第四話【青い『共鳴』と、はじめての微笑み】
合奏の初日、俺たちは曲の解釈をメンバーに伝えた。
「前半と後半は、とにかく快活に華やかに! 猟犬が春の野原を軽やかに駆けていくイメージだ。そして中間部は、母犬から子犬へ向けた、甘くて深く、優しい『愛情』のイメージで演奏しよう」
本格的な練習が始まった。
部活において、俺はとうとう「天才」を気取るプライドを捨てた。
なりふり構わず、誰よりも泥臭く練習し、何度も失敗しながら食らいつく姿を、あえて部員たちに晒した。「俺の背中に続け」とばかりに。
カリスマである俺がプライドを捨てて必死にもがく姿を見て、部員たちの目の色が変わり、必死についてきてくれるようになった。
ところが、だ。
副部長の誠は、いつまで経っても曲の練習をやろうとしなかった。毎日毎日、ひたすら基礎練習ばかりを繰り返しているのだ。
だが、アイツと付き合って三年目ともなれば、アイツの奇行には必ず「合理的な意図」があるとわかっていたから、俺は特に何も言わなかった。
そして、各パートの譜読みが終わり、とうとう初めて曲を通す合奏の日がやってきた。
曲の練習など一切していなかったはずの誠のホルンは——完璧だった。
あまりにも簡単に、涼しい顔で難所を吹きこなすものだから、俺はホルンの楽譜は簡単なんだと思い込んでしまったほどだ。
ところが、ホルンパートの後輩たちは真っ青になっていた。
「佐藤先輩……! どうしてそんな風に吹けるんですか、僕たちには跳躍がキツすぎて無理です……っ」
後輩が泣きついているのを見て、俺はそこで初めて気づいた。
あの難曲を、しかも世界最高峰の名を誇る途方もないキャパシティを持つ楽器で吹きこなせていたのは、誠ただ一人だけだったことに。
誠は泣きつく後輩たちに対し、一切の表情を変えずに淡々と答えた。
「ああ。この後、セクション練習でちゃんと鍛えるよ。いいかい、この曲はホルンの跳躍が異常に多い。だからこそ、曲の練習をするよりも、基礎であるリップスラーとロングトーンを極限まで反復し、どんな音域でも正確に当てる筋肉を構築することが、最も効率的な『最適解』なんだ」
……やっぱり、アイツは生粋のバケモノだ。
俺は鳥肌が立つ腕をさすりながら、コイツが味方でよかったと、心底安堵していた。
副部長となった誠の指導は、親友の欲目を差し置いても完璧だった。
「……アイツ、本当に中三か?」
俺が完璧にこなせることなんて女の扱いくらいだが、誠の頭脳は中学生の吹奏楽指導においてすら最適解を弾き出していた。誠の論理的で無駄のないアプローチのおかげで、金管セクションの精度はぐんぐんと上がっていった。
となれば、あとは木管だ。部長であり木管のトップである俺が、なんとかしなければならない。
だが、俺の武器はあくまでサックスだ。クラリネットやフルート、オーボエといった他の木管楽器をどうまとめ、どう練習させれば底上げできるのか、その細かなノウハウまではさすがの俺にも分からなかった。
俺は、またもや天才のプライドをかなぐり捨て、誠に頭を下げた。
「どう練習すれば木管全体が上手くなるのか、教えてくれ」
誠は少し考えてから「ちょっと待ってて」と母屋へ向かい、自分の母親を連れてきた。
実は誠の母親は、かつて音大を出た本格的なクラリネット奏者だったのだ。結婚当初はこの立派な音楽室でピアノ教室も開いていたらしいが、しだいに旧家であり資産家である佐藤家の管理や親戚付き合いに追われるようになり、教室を縮小し、今は完全に閉めてしまっているという。
久々に教えがいのある生徒(俺たち)を見つけたからか、おばさんはとても嬉しそうに、木管のイロハを教えてくれた。
彼女のアドバイスをもとに、誠の言葉を借りれば『最も効率が良い最適解』を、俺はアイツと一緒に必死で勉強し、木管の練習メニューを組み立てていった。
あの日、笑い合いながらおばさんから直接音楽を教わったあの時間が、俺たちにとって最初で最後の大切なレッスンになってしまったのだが。
まだ中学生なのだから、大人の顧問に丸投げすべきだったのかもしれない。でも、俺は自分の力で成し遂げたかった。俺たち自身の力で、頂点からの景色を見たかったのだ。
俺の暑苦しいほどの情熱に、部員たちが文句も言わずについてきてくれたのはラッキーだった。「なんだよアイツ、熱血ぶっててダサい」と言われたら、俺のカリスマ性もそこまでだったからだ。
そして迎えた、コンクール県大会の本番。
俺たちは地区大会を圧倒的な実力で1位抜けし、このステージに立っていた。
誠の解釈通り、曲の前半部分は猟犬が駆けるように快活に、華やかに吹き切った。
そして、静寂の後に訪れた中間部。
俺は一瞬目を閉じ、誠の母親をイメージしてサックスにありったけの情感を込めた。
凛として上品で、誠へ向ける無償の愛。ただの友人に過ぎない俺にすら、いつも温かく優しく接してくれる彼女。……会いたい。この演奏を聴いて、微笑んでほしい。
祈るような気持ちでサックスを響かせていると、背後から誠のホルンが重なってきた。
その音は、以前の窮屈な音ではなかった。深く、柔らかく、甘い。彼もきっと、大好きな母親の愛を思い浮かべて吹いているのだろう。
その時だった。俺のサックスの音と、誠のホルンの音が、空中でふわりと溶け合った。
……あれ? 一つになった?
お互いの音が完全に溶け合い、誰が吹いているのかわからないほど巨大で温かい「ひとつの響き」となって、ホール全体を満たしていく。
身震いするような、不思議で、それでいてたまらなく心地よい感覚だった。
演奏が終わり、舞台裏へと戻る廊下。俺はまだ、あの時の不思議な余韻の中にいた。
楽器を片付けていると、ふいに誠が隣にやってきて声をかけてきた。
「健二」
「……ん?」
「さっきの中間部……物理学でいう、『共鳴』だったね。僕も初めての感覚だったけれど、すごく温かい気持ちになったよ」
そう言って、誠はふっと口角を上げた。
——微笑んだ。あの、愛想笑い一つしない、無表情の氷のバケモノが。
『温かい気持ち』だって?
……俺様の熱い音で、あの人間計算機に「感情」が芽生えたってことか?
なんだよそれ。最高に光栄なことじゃないか。
(俺のサックスは、アイツのホルンと釣り合うだけの音を出せていたんだな……)
そんな、俺らしくもない謙虚な言葉ばかりが、胸の奥から湧き上がってきていた。
結果は、当然のように金賞。俺たちは県代表の座を勝ち取り、第一の目標を果たした。
しかし、その先で待っていた東海大会。結果は『銀賞』だった。
全国大会へ駒を進めるようなトップバンドたちは、俺たちが聴いたこともないような、次元の違う音を出していた。俺たちは、あそこまでには全然到達していなかったのだ。完全なる敗北だった。
だが、閉会式で他校の演奏を振り返りながら、俺は密かに誇らしく思っていた。
親友の欲目かもしれないが、この東海大会のステージにおいてすら、誠より上手く、深く、美しい音を鳴らすホルン奏者はただの一人もいなかった。
やっぱりアイツは、正真正銘のバケモノだった。
こうして、熱く燃えた俺たちの中学最後の夏は終わった。
引退後の高校受験は、学年一位と二位を独占している俺たちにとっては、ただの消化試合のようにたやすいものだった。
俺たちはこれまで通り、誠の家の音楽室で楽器の練習をメインにしながら、空いた時間で適当に受験勉強をこなした。
……ということにしておこう。
自宅に帰ったとたん、天才のアイツに置いていかれないよう、学年二位を死守するために俺が血の滲むような努力をしていたことなんて、知っているのはうちの兄貴くらいだからだ。
そして翌年の春。
俺と誠は揃って、地元のトップ進学校である松本蒼峰高校に合格した。
俺の身長はますます伸び、百七十五センチくらいになっていた。誠もこの三年間でぐんぐん伸びていたが、スタートが小柄だったから百六十センチそこそこだった。
これが、俺がアイツに対して唯一勝ち続けたことだ。




