第三話【最高峰のホルンと、中学生の『愛』】
昭和六十一年(一九八六年)。
中二になり、俺と誠は同じクラスになった。
吹奏楽部の先輩とのわだかまりも落ち着き、俺は学校でも思う存分マイ・サックスを吹けるようになったが、それでも少なくとも月に一度くらいは誠の家へ遊びに行っていた。
六月。合唱コンクールで、俺と誠はクラスの代表としてタッグを組んだ。
俺の指揮と、誠のピアノ。どう聞いても、このコンビは「最強」だった。
俺の振るタクトの意図を誠は完璧に読み取り、音のグラデーションとして具現化していく。俺たちはたった二人で、体育館の空気を完全に支配した。
「健二の棒が、すごく弾きやすいんだよ」
誠は相変わらず無表情で謙遜したが、俺の要求に百二十パーセントで応えてくるアイツの音楽センスも、やはりバケモノだった。
ところが、だ。
この頃、誠が吹奏楽部で吹くホルンの音は、どこか『普通』だった。
下手ではない。ミスもしない。だが、致命的につまらないのだ。
あの合唱コンクールのピアノで聴かせた、あの圧倒的な包容力がない。まるで息を潜め、何かを我慢しているような窮屈な音だった。
なぜだろう。俺はずっと不思議に思っていた。
その答えは、夏のコンクール明けにあっさりと出た。
久しぶりに誠の家に遊びに行くと、音楽室に見慣れない真新しい楽器ケースが置かれていたのだ。
「うわ……おい、これ、あの世界最高峰のホルンじゃねえか! さすがボンボンは違うな」
俺が皮肉交じりに言うと、誠は淡々と首を振った。
「健二、これは僕が自分で買ったんだよ」
「はぁ? どうやって。中学生が小遣いで買える値段じゃねえだろ」
「……健二にだけ教えるから、他の人には黙っておいて。投資で買ったんだよ」
「と、投資……?」
今思えば、この時点でコイツは間違いなくバケモノだった。
誠はなんと、小学生の頃からお年玉を元手に株式投資をしていたというのだ。あの分厚い『四季報』を読み込んで投資先の企業を徹底的に分析し、確実に複利で元手を増やし、自らの力でこの最高級のホルンを手に入れたのだと。
「健二。今はどんどん株価が上がっているけれど、あと五年くらいで壁にぶつかると思う。僕たちが大学を卒業する頃には、日本経済に暗雲が立ち込めるんじゃないかな」
……お見事。今振り返れば、あの時の誠の予測は恐ろしいほど正確だった。
のちに俺が証券マンの道へ進み、トップにまで上り詰めたのは、間違いなくこの時の衝撃があったからだ。アイツの「知の暴力」に触れ、俺もこの金融の世界で頂点に立ってアイツを見下ろしてやるという野心が芽生えた。俺の人生は、あの日を境にいい方向へ激変したのだ。
「吹いてみていいかい」
誠が、真新しい世界最高峰のホルンに息を吹き込む。
——音が、まるで違った。
今までの窮屈さが嘘のように、深く、伸びやかな響きが部屋中に広がる。誠が弾くピアノと同じ音。すべてを根底から支え、豊かに包み込む黄金の音色。
……学校の備品のボロい楽器では、アイツの出す膨大な情報量と息のキャパシティを、とっくに受け止めきれなくなっていたのだ。
まだ吹き始めて一年ちょっとだというのに。コイツは本当に、底知れぬ才能の塊だった。
クソ。やっぱり、負けてられない。
コンクールが終わり、三年生が引退して代替わりとなった。
俺は迷わず部長に立候補し、誠に副部長兼基礎合奏担当を任せることにした。
中学生が基礎合奏を仕切るなど異例のことだったが、アイツの底知れない実力と論理的な頭脳なら絶対にやれると確信していたからだ。
カリスマ性と牽引力を持つ「動」の俺と、完璧な論理で土台を構築する「静」の誠。
さあ、俺たちの代だ。ここからが、俺たちの時代だ。
年が明けて、昭和六十二年(一九八七年)の一月。
新体制の部長である俺は、吹奏楽部の顧問に音楽準備室へと呼び出された。
「健二、今年のコンクール、どうしたい?」
「もちろん、東海大会を目指します」
「それは健二だけの気持ちか? 他の二年生はどうしたいって言ってる」
つまりそれは、独りよがりではなく、代のトップとしてちゃんと部員の総意をまとめてこい、という確認だった。
当然、そんな根回しは済んでいる。
「はい。二年生全員の気持ちです」
俺が真っ直ぐに見返すと、顧問は満足そうに口角を上げ、机の上にあった分厚いスコア(総譜)をバンッと叩いた。
「わかった。じゃあ、今年の自由曲はこれだ」
表紙に印字されたタイトルを見て、俺は息を呑んだ。
アルフレッド・リード作曲、『春の猟犬』。
高校生のトップバンドでさえ苦戦するような大曲かつ超難曲を、中学生でやるというのか。
とはいえ、木管の——特に俺のサックスが死ぬほど目立ち、華やかに魅せることができる曲じゃないか。
(先生、俺のサックスで勝負に出たな)
吹奏楽に熱い顧問でよかったと、内心でほくそ笑んだ。
だが、今になって冷静に振り返れば、俺のサックスは単なる客寄せパンダに過ぎなかったのだろう。この曲の本当の出来を左右するのは、どう考えても中音域の要である「ホルン」なのだ。異常な跳躍技術と、すべてを包み込む表現力が求められる。
顧問は最初から、俺の牽引力と、あの誠の「バケモノじみた実力」を信じて、この曲を選んだのだ。
俺はすぐにスコアを誠の家に持ち込み、見せた。
誠は自分のパート譜とスコアを照らし合わせながらじっと見つめると、静かに深く息を吐いた。
「……中間部の解釈を、僕たちでしっかり定義しなければならないな。健二、スコアの表や裏やあちこちに書いてある英文を訳してから、スコアの指示記号を洗ってみよう」
誰が言い始めたか忘れたが、誠につけられたあだ名は『人間計算機』だ。こういう楽曲分析において、アイツの右に出る者はいない。必ず、誰もが納得する『正解』を弾き出してくれる。
しかし、一時間ほどスコアを睨みつけていた誠が、珍しく困惑したように顔を上げた。
「健二。指示の意味は解けたけど、僕には到底わからない解だった。……健二は得意なんだろうけど」
「は? なんだよそれ」
「中間部のテーマは、『愛』だ」
愛。
「なんで俺だけが得意なんだよ」
「君は会うたびに違う他校の女の子を連れているから、詳しいだろう?」
「バカ言え。アレは全部『都合のいい女』って言うんだよ。あんなの、ただの暇つぶしで愛なんかじゃねえ」
「どちらにしても、僕にはまったく理解できない感情だ」
俺たちは頭を抱えた。
中学生のガキ二人にとって、『愛(男女の愛)』なんて一番縁遠くてピンとこない概念だ。他にどう解釈すれば、あの壮大で甘いメロディを説得力を持って吹けるというんだ?
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音がして、ドアが開いた。
「健二くん、誠、ご苦労さま。差し入れ持ってきたわよ」
穏やかな微笑みを浮かべて、誠の母親がトレイを持って入ってきた。
「「――これだ!!」」
俺たちは無意識に、まったく同時に叫んでいた。
「えっ? どうしたの、二人して急に」
驚く母親に、俺は興奮気味に答えた。
「すんませんおばさん! 音楽の話です!」
無償の優しさ。すべてを包み込むような、温かい眼差し。
そうか、男女の愛じゃない。
俺と誠は、中間部を『母の愛(母性)』のイメージで吹くことに決めた。




