壱参 源次と鬼切
1
カエルの鬼に憑りつかれた菊井がコマチを攫った。
咲良と紅葉は、彼女を助ける為に宇治まで来た。
江津が鬼の下僕となり、咲良と紅葉は朱い朝霧橋を渡って、異界に迷い込んだ。
池の水が溢れ、波が押し寄せた。
彼女達は頭から波を被った。
池の中で、菊井の乗った岩が隆起した。
と思ったが、それはただの岩ではなかった。
巨大な亀の甲羅だった。
神泉を叩き落としたのは、亀の長い尻尾だ。
「これが…池のヌシ…? でかい…」
咲良は見上げて、後ろに転んだ。
既に膝の高さまで、水が上がってきている。
亀の動きに合わせて水面が波立ち、咲良を押し流そうとした。
「咲良ちゃーん!!」
紅葉が必死に叫んだ。
紅葉を羽交い絞めにする江津。
彼を振り解こうとする紅葉と、力任せの江津が絡まり、二人で水中に転倒した。
咲良は呆然として、亀を見上げている。
振り向いた亀は、人間の顔をしていた。
皺だらけの老人の顔に、カタツムリのような角があった。
藻が生えた甲羅は、山のよう。
頭から尻尾の先まで、20メートルぐらいあるだろうか。
菊井は亀の甲羅に座り、咲良を上から見下ろした。
「咲良ちゃん…。この鬼達、腹ペコなんだ…。僕も腹ペコ…」
菊井が言った。
彼の両手には、カエルのような水掻きが出来ている。
霧が晴れてきた。
この世界は灰色の濃淡で、余り色味がない。
一つ目の小鬼が、建物の大屋根に舞い降りた。
「咲良…。教えてやろう。あの短刀…。おぬしのように修行の足りぬ巫女が使っても、効果は殆ど無いのじゃ…」
一つ目が咲良を嘲笑した。
菊井はケロケロ鳴きながら、池に飛び込んだ。
彼は達者なカエル泳ぎで、気を失っているコマチを捕まえた。
池のヌシが最初に紅葉を狙い、長い首を曲げ、顔を近付けてきた。
リアルな亀の体に人間の顔を合成した、気味悪さ。
そして、ヌシは紅葉の頭を丸齧り出来そうなぐらい、口を開く。
やばくなった紅葉は、背後の江津の腕を引っ掻いたり、蹴ったりした。
「諦めて…喰われろよ、…紅葉っ!!」
華奢な江津が息を切らし、しつこく紅葉にしがみ着いてくる。
亀が迫って波が押し寄せ、紅葉は洗濯機でジャブジャブと洗われるような気分だった。
「がぁ…!!」
池のヌシが紅葉を食おうと、歯を剥いた。
紅葉は昔、兄に習った護身術を思い出した。
咄嗟に、江津の右手を抱え込み、その場でネジのように回ってしゃがみ込んだ。
背負い投げだ。
池のヌシが紅葉の頭にかぶりつこうとして、そのまま江津の頭に食いついた。
紅葉がしゃがんだからだ。
池のヌシはバリバリと、江津の頭を噛み砕いた。
紅葉が背負い投げた江津の体には首が無く、ぶわっと血が噴き出た。
「きゃあっ!!」
紅葉はびっくりして江津を放し、急いで逃げた。
亀が江津の頭をうまそうに喰らい、江津の全身を骨ごとたいらげた。
周囲の水が、血で赤く濁った。
2
紅葉が建物の大屋根を振り返った。
灰色の瓦屋根に、一つ目の小鬼の姿が見当たらなくなっていた。
建物は平等院・鳳凰堂と同じ形をしていたが、白いはずの壁が黒く、柱だけが朱かった。
正面の扉が開いていて、赤いロウソクに火が灯っている。
金色の仏像の阿弥陀らしき顔が見えた。
でも、その大きさの比率がおかしかった。
正面に覗く阿弥陀の顔の一部が、枠いっぱいを占めていた。
阿弥陀の顔が、建物より大きいことになる比率だ。
屋根から、二羽の鳳凰が舞い上がった。
赤ん坊のような声で啼き、翼から青い雷を光らせた。
鳳凰と言うより、魔鳥。
魔鳥が火焔を吐き散らした。
「何、これ…?」
紅葉は鬼の邪眼が見せる、幻覚の平等院にいる。
彼女は雷雲渦巻く朱い空を見た。
一方、咲良は池に引き込まれていた。
何かに足を引っ張られたのだ。
暗くて見えないが、水中に何かいる。
水死した人の霊、それとも鬼だろうか。
咲良はゴボゴボと水を飲んだ。
蓮の葉に掴まったが、それでも池深くへ引き込まれた。
水底で、神泉が輝いていた。
刃に、淡い虹色の光の輪が架かっていた。
咲良は手を伸ばしたが、とても遠くて届かなかった。
水の鬼が湧き、咲良を引き込んでいた。
人間の顔を薄っぺらくした、鯉か鮒のような魚人の顔。
大きな丸い魚眼で、えら、背胸、手足に鰭がある。
体が青黒い鱗で覆われた鬼が、咲良の腕や足にたくさんぶら下がっていた。
咲良は溺れる寸前で、護り刀を呼んだ。
「神泉、戻ってきてぇ…!!」
神泉が光を増した。
池の底の泥が舞い上がり、水が濁るが、神泉の形は光でくっきりと見えた。
神泉は波に押され、ゆらゆらと立ち上がった。
咲良にはまだ届かない。
咲良は心の中で祈った。
「橋姫様…!! 宇治川の女神様…!! 橋姫様は本当は鬼じゃないんでしょう!? どうか、私と紅葉ちゃんとコマチを、元の宇治川に戻して下さい…!! お願い…」
池の底から泡が立った。
ほどなく、底が割れ、勢いよく水柱が池の上まで噴き上がった。
再び大波が立ち、水が逆巻いて激しく流れた。
咲良は濁流に飲み込まれた。
3
紅葉は宇治川のコンクリートの中州で、意識を取り戻した。
大波に飲み込まれたが、無事だった。
彼女の手元には鞄があり、すぐ近くに咲良とコマチが流されていた。
しかも、咲良は手にしっかりと神泉を握っていた。
咲良を水に引き込んだ水の鬼どもは、橋姫に流されてしまったようだ。
咲良はゴホゴホと水を吐き出した。
「紅葉ちゃん、大丈夫!?」
「私は大丈夫やで。コマチも、ちゃんと生きてる!!」
紅葉は感極まって、涙が出た。
咲良は中州を這い上がって、月明かりに映える宇治橋を見た。
彼女は手を合わし、橋姫に感謝した。
「ありがとうございます、橋姫様…」
元の世界は、既に夜中になっていた。
丑三つ時。
月が頭の真上にある。
宇治川の水が冷たい。
紅葉と咲良がコマチを引き上げた。
「ひゃっ…!!」
紅葉が妖怪のような菊井を見つけ、悲鳴を上げた。
コマチの脚に、手に水掻きのついた菊井がしがみ着いていた。
菊井がコマチを奪い返し、肩に担いだ。
「これは僕が食べるんや。取らんといて…ケロッ」
菊井はカエルのようなガニ股で走り、十三重の塔の向こう側を横切った。
風が唸った。
咲良と紅葉が数メートル離れた位置から、その瞬間を見た。
正確に言えば、石の十三重の塔の影で、一番要の部分が見えなかった。
何かが起きて、塔の前を走り抜けた瞬間に、菊井の首が飛んだ。
「菊井くん!!」
咲良と紅葉が思わず叫んだ。
菊井の首が数メートル飛び、向こうを向いて落ちた。
首から下は塔のこちら側に倒れ、コマチが擦り落ちた。
咲良と紅葉は言葉を失くしていた。
十三重の塔の影から、ふいに黒い影が滲み出た。
R高の制服のシャツが見えた。
長めの前髪、無表情過ぎる顔がやたら整っていて、雨音だとわかった。
菊井の胴体と生首から血溜まりが広がり、砂利に染みていった。
「あ…、雨音くん…。なんで菊井くんを…」
咲良は雨音が握り締めた、太刀を見た。
血は殆ど付着せず、一滴二滴、赤く小さな水玉のように浮いているだけだった。
紅葉も不思議そうに、
「雨音くん…、なんでここに…!?」
と、呟いた。
雨音はガマガエルの妖怪を、菊井ごと斬った。
彼は切れ長の綺麗な目を上げ、やっと咲良を見た。
別人みたいな、鬼のような冷酷な表情が浮かんだ。
「ここは僕がやっときますから。もう家に帰って」
雨音がコマチを抱き起した。
コマチは雨音の腕の中で目覚め、彼を見詰めた。
「私…、どうなって…? ここは…?」
コマチは菊井の首無し死体を見ようとした。
雨音が手で、コマチの視線を遮った。
「見なくていいよ。体の中から、小鬼が逃げてくところ…」
雨音の言葉通り、転がった菊井の首の切り口から、血とともに毒気の小鬼が無数に溢れ出ていた。
雨音が立ち上がり、小鬼を靴で踏み潰した。
ミミズを踏むように、不快で粘着的な音がした。
咲良と紅葉がコマチに近寄った。
「コマチ、帰ろう。…もう終わったから。全部…」
二人でコマチを支え、立たせた。
咲良は悲しくてなって、雨音を睨んだ。
「雨音くん…。菊井くんを殺さなくてもよかったんじゃないの…!? どうして!?」
雨音は返事せず、背を向けていた。
彼が何も言わないので、紅葉は苛々した。
「雨音くん。…その太刀って、鬼切とちゃう?」
雨音は小さく舌打ちした。
「…逃げられた」
菊井の首が血溜まりを残し、いつの間にか消え失せていた。
「首を落としただけじゃ、ダメなのか…? 何か手順を間違えたのか…?」
雨音が呟いた。
菊井の頭部に潜んでいた、ガマガエルの本体が逃げてしまったらしい。
「どうするの…? 雨音くん、人殺しになっちゃうよ?」
咲良が雨音の背中に言った。
彼女は少し腹を立てていた。
先日は助けてもらったけれど、菊井を殺したことはやり過ぎだ。
コマチは意味がわからず、雨音と菊井の首無し死体を交互に見た。
「この人が私を助けてくれたの?」
コマチは雨音に視線を向けた。
「早く行って下さい。僕の心配はご無用ですから」
雨音は咲良に素っ気なく言った。
もう、終電には間に合わない。
紅葉が自宅に電話した後、彼女達はタクシーに乗った。
4
ずぶ濡れの女の子達は、寒くて風邪を引きそうだった。
カエルの毒気について、コマチが一人、心配していた。
「私、菊井くんの病気が伝染ったかも…」
コマチは気が強く見えて、意外に素直で弱気なところもあり、紅葉は驚いた。
いつの間にか、紅葉と咲良とコマチは友達になって、タクシーで色々と話した。
咲良は反省していた。
「酒井さんに、迂闊なことはするなって言われてたのに…。山上さんにも、カエルのことは任してって言われてたのに…。勝手に動いちゃったね…」
「でも、そうせんかったらコマチは生贄になってたよ」
紅葉は咲良の判断が間違ってなかったと思う。
「雨音くんだっけ? あの男の子、かっこよかったねぇー。紅葉、紹介してよ」
学年一番の美人のコマチが、雨音に興味を示した。
紅葉は苛ついた。
「て言うか。あの太刀、盗まれた鬼切やった。暗くてよう見えへんかったけど…」
「雨音くん、菊井くんを殺しちゃった。…酷いよ。菊井くんはもう、帰って来ない…」
咲良の眸に、じわっと涙が盛り上がった。
咲良は雨音を嫌いになってしまいそうだ。
「…江津くんも死んでしもたよ。私が無理やり引っ張ってきたから…死なせたんやわ。どうしよう…」
紅葉は後悔した。
タクシーの中がしんみりした空気になったところで、コマチが、
「…ねぇ。私も紅葉達のパワスポマップ、仲間に入れてよ。本当に鬼に会えるなんて、面白そう」
と言った。
「何も知らんと、コマチは呑気やな…」
紅葉が咲良に言った。
5
週末。
結局、紅葉は風邪を引き、熱が出て寝込んだ。
紅葉がリビングに入ると、父親がテーブルに新聞を広げ、テレビのニュースを真剣に見ていた。
「パパ。おはようございます…」
紅葉がソファーに座った。
「おはようさん。…宇治で、中学生の首無し死体やて。怖いなぁー」
父がテレビのニュースのテロップを読んだ。
紅葉はびっくりして、壁の大型液晶テレビを見た。
菊井のニュースだ。
死体は塔の島に、そのまま放置されていた。
供養塔の前に。
「首が無いって、怖いなぁー。紅葉と同じ年齢の子みたいやな。…紅葉。昨夜は遅くまで、どこで何してたん? ずぶ濡れでタクシーで帰って来て…。宇治川…とちゃうやんな?」
父が心配した。
「あれは、マナブが殺ったんか?」
紅葉は観念した。
「…あれは、カエルに憑りつかれてた友達です。パパ」
父が仰天して、ソファーから跳び上がった。
「へぇっ!? あの首無し死体の子が!? 頭はどこなん!?」
菊井の頭部の行方など、紅葉にわかろうはずがない。
紅葉は居心地が悪くなり、逃げ出した。
彼女は部屋に籠って、鍵を閉めた。
6
土曜の夜。
しゅとーん部の稽古が終わり、みんな帰った。
今は雨音と山上の二人きりだ。
外は、雨がぱらぱら降っている。
山上は床の間の前で雨音と向い合って、太刀の手入れをしている。
雨音は黙って、正座している。
「腰反りの太刀は、馬に乗って片手で振り回す用やったんやけどなぁー。これは少し反りが真ん中に寄ってる。重心のバランスがええから、扱いやすそうやな。…ちょっと長いけどな」
山上が言う。
「長さは竹刀より少し長い程度だから、どうってことないんですけど。すごく重いです…」
雨音が感想を言った。
「よう斬れるやろ。…て言うか、よう使ったもんやな…。度胸があるわ…」
山上は苦笑い。
雨音は無表情で、憮然としている。
山上は雨音の顔をじっと見た。
雨音は時々、別人のようになる。
今日も、いつものにこやかな明るい彼と、雰囲気が全く違う。
「こいつ、また例の…。人格交代しとる…」
山上は心の中で思った。
「日本刀は大陸とは全然違う方向に発展していってな…。弥生時代には、大陸と同じような剣が伝来してたけど、古墳時代に鎬造りの大刀が作られるようになって…。最初は反りが逆でな。内反りやったんやで。奈良の、七支刀で有名な石上神宮の、神剣フツノミタマノ剣は内反りの刀や。今で言う逆刃刀やん」
山上が例えて話した。
昔の大刀は反りが鉈と同じだった。
フツノミタマノ剣はヤマタノオロチを斬ったとされる刀。
両刃ではなく、片刃。
ヤマタノオロチの尻尾から出たという草薙剣は、両刃の剣。
熱田神宮に伝わるが、形状の特徴から、弥生時代のものと推定されている。
「実は内反りの方が、接近戦で打つには向いてるねん。馬上で振り回すようになって、反りが外向きになって日本刀が生まれた。歩いて戦うようになったら、また反りがなくなっていってな…」
山上の手で太刀が浄められ、きらきらと輝いた。
「結局、反りがあるのと無いのと、どっちが実戦向きなんですか?」
雨音が尋ねた。
「俺は単に、その時代の流行やったと思うで」
山上が太刀を鞘に納め、雨音に渡した。
「ええやん。三尺の刀が得意な先生もいはる。おまえの感覚で行け。なかなか難しいと思うけどな」
「はい」
雨音が深く頷いた。
鬼切の刃長は二尺八寸ぐらい。
問題は重さ。
重さが肘にかかり、何度も振るだけで肘の腱を痛めかねない。
刀は腕の力で振るのではなく、遠心力と、下半身と体幹の筋肉で振る。
雨音は鍛えているが、未成年で、体の線がまだ細い。
「腰切る練習にはなるわな。カッハッハ…」
山上が笑う。
「…それより、あの子。あんな短い護り刀一本で鬼に挑むとは、無謀やなぁー」
山上が咲良のことを言った。
「俺が護ります。小鬼もマナブさんも、これ以上野放しにはしません」
雨音がはっきりと言い切り、鬼切を居合刀ケースに詰めて立ち上がった。
「…おまえ、一人でそんな重いもの、背負いきれるの?」
山上が雨音の覚悟を聞き、道場の出口まで見送った。
雨音は一礼し、透明のビニル傘を差して、出て行った。
7
雨音が地下鉄を降り、賃貸マンションに帰ってきた。
彼は家庭の事情で、一人暮らしをしている。
雨が強くなり、空は真っ暗だった。
彼は敷地の入り口で、立ち止まってマンションを見上げた。
淡いピンク系ベージュの外壁タイル。
建物の屋上に腰を下ろし、彼の帰宅を待つ者がいた。
「お帰りぃ、源次…。千年ぶりじゃの…」
雨音が一つ目の小鬼を見た。
髪を左右に分けて揚巻、浅葱色の水干を着ている。
角は一角。
雨音は知らん顔を決め、マンションの玄関に入った。
特に動揺もない。
「冷たいのぅ、源次…。我等がおぬしの顔を見忘れると思うたか…!?」
屋上で、一つ目の小鬼が囁いた。
小鬼はコンクリートに手を突っ込み、水に潜るように、壁に潜っていった。
雨音の部屋は、三階の廊下の突き当り。角部屋。
彼が玄関の鍵を開けたら、
「ばぁー」
と、小鬼が天井から顔を出した。
「お帰りぃ…、源次ぃ……」
雨音は無言で居合刀ケースの底を床に置き、ファスナーを開いた…。




