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壱玖 鬼を封じた門


「おまえはマナブを追ってる。何があった?」

 山上が雨音に尋ねた。

「中学の剣道部の先輩だっけ?」

 旭は少しだけ聞いたことがあった。


「はい。学年は三つ離れてますけど。僕にとっては憧れの先輩でした…。僕が中学の時、マナブさんは高校の全国大会で活躍してました…。僕が剣道を始める時、マナブさんが中学の時に使ってたものを一式、譲ってくれたんです…」

 雨音が話し出した。


 彼の両親は、赤ん坊の時に死んでしまった。

 以後、彼は父親の知人に育てられた。

 剣道をやってみたかったが、必要なものは全て消耗品で、中学・高校で何十万もかかる。


 マナブは裕福な家に生まれ、末っ子だった。

 ちょっと古くなっただけのものを、雨音に一式譲ってくれた。

 雨音にしたら恩があるけれど、マナブは顔見知り程度にしか思ってない。



 やがて、雨音は遠い親戚の養子になり、京都のスポーツ強豪校・R高に進学することになった。

 彼は東京を発つ前に、マナブの家に挨拶に寄った。


 三月、みぞれから変わった雨が降る、寒い日だった。

 雨音は同級生の友人二人と、ガタガタ震えながら、豪邸の前で二時間ぐらい待っていた。


 マナブには東大生の兄がいて、

「家の中で待ってていいんだよ。入って」

 と、声をかけてくれた。

 マナブは当時、家族でも何をしているか行動が掴めないほど、気紛れで変わり者だった。


 雨音と友人は遠慮して、家に入らずに外で待った。

 何度も鼻をかみながら。

 結局、彼の兄が言うには、

「今夜は帰って来ないらしい」

 ということだった。


「マナブさんに最後に会えなくて、残念だなぁ…。京都に行ってしまったら、滅多に会うこともないだろうし…」

 雨音は落胆した。

「いつか会えるんじゃないの? 剣道を続けてれば」

 新幹線の東京駅のホームで、見送る友人が慰めてくれた。


「そうだ。いつかマナブさんと会う時までに、剣道もっともっと強くなって、お礼が言えたらいいなぁ…」

 雨音は心の中で思った。




「マナブさんが殺人容疑で逮捕された時は、ショックでした…。そんなこと信じられない。子供を二人も殺したなんて、何かの間違いだと思いました」

 雨音は膝の上で、拳をギュッと握った。

 彼は、マナブが優しかった頃を知っている。


「マナブさんが逮捕されたと聞いて、僕は剣道どころではなくなってしまいました…」

 彼は初めて、苦しかった胸の内を語った。

 彼は高一になって数ヶ月で、剣道部を退部してしまった。

 才能があったので、先輩の蘇芳がずいぶん残念がった。


「そうやったんか…」

 山上は去年の、雨音がしゅとーん部に来た頃を思い出す。


 雨音は剣道が精神的に辛くなって、週に一回、居合の稽古をすることを選んだ。

 先輩の蘇芳や隆一には、申し訳なく思っていた。


「でも、僕の本当の父親が、剣道すごく強かったらしくて。今は死んだ父を目指して、僕も強くなりたいと思ってます。しゅとーん部と山上さん、旭さん、蘇芳さん達と出会えて、本当によかった…」

 雨音はやっと笑顔を取り戻したと言う。


「…マナブといつ再会した?」

 山上が話を現在に戻した。


「首塚神社です。マナブさんが斎王代を誘拐したり、咲良ちゃんに噛み付いたりするなんて…。以前のマナブさんは、全然そんな人じゃなかったです」

 雨音が再び、顔を曇らせた。

 脳裏に、再会の夜が思い出される。



 真暗の首塚神社の石段を駆け上がると、青い光の玉が夜空へ昇っていくところだった。

 旋風(つむじかぜ)が起き、境内の木々が揺れて葉をざわざわ鳴らした。

 葉が散り、雨音の髪を揺らした。


 参道に、咲良が血塗れで倒れている。

 旋風の中心に、全身青く光るマナブが浮かんでいた。


 角が生えて、片目が光り、鬼火を引き連れて妖しかった。

 咲良の肉を喰ったマナブ。

 正気を保っているとは思えない眼差し。

 こんな形で再会することになろうとは。


「マナブさん…!! オレのこと、覚えてますか!? わかりますか? …マナブさん…!!」

 雨音が切ない思いで、夜空に向かって叫んだ。


「源次……、その刀は何だ…? 人間の分際で…、本気で(オレ)を斬ろうって言うのか…?」

 マナブは雨音を源次と呼び、千年過去に目を向けていた。

 鬼神は愛宕の方向へ飛んでいった…。



「憧れの先輩か…。バカだなー、雨音」

 旭の声が、雨音を回想から現実に引き戻す。

鬮川(くじかわ)マナブか。聞いたことあるよ。…で、今のおまえが、高校で剣道してた頃のマナブと十本勝負したとして、何本ぐらい取れそうなの!?」


 雨音はしばらく考え、正直に答えた。

「さぁ…。一本も取れる気がしませんね…」


 山上は呆れ、深い溜息をついた。

「事情はわかった。厄介やな…。おまえはそれでもマナブを斬れるんか!? そんな感傷的な気分引き摺ってて、鬼になるのはおまえや」


「斬れます。僕がやります」

 雨音が強い意志を見せ、断言するが、

「マナブから一本も取れないのに? 甘いな。勿論、鬼になってから、格段に強くなってると思うぞ」

 旭が厳しい指摘をした。





 蘇芳は人生で一番恐ろしい経験をした。


「紅葉ー、夕食出来たって。食欲ある? 食べれそうかー?」

 蘇芳が妹の部屋をノックする。

 返事がなかった。


 もしかして、鬼に襲われてる!?

 酒井から変な警告を受けたばかりだったので、蘇芳は心配し、勢いよくドアを開いた。



 妹の部屋の床に、鳥の羽が散っている。

 リビングで飼われていた大型のインコの羽。

 鮮やかなグリーンやレモン色の、南米のジャングルから来た美しい色の羽。

 何故、鳥の羽が散っているのだろう?

 猫に追い回されでもしたか?

 紅葉の飼う猫はおとなしくて、インコを追い回したりしない。



 紅葉が廊下側に背を向けて立ち、何かをムシャムシャ食べていた。

 お行儀悪く、立ったままバナナでも頬張っている感じだ。

「何を食べてるの、紅葉?」

 蘇芳は呆然と、声を掛けた。


 振り向いた紅葉の口元が血だらけで、手には腹を喰われたインコが握り締められていた。

 インコがピクピクと痙攣している。


「おにぃ…」

 紅葉が血に汚れた歯で、可愛らしく微笑んだ。


「お腹が空いて、我慢出来ひんかったの…。お昼に用意してた食べ物を、置いてきてしもて…」

 鶴は岩牢のコマチのことを思い出し、言った。



 数十秒、蘇芳は何も言葉に出来なかった。

 頭をガンと殴りつけられたようで、整理出来ない。


 この紅葉に違和感を感じたが、別人だという発想まで至らない。

 妹が突然狂ったように思う。


 気付くと、彼の足元に猫の死骸があった。

 外傷はないけれど、精気を吸い尽くされた猫はシワシワに萎んでいた。

「…これが鬼の仕業か!?」

 蘇芳は勘違いし、部屋の中を見回した。

 紅葉を守らなくては、と思った。


 蘇芳は竹刀を置いてきたことを悔やんだ。

 彼は紅葉を庇って、彼女に背を向けて立った。

「鬼、出て来い!!」



「ここに居るけど。バレてしもたか…」

 蘇芳の背後から、紅葉の声が答えた。

 鶴はぴたっと、蘇芳の背中に寄り添った。


「鬼…に憑りつかれたんか、紅葉!?」

 蘇芳の身に鳥肌が立った。


 鶴は蘇芳の背後から前に手を回して、彼の肩に頬を付けた。

「バレたら仕方ない…。もらうもんだけ、もらいます」

 鶴の右手が蘇芳の顎にかかり、つるっと下から上へ、顔を撫で上げた。


「うわぁっ!!」

 蘇芳は顔を両手で押さえ、床に膝を着いた。

 顔が熱く溶け出し、消えるような感覚があった。




 蘇芳は鬼女・鶴の夢に捕らわれた。


 彼は胸の辺りをロープでぐるぐると縛り付けられ、天空から吊るされている。

 足元に広がる絶景、緑の峡谷。

 崖は百メートルほどあり、河は緩やかに流れている。

 河の色はラピスラズリを溶かしたような、鮮やかな青。


「ここ…、どこなん…? これは…夢…!?」

 蘇芳が周囲を見回した。


 彼の真後ろに紅葉がいて、ロープに片手を掛け、吊られている蘇芳を揺らした。

 蘇芳の視界にチラチラ入るのは、制服姿の紅葉の、服の一部と長い髪。

 それから、奇妙に長い爪。

 青白い肌。華奢な肩の輪郭だ。


「紅葉…。あんた、鬼に乗っ取られてしまったんか?」

 蘇芳が聞く。

 紅葉は何も言わない。


 そのうち、紅葉が振り向いた。

 風に乱れる髪の隙間から、卵型の白い顔が見えた。

 つるつるの、のっぺらぼう。

 眼も無ければ、平たくて鼻も無い。

 返事をする口もない。


「うわっ!!」

 思わず、蘇芳が叫んだ。



 明るい空が閉じ、眼下の渓谷も消え失せた。



 次に目に入った景色は、暗い路地だ。

 両側に、瓦が載った漆喰(しっくい)の塀が続く。


 深夜、草木も眠る丑三つ時。

 都大路は暗闇に閉ざされている。

 月もない。


 何かをずるずる引き摺る音、読経のような声、ざわめき、足音…。

 目には見えない一行が近付いて来る。

「鬼だ…!」

 蘇芳は橋のたもとに隠れた。


 鬼の集団が橋に差しかかる。

 霧の中から現れ出でて、影がぼんやりと形を取り始める。

 鉾を担いだ小鬼、旗を持った小鬼。

 平安時代の装束を着ている。

 獣の鬼、ツクモガミ、のっぺらぼうの女。

 長い一角の老鬼、四つん這いで歩く鬼…。

 異形の恐ろしい鬼達。


 シャリーン、シャリーン…。

 山伏の格好に、背中に翼を生やした天狗の、美しい錫杖が鳴る。



 百鬼夜行。

 蘇芳は息を殺して、鬼の群れを見詰める。


 橋のたもとにもう一人、誰か居る。

 その人間も顔青褪めて、鬼が通り過ぎるのを待つ。

 濃紅の長袴を履き、小袿を着た平安貴族の少女。

 長い髪を束ねている。


 蘇芳はふと気付く。

 少女の横顔は咲良に似ている。

 彼は少女の傍に寄り、

稚桜(わかさくら)。鬼に気付かれたら、連れて行かれますぞ…」

 と、囁いた。


 蘇芳は自分でもびっくりしたが、いつの間にか、彼も青い武官装束を着て太刀を()いていた。

 咲良は慌てて振り返り、蘇芳を見て、

「しぃっ、義兄上(あにうえ)さま。声を出したら、鬼に見つかってしまいます…」

 と、口に人差し指を当てた。


 彼女は蘇芳の妻の妹だ。

 鬼に攫われた姫とは、蘇芳の妻だ。


 これは夢だ。

 夢の中、蘇芳は自分が誰だかわからなくなり、混乱した。



 シャリーン、シャリーン…。

 天狗が錫杖をつき、橋を渡っていく。

 天狗の隣りをゆく、背の高い鬼はマナブに似ている。


 二人の長身の鬼の間に立ち、豪華な着物で歩く娘は…。

「紅葉…!?」

 蘇芳が目を見開き、声を漏らしてしまう。

 あれは妹だ。


 紅葉は瞼に青いアイシャドゥを塗ったように、顔が死人じみている。

 額には、小さな角。そして、三角に尖った大きな耳。

 長い髪には妖気がまとわりつき、髪の先が広がっている。



 マナブに似た片目の鬼が、蘇芳の声を聞き付けた。

 天狗も、高下駄を履いた足を停めた。

 マナブと天狗、よく似た顔の鬼が橋の上からこちら側を見た。


 マナブは鬼の金棒のような、ごつさのある長刀を肩に担ぐ。

 錫杖の天狗は、マナブの長兄だ。

 弟に負けず、美しい顔をしている。


 マナブは蘇芳に、

「死して怨みにより、よみがえった…。おことの妻を()み、鬼となった…」

 と、告げた…。


 蘇芳はショックで、頭がクラクラした。

 妻を喰った!?




 蘇芳が夢から覚めた。


 彼は日常の中に戻り、家族団欒の食卓にいた。

 横に紅葉、向かいに父と母が座り、みんなで夕食をとっている。

 彼は目が覚めたのは、スープを掬ったスプーンを口に入れた瞬間だった。


 起きたまま寝ていたのか、いつ目覚めたのか、何もかわからない。

 不思議な感覚。


 彼は身を硬くして、隣りの紅葉を意識した。

 じわじわ恐怖が込み上げた。

 インコの腹を、生で齧っていた妹はどうなった?



 父と母が会話し、笑っている。

 紅葉も普通に話に加わっている。

 蘇芳だけが黙り込み、ダイニングからリビングの方向をそっと窺った。


 インコの白い鳥籠は…空っぽだった。

「やっぱり…」

 インコが居ない。


 蘇芳は緊張しながら、妹をそっと見た。

 紅葉は赤いトマトを口に入れ、

「おにぃ、美味しいね…」

 と、不気味に微笑んだ。


「う…、ごちそうさん」

 蘇芳が席を立った。

「蘇芳? どうした?」

 父親が尋ねた。


 蘇芳は逃げるように、

「何でもない。…テストがあるから、勉強するわ」

 と、その場から出た。





 翌日になっても、コマチと神谷先生は行方不明のままだった。

 死者や行方不明が多発した咲良のクラスは、突然数日休みになった。


 咲良は紅葉とSNSで話した。

 その時、偽物の紅葉に、特に違和感を感じなかった。



 土曜。

 咲良が居合の道場へ行った。


 咲良の怪我は順調に回復したけれど、雨音が額に絆創膏、左腕と手の甲に包帯を巻いていた。

「紅葉ちゃんはどう? いつもと変わりない?」

 雨音はあの紅葉が鬼だと知っている。


「うん…。疲れてるみたいだよ」

 咲良も元気なかった。

「ああ。…憑かれてるみたいだよね」

 咲良と雨音の会話が噛み合ってない。



 今日、咲良は抜刀と納刀を習う。

 道場が貸してくれたのは、亜鉛合金の模擬刀。

 慣れてきたら、鋼の真剣も貸してもらえる。



 旭が鯉口を切り、右手で刀を押し出しながら、左手で鞘を引いていく。

 ゆっくり抜いていきながら、最後に腰を左に切る。

 腰を回した分で切先が抜け、鞘からピンッと飛び出す。


「右手で抜くんじゃなくて、全身の動きで抜くこと」

 旭の抜刀は、うまいと言うより美しい。

「動作の起こりなく抜き始めること。肩が上がったり、ビクッとした一瞬の動きで、タイミングを読まれてしまいます。ゆっくりした動きから速くなることを、序破急(じょはきゅう)と言います」


 咲良は旭の掌を見せてもらった。

 彼の手は予想に反して、マメがない。


「膝をもっと曲げた方がいいですか?」

 咲良が居合型を抜く人達を見て、質問した。

「重心と膝は別。敵の刀を受ける瞬間は、体全体が低くなる。その場に止まらないように。次の動きが遅れます」

 旭が先生の動きを見ながら話す。


「先生みたいな体型の人が強いんですよ。小柄で重心低め、胴回りががっしりしてる。大柄な人の斬り下ろしは重い。ガツンと来る…」

「力の差で吹っ飛びませんか?」

 咲良が心配した。

「受け流すのも、強い筋肉と技術が要りますね。咲良ちゃんはパワーの代わりに、体重を使ってみて下さい」


 旭は丁寧に抜刀、納刀を教えた。

 まだぎこちないが、そのうち咲良も慣れてくるだろう。



 休憩時間、旭が雨音に話しかけた。

「どうあっても、咲良ちゃんと鬼を戦わせるわけにはいかないな。咲良ちゃんは鬼に狙われてるみたいだけど。どうするか…」


 咲良は会話が聞こえたのか、

「十二の鬼が封印されてた場所を探してみませんか? 状態を確かめて、まだ鬼が復活してなかったら、山上さんの知り合いの霊媒師さんに封印をやり直してもらえばいいと思う」

 と、横から提案した。

 彼女は琵琶湖のヌシに、十二の鬼が封じられた門を探せと言われたのだ。


「えーっ!! そんなの、飛んで火に入る夏の虫って言うんじゃ…」

 旭が焦った。


「どうやって探すの?」

 雨音が尋ねた。

「紅葉ちゃんと私で、京都のパワスポマップを作ってるんです。ついでに鬼が封印されてそうなとこを探してみます…。明日どこか行こうって、紅葉ちゃんを誘ってみよう」

 咲良がスマホをリュックから取り出し、偽物の紅葉にメッセージを送った。





 その頃。

 本物の紅葉とコマチ、神谷先生は異界を彷徨っていた。


 魚の小鬼はゴンドラを漕ぎ出したが、紅葉が鬼女・鶴でないと見抜いてしまった。

「逃がしてやってもいいが、何か体の一部をくれ」

 鬼らしい要求をしてきた。


 紅葉は腹を括り、魚の小鬼の小刀を借りて、自分の長い髪を肩先で切った。

「これでいい?」

 紅葉が美しい髪を渡すと、小鬼が喜んだ。

 神谷先生は頭を垂れて、

「紅葉、すまん。俺達の為に…。俺は何も出来ひん。守ってやらなあかん立場やのに…」

 と、涙ぐんだ。



「みんな、心配してるやろね。ママ、泣いてるかも…」

 コマチは時間がかかっていることに、焦りを感じ始めた。

「元の世界では、どのくらい時間が経ってるんやろ? うちの奥さんと子供も、心配してるやろな…」

 神谷先生も家族が気になっていた。



 小鬼が降りてしまい、ゴンドラには三人だけ。

 神谷先生が(かい)を操り、暗黒の河をゆく。


 異界についてから、紅葉の感覚では半日程度。

 少し腹が減ってきた。

 空から木の根っこが垂れている、ということはまだ地底を脱出出来てない。


 小鬼の説明によると、元の世界の出口なんてわからないと言う。

 気紛れにどこかと繋がるだけだと。


 紅葉達はひたすら念じ続けた。

 家の近くに出たい。

 早く帰りたい。

 たまらなく不安だった。



 雲の中を進み続け、ようやく白い霧が見えた。

 紅葉は出口が近いことを直感した。

「ああ、どうか神様。知ってるとこに出ますように…。なるべく普通の、現代の京都市内でありますように…」


 紅葉の願いが通じたのか、ゴンドラがどこかの岸に着いた。

 三人はゴンドラを降り、祈りながら霧の中を進んだ。

 白い光が目の前に近付いてきた。


「出口かな…?」

 神谷先生が緊張を抑え、そっと光の中に入っていった。


「…紅葉、コマチ。…外や、元の世界みたいやで!!」

 先生の胸に歓喜が湧き上がった。

「やったー!!」

 コマチが走り出し、光を潜った。

 紅葉も笑顔で続いた。



 萌黄(もえぎ)のトンネルが見えた。


 三人は大きな木の(うろ)から、元の世に飛び出した。

 樹齢数百年の大木が、根本から高さ2メートルぐらいまで、中心がぽっかり失われて虚が出来ていた。

 大人が入れる大きさだ。

 その虚に、異界の出口が開いたのだ。



 杉の古木は苔が生え、樹皮が緑がかっていた。

 周辺は、朝露に濡れた若葉の森。

 目が覚めるほどの、瑞々しい鮮やかな萌黄。

 野鳥の(さえず)りが聴こえる。


 二車線の、それほど幅広くない道がゆるりとしたカーブを描き、楓の森の中を通る。

 それが木漏れ日の差す、萌黄のトンネルとなっている。

 道は細い川に沿って、なだらかな坂になっている。



貴船(きぶね)や! 坂を上ったら貴布禰(きふね)神社の奥宮で、坂を下ったら貴船口駅や…!!」

 紅葉はその場所がわかって、嬉しくて叫んだ。


 京都市の一番北の北だけれど、叡山電鉄に乗れば、三十分ぐらいで出町柳。

 彼女の家まですぐ帰れる。


「貴船か…。雨が降った後かな。綺麗やなぁー」

 神谷先生も場所がわかり、ホッとした。

 貴船は紅葉の名所。夏は蒸し暑い京都盆地だが、ここは夏も涼しい。


 コマチは貴船に来たことがなかったので、道沿いの景色に感動した。

「めっちゃ綺麗やん…。こんな綺麗なグリーンの世界、初めて見る…」

「咲良ちゃんに見せたかったわ。きっと、コマチと同じことを言う…」

 紅葉は咲良が一緒でないことを、残念に思った。


 紅葉はスマホで家族と連絡を取ろうと思った。

 でも、鶴が持って行ってしまって、財布もスマホも見つからなかった。



「場所もわかったし、急いで帰ろう…」

 神谷先生が坂を早足で降っていく。


 辺りには老舗の料理屋が並んでいて、川床も張られている。

 朝早い為、開いている店はない。

 観光客も時間的に、まだ来ていない。


 三人は犬の散歩をしている人に出くわした。

「すみません。今日は何年の何月何日ですか!?」

 神谷先生が聞いた。

 タイムスリップしてきた未来人のような質問だ。

 紅葉達が京都国立博物館で鬼に攫われたのは、六月四日。


「○○年六月九日ですよ」

 犬を連れた人は笑いながら答えた。


「嘘っ! もう五日も経ってるやん!! 今日、日曜日!?」

「ヤバい!」

 三人は大騒ぎした。

 神谷先生は学校を欠勤したこと、奥さんが激怒していることを想像した。

 コマチは家族やクラスメートのことを心配し、紅葉は咲良がどうなったかを最初に思った。


「急げ!」

 彼女達は爽やかな朝風の中を走り出した。



 しかし、マイナスイオンに溢れた清浄な空気が、地底から戻ったばかりの紅葉達とぶつかって、突然何かがモコモコと生えてきた。

 黒いマダラのキノコが、彼女達の皮膚や服から生えてきて、次々と弾けた。

「な、何、これ…」


 ブクブクとキノコが生えてくる。

 弾けたキノコの煙から、小鬼が一匹ずつ生まれた。

 小鬼はどんどん無限に生まれ続け、周囲に溢れていった。



 紅葉は、あの世から戻ってきたイザナギ命が川で身を清めた話を思い出した。

「どっかで清めよう。さっきの木の虚の近くに、思い川の橋がある。あそこの水で…」

 と、キノコをはたきながら言った。


 紅葉達はまた走って、湧水のある場所まで引き返した。

 湧水は絶大な効果をもって、小鬼の生まれるキノコを消滅させた。



 貴船は全体が清らかなエネルギーで満ちている。

 ずっと川のせせらぎと野鳥の声だけが聴こえている。

 咲良と作るパワスポマップに、この貴船をぜひとも乗せたかった。

 貴布禰神社は紅葉の最も好きなパワースポットの一つだ。



「コマチ、貴布禰神社の縁結びに願かけて行くか? 夫の愛を取り戻そうとして参拝に訪れたのは、小野小町と違って和泉式部の方やけどな」

 紅葉がコマチに言った。


 貴布禰神社の(ゆい)の社は縁結び。

 祭神はコノハナサクヤヒメの姉神、イワナガヒメ。

 ニニギ命に妹と嫁いだが、桜の花の女神である妹だけが愛された。

 イワナガヒメは多くの人に幸を授けようと、ここに鎮座された。


 その祠の後ろに、大きな(かつら)の木がそびえている。

 冠に葛の葉を挿すのは賀茂大社の葵祭だが、貴船にも葛の御神木がある。

 根元から小枝がびっしりと生えて若葉を付け、太い幹からも、空に届く高さの細い枝からも、勢いよく芽吹いて葉を付けている。

 大地のエネルギーを噴出するような霊木である。



「水占やってく? コマチ、好きそうやん」

 紅葉が聞いた。


 各地にある貴船神社の総本宮として、とても有名だけれど、こじんまりとした神社だ。

 貴布禰神社本宮に参拝したら、水占のおみくじを買える。

 独特のおみくじを神社の水に浮かべると、文字が浮き上がる。


 祭神はタカオカミノ神。

 オカミは雨に口三つ、龍と書く字で、雨乞いの龍神。

 昔、神社の下に洞窟があり、龍が棲んでいたという。



「紅葉…。奥宮て何?」

 コマチが坂をどんどん上っていく。


「コマチ。そっちは駅と反対方向やで。奥宮も同じ、タカオカミ様やで」

 紅葉がコマチを追った。

 奥宮が元々の神社があった場所で、神が鎮座したのは極めて古く、古墳時代のことらしい。



「コマチー。勘弁してーな。早く帰らんと…」

 神谷先生が苛立ちながらコマチを追った。


 道の傍に相生(あいおい)の巨木があり、二本の杉が根元で一つに繋がっていた。

 その先に奥宮の鳥居が見えた。

 更に緑の濃い世界が存在する。


「紅葉。コマチの様子、何か変やな…」

 神谷先生が気付いた。

「はい…」

 紅葉が頷いた。


 コマチは泣きながら、坂を歩いている。

「どうしたん、コマチ?」

「わからへん…」

 コマチは涙が止まらなくなって、手で拭いながら鳥居を潜った。





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