壱弐 宇治・平等院と異界
1
首塚神社の戦いで、マナブを短剣で刺した咲良。
怪我が治って学校に来たものの、学校の空気はカエルの毒気で濁っていた。
担任の先生が血を吐き、咲良は菊井と向かい合った。
「菊井くん、お祓いとかする気ない? 体調がよくなるかも知れないんだけど…」
咲良が言った。
「クックッ、クックッ…。咲良ちゃんの剣術の腕じゃ、僕を殺せないよ…ケロッ」
菊井がスマホのゲームをしながら答えた。
「私の腕をどこで見たの? 首塚神社で?」
咲良は突然、彼が憎らしくなった。
彼はもう菊井じゃない。
昼休みに、コマチが紅葉に内緒で、
「うちらのクラスから一人、死亡者出たよ」
と、告げた。
「えっ、誰!?」
紅葉が聞き返すと、コマチが最近休んでいた女子生徒の名を言った。
国語の先生が鼻血を出して倒れた時、保健室まで付き添った優しい女の子だ。
「あの子が…。死因は?」
紅葉の胸が痛んだ。
「原因不明。死ぬ人、もっと出るかも。菊井くんはどこからあの病気を持って来たん? ね、紅葉。私に何か出来ることない?」
コマチが紅葉の顔を覗き込む。
紅葉は咲良を振り返り、話すかどうか迷う。
「これ、私の連絡先。登録しといて」
コマチがメモを渡した。
昼休みが終わる頃、コマチの取り巻き女子が数人、紅葉のところにバタバタ走ってきた。
「紅葉、助けて!! コマチが…!!」
紅葉と咲良は学内のカフェテリアで、紅茶を飲んでいた。
「どうしたん!? そんなに慌てて…」
コマチの取り巻き女子は慌てて、バラバラに喋った。
「コマチが菊井くんに連れてかれた!!」
「菊井くんがいきなり、コマチの腕掴んで…」
「コマチが…紅葉を呼んできてー、って…」
「ええっ!!」
紅葉と咲良が叫んだ。
「菊井くんがお姫様を生贄にするとか言って…。マチちゃん、あだ名が小野小町やから…」
「理由、それなん!? コマチ、危ないんとちゃう!?」
紅葉が咲良を振り返った。
「助けに行こう!」
咲良が決断した。
紅葉がさっき聞いたばかりのコマチの連絡先に、
「コマチ! 今、どこにいるの?」
と、送信した。
数分後、コマチの連絡先から、菊井が返信して来た。
ゲーム音楽がタッタリラーと鳴って、あかんべぇーする男の子の絵が出た。
「平等院に来て…」
カエルの絵がぴょんと跳ね、メッセージが消えた。
「…平等院って…、ゲームの聖地とちゃうんか、菊井くん?」
紅葉が悔しそうに呟いた。
午後の授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。
紅葉はコマチの取り巻き女子に、
「君らは授業に出て」
と言い、菊井の隣りの席の江津に向かって、
「…江津くん! 一緒に来てくれへん!? 君は菊井くんの毒に免疫あるやろ!?」
と、協力を頼んだ。
江津は露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒臭いって…」
「まあ、そう言わんといて!」
紅葉が江津の手を引っ張り、咲良と学校を出た。
そして、駅に向かって駆け出した。
「咲良ちゃん、護り刀は持ってきた!?」
紅葉が聞いた。
「持ってるよ!」
咲良は固い表情で、紅葉に返事した。
2
京阪宇治駅で降り、宇治橋を渡った。
橋のたもとに、紫式部の像がある。
源氏物語と宇治茶の町。
咲良は宇治橋の高欄を見て、一条戻り橋のイメージが湧いた。
「そうかぁ…、紅葉ちゃんの言ってた意味がわかったよ。こういう橋のイメージだったんだね…」
宇治橋は幅が広くて長いので、一条戻り橋と規模が違うけれど。
ここは歴史的な橋を意識して復元している。
古色の檜造りで、欄干には古い擬宝珠を使い、とても趣がある。
最初に橋が架かったのは奈良時代。
今も昔ながらに、橋姫を祀るという張り出しがある。
紅葉達は流れの速い宇治川を見た。
鵜飼で有名なこの川は、水も澄んでいる。
橋に祀られている橋姫は、元々、川の神である。
宇治川は度々、洪水を起こす。
一方で、橋姫の物語は水神とは少し違う。
嫉妬に狂った公家の娘が、恋敵の女に憑りついて殺す話。
ある姫が貴船神社に通って、鬼になりたいと祈り続ける。
そして、頭に松明を付けた鉄輪を被り、顔と体に赤い顔料を塗って、松明をくわえた。
丑の刻参りの原点である。
鬼さながらの恐ろしい格好で、夜中の都大路を走って、宇治川に浸りに行った。
冷たい宇治川で、恋敵の女を呪い続けて、姫は遂に本物の鬼になったと言う。
恋敵と、心を移した男を祟り殺した。
紅葉と咲良は鬼女の話をしながら、平等院の参道へ入った。
「能の鉄輪では、安倍晴明が鬼女に呪われた男女を救う話になってるらしい。つまり、ハッピーエンド」
紅葉が説明した。
「オンナは怖い…」
江津が言った。
咲良はイメージを膨らませた。
能面に橋姫がある。
白い顔に乱れた髪が張り付き、その一本一本が描き込まれている。
眉間に深い皺を刻み、頬がこけ、金色の眸を爛々と輝かせている。
般若とはまた違う。
もっとリアル。
お歯黒で、頬がこけて法令線を刻んだ、嫉妬深そうな女の顔だ。
女は嫉妬に我を忘れ、恨みしか頭になさそうだ。
恐ろしいのは、鬼ではない。
人間の執着だ。
「向こうの橋が朝霧橋。手前が橘橋」
紅葉が指差した。
宇治川の中州、橘島と塔の島。
塔の島は、十三世紀に建てられた石の十三重の塔がある。
供養塔である。
橘島と対岸を繋ぐのが、長い朝霧橋。
朱塗りの高欄に緑青色の擬宝珠、とても美しい橋。
橘島と平等院側の岸を繋ぐのが、橘橋。
朝霧橋よりシンプルな木造の橋で、擬宝珠がなく、雰囲気はかなり違う。
宇治川沿いに、松林の遊歩道がある。
平等院へ向かう道は、新鮮なお茶がぷーんと香る。
苦みと甘みの、宇治茶の香り。
あちこちに老舗の茶葉店があり、茶そば、抹茶スィーツの店も並ぶ。
コマチのことがなければゆっくりしたいところだが、紅葉達は先を急いだ。
3
平等院は長らく色褪せていたけれど、平成26年、鳳凰堂の改修工事が終わった。
池に鏡のように鳳凰堂を映し込む、左右対称の姿が生まれ変わった。
朱塗りになったが、その朱色がちょっと違う。
「暗めの紅な。ええ色やわ。格式ある感じがして、絵的に引き締まる。他の寺社の朱色と、わざと変えたところが個性的でええんちゃう?」
紅葉が囁く。
灰色の瓦と漆喰に、鮮やかな紅だけれども、しっとりと落ち着いて見える。
屋根の上には、文字通り金ぴかの鳳凰が立つ。
本物の平安時代の鋳物の鳳凰は、平等院ミュージアムにある。
「菊井くんも、コマチもいいひんなぁ…」
三人は菊井を捜して、観光客を目で追った。
制服姿の紅葉達も、傍目には修学旅行生みたいだ。
「…咲良ちゃん、ミュージアム入らへん? 私、あの鳳凰の顔が好きやねん。仏師定朝の作品でな…」
紅葉が咲良を誘った。
咲良はコマチと菊井が心配で、こんな時に…と思ったけれど、
「紅葉ちゃん、酒井さんと話が合いそうだよね」
と、後について行った。
咲良は鳳凰の顔がどうとか、全く興味なかった。
ミュージアムの中では、鳳凰堂(阿弥陀堂)の入り口、扉の装飾から天井の壁画、天女達、仏達が再現されていた。
そして、薄暗い中に、千年の鳳凰がガラスケースに入れられ、展示されていた。
「うわっ。意外にスゴイかも…」
圧巻の鳳凰に、咲良は釘付けになった。
鶏のような顔だと、ずっと想像していた。
間近で観ると全然違う。
正面から向き合うと、伝説の神獣であることに納得がいく。
眉のようになっている部分が盛り上がって、相手を威嚇するように睨んでくる。
鶏冠や、顔の周りに龍のたてがみのようなものがある。
嘴があり、馬のような耳もある。
胴体は鱗のようで、翼を広げ、尾羽が高く立ち上がり、猛禽類のような力強い足までも生き生きとして、今にも動き出しそう。
「よく見て。右の鳳凰と左の鳳凰、違うやろ? オスとメスらしいで」
紅葉が言う。
「えっ、性別あるの!?」
咲良は衝撃を受けた。
狛犬の阿吽のように、鳳凰も左右違う形で一対になっているらしい。
「ここにも、菊井くん居てへんなぁ…」
紅葉達がミュージアムを出た。
ついでに、パワスポマップの為の写真を撮ろうということになった。
紅葉は咲良と江津を鳳凰堂の近くに立たせ、スマホのシャッターを押した。
「ふふふ、結構絵になってるで。君ら」
紅葉は楽しそうに写真を見た。
江津は女の子みたいな顔で、咲良と並べても絵になった。
「ドラマのロケみたいやな」
紅葉は勝手にストーリーを作って、想像した。
「現代版・橋姫な。私が鬼女で、咲良ちゃんが巫女さんで、江津くんが鬼に殺される役な…」
「やめてー。俺、死ぬん?」
江津が本気で嫌がった。
写真を確認している時、紅葉ははっとした。
写真の江津の斜め後ろに、観光客に混じって、菊井が映っている。
紅葉は慌てて、周囲を見回した。
「菊井くん、居たっ!!」
紅葉が菊井を見つけた。
菊井はコマチの手と繋ぎ、ぱっと駆け出した。
コマチは夢遊病のように、ふらふらしている。
「コマチー!!」
「菊井くーんー!!」
紅葉と咲良が走り出した。
江津は見失わない程度に小走りで、二人に続いた。
菊井がゲラゲラ嗤いながら走っていく。
彼は何度も、人とぶつかった。
他人を突き飛ばし、押し退け、
「ははは、はは…。ケロケロッ…」
菊井の嗤いが聞こえた。
彼は宇治川沿いの遊歩道へ入った。
松林の陰で、見えないトンネルの入り口に吸い込まれるように、菊井とコマチが消えた。
紅葉達は菊井を見失い、
「どこに消えたん? 隠れるとこなんかあらへんで…」
と、松の木の周りをぐるぐる回った。
「コマチさーん!!」
咲良がコマチを呼んだ。
紅葉と咲良がとても慌てているのに、江津は、
「たぶん、夜まで出て来ぅへん。生贄やろ? 夜を待ったらええねん…」
近くの店に入って、抹茶ソフトクリームをテイクアウトして来た。
抹茶とほうじ茶の二種類のソフトクリームに、白玉とたっぷりあんこが載ったワッフルコーン。
「それ、一人だけ反則やんー!!」
と、紅葉が怒った。
結局、彼女達もソフトクリームを買った。
三人で抹茶ソフトを食べながら、宇治川の中州へ渡る。
「江津くん、学校休んでる間、どうしてたの?」
咲良が聞いた。
江津は照れたように笑った。
「全然覚えてへんねん。…ずっと微熱あって寝てて…、夢を見てた」
「どんな夢?」
紅葉が聞いた。
江津は虚ろな視線で、石塔を仰いだ。
「んー…、鬼が出て来た…。鬼って言っても、昔話の赤鬼・青鬼みたいなのと違って…、なんかもっとリアルなやつ…」
「なまはげみたいな?」
咲良が例えて言う。
「あっ、そんな感じ。リアルに人間が鬼になったような…。動きとか、長い髪振り乱して暴れるとことか、そんな感じ…。違うのはこう…、ピカッと雷が……」
江津の手が震え、ソフトクリームが溶けて、ワッフルコーンから滴った。
江津はしばらく無言で、口をぽかんと開いていた。
「ソフト、溶けちゃうよー? 江津くん?」
咲良が呼んでも、江津が返事しない。
紅葉も、彼の様子がおかしいことに気付いた。
江津の口がピクピクと、小刻みに震えた。
「鬼…。鬼が来る…。地獄の…鬼が…」
江津は聞き取れないほど微かな声で、ぶつぶつと何か言った。
「…考えろ、人間ども…。何故、千年の時を超え…、鬼がよみがえるのか…。何の為に…、鬼が眠っていたのかを…」
江津が激しく手を震わせ、ソフトクリームがポタポタ地面に落ちた。
「江津くん? 大丈夫? どうかしたん?」
紅葉が江津の肩に手をかけた。
江津がばっと手を払った。
「聞け、人間ども…。ここから先、…鬼は骸の山を築く…。その為に、鬼が戻ってくる……」
江津が可愛い顔に似合わない、低音のふてぶてしい話し方で紅葉に言った。
彼の眸から、青い炎が零れ出ていた。
「江津くん…」
咲良が凍り付いた。
「案内してやる。ついて来い…」
江津が江津でなくなっていた。
彼の眼窩は、目玉がないみたいに暗い影になった。
「行くよ、咲良ちゃん」
紅葉が咲良の手を取り、咲良も頷いた。
江津が朱色の朝霧橋に向かう。
「橋は…鳥居や門と同じ…。異界へ繋がる道かもな…」
紅葉が呟いた。
4
橋の半分まで来た頃、川に霧が溢れ出した。
冬の朝は川霧で、橋も島も見えなくなる。
しかし、今はそんな季節でもない。
霧が濃くなり、前が見えなくなった。
「橋の向こうは、宇治神社…。大王の位を弟に譲って自殺した皇子を祀ってる…」
紅葉が咲良に言った。
江津が霧の中で二人を振り返り、
「そんなん、嘘に決まってる。殺されたんや、勿論」
と、呟いた。
「歴史って言うのは、残酷で。勝った方が好きなように記録して遺す。実にうまいこと、自分だけが正しいみたいに宣伝してな……」
確信して、江津が皮肉を込めて言う。
彼等は橋の対岸側に着いた。
しかし、宇治神社はなかった。
彼等は異なる場所に着いた。
目の前に竹藪があった。
霧が深くて、他は何もわからない。
笹の下、ガサガサと動く獣の気配がした。
咲良と紅葉の心臓が大きな音を立てていた。
二人は互いに手を強く握り締め、恐怖を抑えていた。
霧が広い池から流れてきた。
古代蓮の白い花と丸い葉が、水面に浮いている。
池の向こう、ぼんやりと建物の影が見える。
大屋根の反りと傾きから、寺社だと紅葉は判断した。
江津は池の前に跪き、
「紅葉姫と咲良姫を連れて参りました」
と、恭しく頭を垂れた。
池の中央の岩に、菊井と一つ目の小鬼がいた。
「菊井くん! コマチはどこー!?」
紅葉と咲良が声を揃えて言った。
「クックッ…」
菊井が水面を指差した。
コマチが制服姿で、水面に浮かんでいた。
眸を閉じている。
「コマチ!! 生きてるの!? 死んでるの!?」
紅葉が叫んで、池に入りそうになった。
咲良が紅葉を押し留めた。
「生きてるよ。おまえらが入って行ったら、コマチ姫は水に沈む…」
江津が言った。
「江津くん!! 君、どっちの味方なんよ!? コマチを助けてやってよ!!」
紅葉が江津に怒鳴った。
江津は呆れたように答えた。
「…どっちって…!? 俺は最初から、鬼の使い…」
江津が紅葉を後ろから羽交い絞めにした。
「江津くん!!」
紅葉が抵抗するが、逃げられない。
「咲良…。先日の借りを返すぞ。三人とも、この池のヌシに捧げる生贄じゃ…」
一つ目の小鬼が告げた。
咲良は鞄から護り刀・神泉を取り出した。
彼女は微かに震えながら抜刀し、切先を一つ目に向けた。
「コマチを返して…」
咲良が言った。
彼女の手の中で、神泉から霊気が湧き出した。
「そんなもので……」
一つ目の小鬼が嗤った。
池の中からヘビのような細長いものが跳ね、水飛沫を上げて、咲良の神泉を叩き落とした。
「あっ!! 神泉が!!」
咲良が青褪めた。
神泉は池の中へ落ちていった。




