第六話【空っぽの計算機と、いちご味の『くすり』】
母親を亡くした誠の家の喪失感は大きく、それは俺にとっても同じだった。
俺はやり場のない虚無感を、適当な女たちと遊ぶことで無理やり紛らわせていた。
誠は葬儀やその後の諸々の手続きでしばらく学校を欠席しており、顔を合わせることはなかった。
そんなある日、うちに誠の兄の徹がやってきた。
うちの親に、葬儀に参列し手伝いをしてくれたことのお礼を言いに来たついでに、俺にも会いたいと言うのだ。
(また『健二、ハロオゥ!』って、蕁麻疹が出るような絡み方をされるのか……)
と気が重かったが、部屋に現れた徹の姿を見て、俺は言葉を失った。
ヤツは、今まで一度も見たことがないほど思い詰めた、真面目な顔をしていた。
「健二。……お前に、頼みがある。俺はこれ以上、東京の大学を休めない。だから、誠のそばに寄り添ってやってくれないか」
真面目な顔をして俯いた徹は、驚くほど誠にそっくりだった。
「え、どういうことですか?」
「あいつ、完全に抜け殻になってるんだ……。頼む、健二」
あの底抜けに明るい徹が、頭を下げるなんて。
それはつまり、誠の精神状態が「とんでもないことになっている」という証明だった。
翌日、誠は学校に来た。だが、誰の目から見ても明らかに雰囲気がおかしかった。
目は虚ろで、生気がまったくない。
しかも、放課後に部活へ顔を出したアイツのホルンの音は——完全に「死んで」いた。
あんなに深く、包容力に満ちていた全国レベルの音が、カスカスの息の音に変わっていた。
音を外したことなんて一度もなかったあの人間計算機が、
「……高音をどう当てたらいいか、わからないんだ」
と、震える唇で楽器を見つめていた。
世界最高峰のホルンを買ったあの日、アイツは「基礎を極めて筋肉を構築するのが最適解だ」と言っていた。だが、その強固なはずの筋肉の動きすら、母を喪った強烈な悲しみ(バグ)によって完全に狂わされてしまったのだ。
すでに新部長に就任していた俺は、今年から赴任してきたばかりの新顧問・宮坂先生の元へ直談判に行った。
「先生。誠を休ませてください。しばらく、俺がアイツに寄り添いたいんです」
宮坂先生は、俺の目をじっと見た後、深く頷いた。
「……相棒に寄り添うのか。わかった。お前はあいつの音が戻るまで佐藤のことに専念しろ。部のことは副部長たちに任せておけ」
宮坂先生は音楽に熱く、何よりタクト(指揮)に力があって吹いていて楽しい先生だったが、こうして生徒の心に寄り添って話がわかる、本当にいい先生でよかった。
俺が同級生の副部長に事情を説明すると、彼らは快諾してくれた。それどころか「誠のことが心配だから、俺たちにできることがあれば何でも頼ってくれ」とまで言ってくれた。
中学、高校ともに、俺たちは本当に仲間に恵まれている。俺は同級生たちに心から感謝した。
今の誠は、放っておくと弁当も食べないし、何もしない。
だから俺は毎朝アイツの家に迎えに行き、一緒に登校した。同じ高校のテリトリーには「都合のいい女」を作らない主義だったから、言い寄ってくるファンクラブの女子たちには「しばらく誠と昼飯を食うから無理」と突き放し、ずっと誠のそばで過ごした。
放課後も一緒に帰り、その頃他校に囲っていた「都合のいい女」たちも、適当に上手いことを言ってすべて切り捨てた。
今の俺の生活の最優先は、「佐藤誠」だったからだ。
のちの人生を振り返っても、この唯我独尊の俺が、自分を犠牲にして——女たちを切って——まで「最優先」にした人間は、たった二人しかいない。
一人は親友の誠。そしてもう一人は——今日、妻になった、真由子だ。
そんなつきっきり生活を送り始めて、三週間ほど経った頃だろうか。
誠の頬に、ほんの少しだけだが血の気が戻ってきた。
気分転換になればと、俺は帰り道に学校の近くの公園へ寄り、ベンチに誠を座らせて「ちょっと待ってろ」と告げた。
少し離れた自販機へ、あたたかい缶コーヒーとジュースを買いに行くためだ。
ガチャン、と缶が落ちる音を背中で聞きながら振り返ると、ベンチに座る誠の足元に、コロコロと赤いゴムボールが転がってきた。
誠が虚ろな目のまま、ゆっくりとボールを拾い上げる。
すると、遠くで遊んでいた小学校高学年くらいの女の子の集団から、一人の少女がタタタッと走ってきて、誠の前に立った。
『すみません、あたっちゃいましたよね。痛くなかったですか?』
『……いえ』
『……お兄さん、すごくさみしそうな顔してる』
少女は、胸のポケットをごそごそと探ると、小さな何かを取り出して誠に差し出した。
『あ、そうだ。これ……ちょっとだけ、心が軽くなる「くすり」です』
『……ありがとう』
『ボール、ごめんなさい!』
少女はぺこりと頭を下げると、元の友達の輪の中へと走って帰っていった。
缶ジュースを二本抱えてベンチへ戻る途中、遠くの小学生の集団から、黄色い声がかすかに風に乗って聞こえてきた。
『真由子ちゃーん、大丈夫だった?』
『うん。優しそうなお兄さんで、痛くないよって拾ってくれたの』
「おい、誠。どっちのジュースにする? ……って、お前、その飴どうしたんだよ?」
俺が声をかけると、誠は手のひらに乗った『いちご味のドロップ飴』を、まるで宝物のように見つめていた。
「え……ああ。心が軽くなる、くすりだって」
無表情のままだったが、誠の瞳の奥に、ほんの少しだけ温度が戻ったような気がした。




