手に、困り切って言う。
「やめて下され、天狗の方々。何故にこの若者の味方をなさる?」
すると、全国の天狗のリーダーたる鞍馬僧正坊が答える。
「弁慶、よく見るがよい。この方は清和源氏の御曹司、九郎義経殿じゃ…」
咲良は満足そうに微笑み、スマホで絵の写真を撮った。
3
道を歩きながら、咲良は偽物の紅葉に全部喋った。
「…それでね、私達、その十二の鬼が封印されているとこを探して、復活を阻止することにしたの」
「ふぅーん…」
鶴は無表情に相槌を打った。
胸中は穏やかではなかった。
「でも、もう復活したかも知れない鬼もいるんだよ。マナブもそうだし。あの虎みたいな鬼、舌長も…、きっとその十二の鬼の仲間なんだよ」
咲良は鞍馬寺の仁王門で、仁王の足元を覗き込んだ。
「ねぇ、紅葉ちゃん。よく仁王とかが天邪鬼を踏ん付けてるよねー? 十二の鬼もそういうとこに封印されてるのかなぁー?」
咲良の言葉に、鶴は屈辱を感じた。
「まさか。その程度の小鬼と一緒にしたら、十二の鬼が怒ると思うよ。彼等はもっと、霊力のある物に封印されてるんちゃう?」
今日はよく晴れた。
両側の大木の葉が茂り、参道に落ちた影が濃い。
彼女達は日陰を選び、薄暗い参道をまっすぐ上って行った。
「…貴船の神は、タカオカミ。古事記によれば、タカオカミとクラオカミは、イザナギがカグツチを斬り殺した剣から滴った血から生まれた龍神。タカは霊力の大きい様子を表し、クラは暗い谷間を指すと言われてる。貴布禰神社では、タカオカミとクラオカミは同一の神として伝わってる…」
鶴が紅葉そっくりに説明した。
「クラオカミのクラ、確かに谷かも知れへんけど、鞍馬…クラマ…、こっちの神を指してたんちゃうか?」
鶴は仮説を口にした。
「貴船のタカオカミ、鞍馬のクラオカミって感じ…。なんでそう思うのかと言うと、貴船は明るく清々しい森、鞍馬は薄暗く黒っぽい森…。植生が違うんやろけど、まるで陰陽。鞍馬は陰のパワースポットやと思う…」
鶴が妖しい笑みを浮かべた。
二人は魔王の滝まで来た。
石仏の下から流れ出す、細く小さな滝があり、水飛沫が岩に散っていた。
鶴の言う通り薄暗い森に囲まれ、茂った植物が滝を日陰にしている。
「ここは剣術の神様、鬼一法眼を祀ったお社。彼は最強の鬼の一人やった…。咲良ちゃんもお参りしよし。剣術をやる人が全国からここに詣でる。小さいお社やけど」
鶴に従い、咲良は小さな鳥居を潜った。
鬼一法眼は京八流なる剣術を残し、その彼から義経が兵法の書を盗んだ伝説がある。
鶴は彼が鬼だったと言う。
「鬼に参拝するとは思わなかった…」
咲良はためらいつつ、居合の上達を願って手を合わせた。
「どうか強くなれますように…」
すると、咲良の視界の隅で、何かが動いた。
魔王の滝の下で、黒い影が揺れたような気がした。
視線を感じて振り返る。
「う…、何か居る…」
咲良が小さい声で呟いた。
葉影や岩影が鬼の顔のように見える。
カメレオンみたいに、鬼が葉や岩の一部になりきっているように思う。
「何かが…さっきからついて来てるみたい…」
咲良は視線が自分に注ぐのを感じているが、誰にも言えない。
ぞわぞわ鳥肌が立ってきて、気持ち悪くなった。
ここの霊気は、どうも肌に合わない。
「この山…、絶対に鬼がいる…。お寺の結界の中に入り込んでる…」
咲良は心の中で確信した。
隆一は剣術の神様と聞き、
「どうする? 鬼に祈っちゃう?」
と、しゅとーん部の仲間を振り返った。
「いいんじゃないの? 別に」
「バカ、ここは仕方ないだろーが」
雨音、旭と狭い石段で押し合いながら、お賽銭を入れ、全員参拝した。
鬼一法眼社を出て、正面に由岐神社の楼門が見えてきた。
仁王門から奥の院・魔王殿までの間、たくさんのお社とお堂がある。
由岐神社は小彦名の神を祀る。
ここは火祭で知られたパワースポットで、咲良はマップに使う写真を撮った。
源義経が住んでいたのは、この由岐神社のすぐ上にあった東光坊。
今は代わりに供養塔が建つ。
その先は九十九折の参道を上って、頂上近くの本殿金堂を目指す。
男の子達は競い合うように、元気に坂を上がっていった。
4
鶴が本日の鞍馬山コースを説明する。
「本殿金堂でお参りして、義経の背くらべ石を見て、義経が修行した木の根道に行く。その次に、天狗が棲んでたという僧正ガ谷。不動堂にも参って、奥の院・魔王殿で護法魔王尊に参る…」
「魔王ー!? お寺なのにー!?」
咲良はびっくりして聞き返した。
さっきの暗い滝も、魔王の滝と言った。
「護法魔王尊やから、力の象徴ってことちゃう?」
鶴が話す。
鞍馬寺の御本尊は、千手観世音菩薩、毘沙門天、護法魔王尊。
八世紀、鞍馬山で鬼女に襲われた高僧が毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀ったことから寺の歴史が始まると言う。
「鬼女に…。へぇ…」
咲良はお寺の縁起の話に驚く。
話の最初から、鬼が出て来る。
元々、鬼が棲む山だったのか。
「毘沙門天は北方の守護神。平安京の北の守護が鞍馬やった。国宝の毘沙門天像は、本殿の次の霊宝殿で見れる。そこに、平安時代の刀匠・三条宗近の三鈷剣もあるよ」
鶴が語った。
お寺に狛犬というのも余り聞かない気がするけれど、鞍馬は毘沙門天の御使いの虎の石像がある。
本殿は心地よい風が吹き、よい眺めで明るく、春は名物の雲珠桜が咲く。
本殿の裏手に霊宝殿があり、そこからの展望は絶景だ。
咲良は山の海を見る。
連なる山の向こうに、また波のように山々が、そのまた向こうに山々がある。
更なる山向こうに、京都の市街地があるだろう。
その日は残念ながら、霊宝殿が休館だった。
三条宗近の三鈷剣が見たかった咲良は、とてもがっかりした。
二人は木の根道へ差しかかった。
古い大木の根が地面から浮き上がり、ヘビのようにうねっていた。
根が重なり合い、地面の皺のようになっている。
足元をよく見ないと、転んでしまう。
土の下に固い岩盤がある為に、このように木の根が出るらしい。
鞍馬では千種の自然植物が森を作る。
樫や椿、モミ、栂、杉など様々な木が生え、キノコも多く、生き物も多い。
多湿で鬱蒼としている。
「ここで義経は天狗と、剣術の修行をしたらしい。そんな雰囲気はあるね」
鶴が言った。
彼女達は義経の背くらべ石に着いた。
朱色の柵の中を覗く。
背くらべ石は中学生の咲良達より、頭一つ分以上低い。
義経は小柄だったらしいが。
「これ、元は磐座やったんかなぁ?」
鶴が言った。
背くらべ石は板状で、上部が三角になっている。
剣形と言えなくもない。
「確かこんなの、前にも見たよね。伏見稲荷の神山の剣石…。雷神を封じてあるとか言う…」
咲良が思い出した。
「清水寺にある地主神社の縁結びの石も、古い時代のものらしいね。下鴨神社のさざれ石も、相当古い年代。…ああいうのは昔、神様の依代やったかもね。この後行く鞍馬の奥の院も、護法魔王尊が降臨した時の磐座があるって」
鶴が木の根道の方へ戻る。
都会っ子の咲良は疲れてきた。
休憩がしたかった。
雨音達は女の子のペースに合わせ、だらだら歩いていた。
木の根道は一人ずつ歩くような細い道だ。
反対側から人が来たら、挨拶して互いに譲り合う。
道の両脇は木が茂り、蜘蛛の巣が張っている。
山の中にはスズメバチもいる。
「面倒な場所に来た…」
雨音は見通しのきかない、曲がりくねった道に溜息を漏らした。
「酒井さんの待つ奥の院まで、後少し…」
旭は考えていた。
5
「安部晴明が十二の鬼を封じた場所か…。咲良ちゃんは面白いことを考える。…五行相克って言うのがあるやん? 木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に克つ…って言うの」
突然、鶴が下り坂で言い出した。
「そやから、属性が水の鬼は土の中に、火の鬼は水の中に封印されたと違うかな? 安部晴明の護符は五芒星やろ。意味するところは、古代中国の宇宙観やな。愛宕は火の神カグツチを祀るから、愛宕に封印されてる鬼がいるとしたら、それは金属の鬼やと思う。剣の鬼とか。それで貴船・鞍馬が、龍神由来の水の聖地としたら、こっちは火の鬼が封印されてるかも…」
鶴が何故そんなことを言い出したのか、不思議だった。
彼女の声は男の子達までは届かなかった。
咲良は言葉を噛み締めた。
「剣の鬼と、火の鬼…」
二人は不動堂に着いた。
お堂の中の不動明王は見えず、外から参拝した。
お堂は鞍馬寺の菊の紋を染めた白布で、左右から包むように巻かれている。
「一息つこう。咲良ちゃん、しんどいやろ?」
隆一が咲良を気遣った。
男の子達も今日の天気で山歩きだから、汗いっぱいかいている。
不動堂の辺りは涼しい木陰。
「あと少しで魔王殿やで」
鶴は素知らぬ顔で先へ進む。
咲良は急いで追いかけた。
ここまで来たら、その魔王殿が見たくなった。
下り坂で踏ん張って歩くせいか、膝が痛くなってきた。
「不動堂の辺りが僧正ガ谷。ここが天狗の巣窟やで。あははは…」
鶴が高い声で笑った。
咲良は周囲を見回した。
「鬼が増えてきた…」
と、思った。
そこかしこ、葉影に岩影に、木の根の下、木の虚に、鬼の存在を感じる。
鬼は咲良に魅かれ、徐々に集まって来ている。
「なんで私の方ばかり見てるの…?」
咲良が鬼に問いかけた。
「咲良…、咲良…」
緑の葉が揺れて、葉擦れの声で囁く。
「なんで私の名前を知ってるの?」
咲良は木漏れ日も通さないほど茂った、木の枝先に問いかけた。
雨音が数メートル先に居て、時々振り返ってくれる。
彼女の後方にも旭と隆一が居て、心強い。
「咲良…。ようこそ、鬼の里へ…。ここは古くより鬼の棲む谷…、我等は……を守ってきた…」
葉擦れが囁く。
「何を守ってきたの? もう一度言って…」
咲良が頼んだ。
「…墓……」
鬼が答えた気がした。
雨音の目に、奥の院・魔王殿が見えてきた。
石造りの休憩所があり、向かいに小さなお堂が建っている。
木造瓦葺き、不動堂と同じように菊の紋の白布が巻いてある。
石のベンチで、帽子を目深に被った酒井がタバコをふかし、携帯の灰皿に灰を落としている。
「着いたよ…、咲良ちゃん…」
雨音は笑顔で、咲良を振り返った。
咲良の姿が見当たらなかった。
「あれ? 咲良ちゃーん!?」
雨音が呼んだ。
道を下って来るのは、旭と隆一だ。
「おーい、雨音ー。咲良ちゃんはどこー?」
旭が尋ねた。
「……あ!」
雨音が青褪め、ぱっと駆け出した。
無言で来た道を駆け上がっていく。
「雨音、持ってけ!」
酒井が追いかけてきて、雨音に黒いケースを投げた。
鬼切が入っている。
雨音は走りながら受け取った。
彼は飛ぶように険しい道を上がり、不動堂まで戻った。
途中、咲良と鶴を見かけなかった。
「見失った…。どこで…!?」
雨音はおろおろして、僧正ガ谷を見回した。
木が鬱蒼として、横道などない。
どこからか水音が聴こえる。
「異界に入った!?」
雨音は道を行き来して、異界の入り口を捜した。
「咲良ちゃん、居ないの?」
隆一と旭、酒井が心配そうに、彼を追ってきた。




