第五話【二人の経済学者の卵と、予言された未来】
昭和六十三年(一九八八年)、春。
俺と誠は揃って松本蒼峰高校へ進学し、当然のように二人で吹奏楽部に入部した。
そういえば、あの中三の夏のコンクールで俺たちの音が完全に『共鳴』して以来、誠には明確な変化が起きていた。
俺の前でだけ、アイツは人間らしい「表情」を見せるようになったのだ。
もちろん、感情豊かになったとは口が裂けても言えない。だが、それまで一切の感情を排除した完全無欠の『計算機』だったアイツを知っている俺からすれば、とんでもない進歩だった。
他の連中に対しては、計算で弾き出したような「多少の愛想笑い」を浮かべる程度だったが、それでもあの誠からすればかなりの変化だったはずだ。
けれど、俺に向けて見せる顔は違う。呆れたようなため息、苛立ち、そして、ごくたまに見せる微かな笑み。
「バケモノの氷を溶かせるのは俺だけだ」という事実が、俺の優越感を心地よく満たしてくれていた。
高校一年の文理選択。
俺は迷わず「文系」を選択した。誠の影響で経済や金融の勉強をしたかったのと、東京のW大・政経学部に進み、名門ジャズ研の世界に足を踏み入れてみたかったからだ。
T大でガリ勉するより、華やかな東京でサックスを吹く証券マンのほうが、カリスマ性のある俺っぽいだろう?
ちなみに俺は、中三のコンクールあたりから「松本吹奏楽界のプリンス」としての階段を着々と登っていた。他校にまで非公式ファンクラブができ、ますます人気者となって我が世の春を謳歌していた。
一方、相棒の誠はといえば。
「誠は当然、T大に行くんだろ? バケモノは大きく出ないとな。経済学者にでもなるのか?」
俺が尋ねると、誠は淡々と頷いた。
「ああ。経済学部に行こうと思っている。だが、僕は『理系』にするよ」
「は? なんでだよ。経済なら文系だろ」
「先日、T大模試を文系で受けてみたんだが……文系の国語(随筆)は、僕にはまったく理解できないロジックだったからね。他人の曖昧な感情や恋心などという不確定なものを読み解く問題は、極めて非効率だ」
高一にして、三年生用のT大模試を余裕で受け、しかも結果は『A判定』だった。
それなのに「感情の問題は非効率だから、理系(理科一類)から進振りで経済を狙うのが最適解だ」と言い切るのだ。
さすがは人間計算機。可愛げの欠片もない。
こうして俺と誠は文系と理系でクラスが分かれ、部活以外の接点は減った。だが、相変わらず暑苦しく部活を牽引する俺と、冷徹に土台を固める誠という「最強のコンビ」の絆が変わることはなかった。
だが、運命は容赦なく俺たちの青春をへし折りにきた。
高二のコンクールが終わった、夏の終わりのある日。
いつものように誠の家に一緒に帰宅した時、強烈な異変は起きた。
「ただいま……あれ? 母さん?」
靴を脱ごうとした誠が、ピタリと動きを止めた。
「健二、何か違和感がある。……ここで待っててくれるか?」
「いや、違和感があるなら一緒に行く」
俺の嫌な予感は的中した。
誠の母親が、台所の床でお腹を押さえて倒れていたのだ。
「おばさんっ!」
俺が即座に救急車を呼ぶ横で、誠は今までに見たこともないような真っ青な顔をして、ガタガタと小刻みに震えていた。
いざという時、あの人間計算機は、ただの「母親の死に怯える無力な少年」でしかなかったのだ。
誠の母親は、そのまま入院した。
病名は伏せられていたが、状況はどう考えても良くなかった。
兄の徹は東京の大学に進学して家を出ていたため、誠と父親が代わる代わる面会に行っていた。
俺も、誠と母親のことがどうしても心配で、一度だけ誠と一緒に面会へ行った。
ベッドに横たわる誠の母親は、すっかり痩せ細り、少し強く触れたらそのまま壊れて消えてしまうのではないかというほど、儚い空気を纏っていた。
それなのに。
俺が不器用に差し出した、紫のトルコ桔梗とかすみ草の花束を見るなり、
「えー、健二くん! 来てくれたの? わぁ、綺麗なお花。これ、おばさんの大好きな花よ、嬉しいわ」
彼女はあの、花が咲くような温かく気品のある笑顔を向けた。
「……誠、ごめんね。下の売店でジュースを買ってきてくれない? 健二くんと誠の分、二本。あと、お菓子も適当にお願い」
「……わかった」
明らかに不自然な「お遣い」だったが、誠は何も言わずに病室を出て行った。
誠の足音が遠ざかると、母親はニコニコと穏やかな表情のまま、俺にこう言った。
「健二くん。誠と、いつまでも親友でいてくれるかな」
「……」
「あの子、頭はいいけれど心があんなに不器用だから。この先も『親友』と呼べる子は、なかなかできないと思うの。だから、お願いね」
「なに入院ボケしてんだよ、おばさん」
俺は必死に軽口を叩こうとした。だが、声が震えてしまった。
「おばさん、もしかしたら、健二くんに会えるのはこれが最後かもしれないから。……聞いて」
彼女は、ふっと宙を見つめるように目を細めた。
「もし、この先、二人が同じ人を好きになるようなことがあったら、それはもう仕方ないわ。でもね……時が経って、お互いにそれをちゃんと消化できたら、また仲良くしてやってね」
「同じ人を……?」
「音楽家としても、あなたたちの音楽の一番のファンとしても言わせて。あなたたち二人から生まれる音、いつも完璧に『共鳴』してる。あんな奇跡みたいな音を出せる友達は、もう一生現れないかもしれないよ。だから、そういう意味でも、お互いを大切にしてね」
「…………わかった。わかったから」
俺は奥歯を噛み締めて、涙を堪えた。
「だけど、絶対元気になって、俺たちの前で『あの時の遺言、やっぱナシ』って笑って言えよな」
「そうね。あはは……」
誠と別れて自分の家に帰ってから、俺は一人で声を殺して泣いた。
これは恋心なんかじゃない。
俺にとって彼女は、うるさくてガサツな自分の母親からは決して得られなかった「無償の愛」を与えてくれる、唯一の聖域のような存在だった。
この、何とも表現できない喪失への恐怖が、ひたすらに辛かった。
その年の秋。二学期の中間テストが終わった直後のことだった。
休み時間の学校の廊下で、早退していくのか、鞄を持った誠とすれ違った。
その顔は死人のように真っ青で、そして、瞳の中には何の光も宿っていない、底なしの暗闇のような「虚ろな目」をしていた。
その夜。
誠の母親は、天に召された。




