第七話【計算機の再起動と、魔王(カスチェイ)が導いた『王の道』】
公園で気分転換をしたあの日から、一週間ほど経った頃。
俺は誠の家で、二人きりで夕食を食べていた。
誠の家では、以前は母親がいつも温かい手料理を振る舞ってくれていた。だが、彼女が倒れてからは、昔からこの家で働いている古参の家政婦たちが食事の支度を取り仕切るようになっていた。
美味いが、どこかよそよそしい立派な料理。静まり返った広いダイニングには、ただテレビの音だけが虚しく響いていた。
たまたまついていたニュース番組が、ある特集を報じていた。
それは、難病に対する「新薬の開発」を告げるニュースだった。
その時だった。
ずっと箸を止めたまま、焦点の合わない虚ろな目をしていた誠の顔が、ふいに上がった。
テレビの画面に釘付けになり、わずかに目が見開かれる。
「……この薬が、もう少し早く世に出ていたら」
ぽつりと、誠がこぼした。
「母さんは、助かったのかもしれない」
「誠……」
かける言葉が見つからず、俺が黙り込んでいると、誠は自分の手のひらをじっと見つめた。
あの日、公園で小学生の女の子からもらった『いちご味の飴』を握りしめていた手だ。
「病気を治す、くすり……。心が軽くなる、くすり……」
誠の唇が、呪文のようにその言葉を反芻する。
そして、深い沈黙の後。誠は静かに、しかし、かつてのアイツらしい確固たる意志を持った声で告げた。
「……だったら、僕が作ればいい」
「え?」
「理三(医学部)に行けばいいのかな。……いや、自らの手で薬を創り出すのなら、理二(薬学部)の方が最適解か」
俺は息を呑んだ。
誠の瞳の奥に、見慣れた理知的な炎が、はっきりと灯っていたからだ。
エラーを起こして停止していた『人間計算機』が、「母を救えなかった無念を晴らす」という明確な目的と数式を与えられ、凄まじい熱量をもって再起動した瞬間だった。
「健二。僕は、文系の感情問題からは逃げた人間だけど」
誠は、まっすぐに俺を見た。
「どちらにしても、志望は理科一類から、二類か三類に変更するよ」
「健二。母さんが教えてくれた音楽だから、楽器も真剣にやる。極めてみたい」
「……おう」
「あと、あの女の子……顔も覚えていないけど、いつかお礼を言いたいな」
「おいおい、まず一番にお礼を言う相手は俺だろ」
俺がわざとふざけて言うと、誠は真面目な顔で頷いた。
「それは勿論さ。君には、ものすごく感謝している。……だから、お礼のついでに、もう一つだけ、お願いしてもいいかな」
「なんだよ」
「今だけは、泣いてもいいかな」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
いつも完璧で、感情をバグだと言って切り捨てていたあの誠が、初めて見せた限界のサインだった。
「……当たり前だろ。親友なんだから」
俺がそう答えた瞬間。
「うん。……健二がいてくれて……良かった……っ、ううぅ……」
誠は顔を覆い、声を押し殺しながら、ついに泣き崩れた。
俺は、安い青春ドラマみたいでガラじゃないと思いながらも、震えるアイツの背中を力強く抱きしめた。
(……いいか誠。女じゃない奴を抱きしめたのは、俺の人生でお前だけだぞ。光栄に思えよな)
俺は心の中で毒づきながら、アイツの涙が枯れるまで、ずっとその背中を叩き続けた。
翌朝。 いつものように誠を迎えに家に行くと、玄関から出てきたのは、生気を取り戻し、今まで通りの完璧な『人間計算機』に戻ったアイツだった。
「おはよう、健二。今日からは、学校で楽器の練習を再開しよう」
「……ああ」
この一ヶ月間、俺は誠の家の音楽室を借りて、一人でサックスの練習をしていた。その間、誠は楽器に触れようともせず、ただ抜け殻のように俺の練習風景を眺めているだけだったのだ。
それが、自分から「練習する」と言い出した。
昼休み。いつものように二人で昼食を取っていると、誠がふと口を開いた。
「健二。明日からは、またファンクラブの女の子たちとお昼を食べなよ。ずっと僕に付き合わせて悪かったね」
「あ? お前、一人で大丈夫なのかよ」
「ああ。だけど……夕飯は、毎日じゃなくてもいいから、うちで一緒に食べよう」
なんだそれ。プロポーズか?
親友からの重すぎる要望に、俺は内心で鼻で笑いながら、わざと尊大に肩をすくめてみせた。
「しょうがないな。親友のよしみで、付き合ってやるよ」
こうして。
最強のバケモノ、佐藤誠は完全に再起動した。
家に帰ってから、俺は東京の徹に電話をかけた。
誠が完全に再起動したことを報告すると、徹さんは「ありがとう、本当にありがとう……」と、あの底抜けに明るい男とは思えないほど真面目で、震える声で感謝の言葉を繰り返した。
なんだか、ひどく居心地が悪くて気持ち悪い。
アイツの鬱陶しい『ハロオゥ〜』という絡みで俺が蕁麻疹を出している平穏な日常のほうが、よっぽど幸せだったんだなと痛感した。
それからの誠は、以前よりも『人間計算機』としての精度と処理能力が一段と跳ね上がったように見えた。
もちろん楽器の腕もさらに上がり、親友であり最大のライバル——新顧問の宮坂先生に言わせれば『因縁の相棒』である俺も、絶対に負けるわけにはいかなかった。
俺は部長兼学生指揮者として圧倒的なカリスマ性で部を牽引し、誠はトレーナーとして緻密な基礎合奏を統括した。
宮坂先生はタクト(指揮)こそ力があって上手いが、専門は打楽器だ。結局、松本蒼峰高校吹奏楽部のサウンドを根底から鍛え上げ、東海大会を狙えるレベルにまで底上げしたのは誠の頭脳だった。
やっぱりアイツはすごい。
俺は持ち前のカリスマで部員の士気と熱狂を引き出し、自分のサックスで技術的に部員を引っ張る。まさに最強の布陣だった。
年明け。平成二年(一九九〇年)。
俺は宮坂先生のところへ直談判に訪れていた。
「先生。今年のコンクールの自由曲、『エル・カミーノ・レアル』ですが。六月の定期演奏会に限って、俺にタクトを振らせてください」
「なぜだ?」
「誠のホルンの本当の凄さを……あの曲の魅力を、俺がタクトで最大限に引き出して魅せたいからです」
俺の真っ直ぐな目を見て、宮坂先生はニヤリと笑った。
「わかった。だが、夏の本番では必ずお前がサックスを吹けよ。お前と佐藤、この二人がプレイヤーとして揃えば、五人分の戦力になるからな」
こうして、吹奏楽の常識からしたら異例中の異例なんだろうが、『エルカミ』を俺が定期演奏会だけは学生指揮者として振れることになった。
——定期演奏会、当日。
開演前のロビーコンサート。松本中から俺のファンが集結し、ロビーは他校の女子生徒たちで異常な熱気に包まれていた。
(やっぱり、俺はこうでなくっちゃな)と内心で鼻高々にサックスを吹いていると、人だかりの隙間から、見知らぬ中学生の二人組の会話が耳に入った。
「だめだ、真由子。花岡さん、全然見えないよ。高校生のお姉さんたちの熱気が凄すぎて……」
「そうだね、美穂。残念だけど、今のうちに花岡さんがよく見える席、取りに行こうか」
(お、中学生まで俺のファンか。お目が高いね)
そんなことを思いながら、俺は本番のステージへと向かった。
第一部は、俺が指揮をするステージ。 タクトを振り下ろし、鳴り響く『エル・カミーノ・レアル』。
俺が、アイツの音を最高に輝かせてみせる。
誠のホルンが、俺のタクトに完璧に応え、ホール全体を支配していく。
この瞬間、ホールにいる観客全員が、誠に恋をしたはずだ。そのくらい、俺がアイツの凄さを見せつけてやったつもりだ。
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〜派手ではないが、抜群にピッチが良く、深く、実直にリズムを刻むホルンの音。
旋律を吹く時は音の粒を立たせてさりげなく音を目立たせ、リズムを刻む時は正確にそして決して出過ぎない。すべてが『ちょうどいい』バランスの演奏。
でも、なんといっても、音。
まるで全体を後ろから支え、絶対に安全な場所へと導いてくれるような、不思議な安心感のある音色〜
二度目の人生で、そんなことを感じて、無自覚に恋に落ちた観客が、いた。
……でも、今はこの場には、いない。今ここにいるのは一度目の人生の、彼女だから。
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そして第二部は、宮坂先生にタクトを預け、今度は俺が一人のサックス奏者として最高に輝く番だ。 ステージの中心で、俺と誠の音が再び一つに溶け合う。
観客全員、今度は俺に恋しただろ?
定期演奏会は、満員の観客による万雷の拍手と大歓声のうちに幕を閉じた。




