第二話【金色の輝きと、バケモノの聖域】
「ねえ健二、どうしたの? さっきから上の空だけど」
甘ったるい香水の匂いと共に、則子が俺の腕に絡みついてきた。
中一の夏くらいから、俺はぐんぐんと背が伸び、同時にやたらと女からモテるようになった。中学校に俺の非公式ファンクラブができたほどだ。
だが、同じ学校の女は後々面倒なことになる。だから俺は、自分のテリトリーには特定の彼女を作らず、他校の頭の悪そうな、都合のいい相手を見繕っては適当に遊んでいた。
則子もその一人だ。向こうから勝手に寄ってくるんだから、仕方ないだろう。
……そんなふうに女をアクセサリー感覚で消費して、ずっと要領よく遊んできたこの俺様が、真由子にだけは本気で惚れ込み、結婚初夜の今日まで指一本触れることができなかったのだから、人生というのは本当にわからないものだ。
「健二、イラついてない? 私、なんか気に障ること言った?」
「……ん? まさか」
俺は得意の営業スマイルを作って、則子の頭を適当に撫でた。都合のいい女に、俺の弱みなんか見せるものか。
俺がわけもなくイラついている理由。そんなものは一つしかなかった。
佐藤誠だ。
俺が裏でどれほど血を吐くような努力をして完璧を取り繕っても、あの氷のような男には絶対に敵わない。
それが無性に腹立たしく、焦燥感を煽られる。だが一番腹が立つのは、心のどこかで「アイツはすげえ」と、その実力を認めてしまっている俺自身がいることだった。
秋が深まり、冬の足音が聞こえてくる頃。ついに、俺の楽器がやってきた。
念願のマイ・サックス。ピカピカに光り輝く、俺の相棒だ。
手に入れた高揚感から、しばらくは自宅の部屋で吹き鳴らしていたのだが、すぐにうちの母親から「うるさい! 近所迷惑だろ!」と怒鳴られ、一蹴された。
学校で練習すればいいだけの話なのだが、実は一つ上の先輩と折り合いが悪く、音楽室には少し行きづらかったのだ。
(先輩の彼女が勝手に俺に惚れて、勝手に先輩をフッたからって、俺のせいじゃないだろうに。まったく、女ってやつは)
とにかく、部活は妙な空気が流れていて、買ったばかりの相棒を思う存分鳴らせる環境ではなかった。
そんな八方塞がりの俺に、思わぬ方向から手を差し伸べてきたのは、なんと誠だった。
誠は、俺と先輩との間のギスギスした空気をその計算機のような頭で正確に読み取ったらしく、ある日の放課後、無表情のまま話しかけてきた。
「花岡くん、新しい楽器の練習場所に困っているんじゃないのかい?」
図星を突かれた俺は、つい見栄を張るのも忘れて本当の事情をこぼしてしまった。
「なるほど。君には兄もお世話になっているようだし、ひとつ提案がある。……うちの音楽室を使ったらどうだろう」
「は? 音楽室? お前の家に?」
金持ちかよ、と喉まで出かかった。
とはいえ、このままではサックスを吹けない。背に腹は代えられず、俺は「ぜひに」と頭を下げた。
……ちなみに、後になって「あの時、なんで俺が先輩とギスギスしてる雰囲気を察してくれたんだ?」と聞いたことがある。
すると誠は、不思議そうな顔をしてこう答えたのだ。
「雰囲気を察したわけじゃない。データからの推論だよ。新しい楽器を買ったはずの君の、学校での練習時間が前週比で大幅に減っていること。徹から『健二が家でサックスを吹いて親に怒鳴られていた』と聞いたこと。そして、君とあの先輩が同じ空間にいる時、常に不自然な物理的距離が保たれていること。それらの事実から『君が人間関係のトラブルにより練習場所を失っている』という答えを導き出し、その非効率な状況を解消するための手段を提供しただけだ」
他人の気持ちがわからないと言い切る男の、意味不明すぎるアプローチに、俺は心底呆れた。
普通は「気まずそうな雰囲気」で察するもんだろうが。なんでわざわざそんな計算式みたいな思考回路になるんだよ。
だが、そんな理屈っぽくて不器用なアイツの『最適解』が、当時の俺にはどうしようもなくありがたかった。
実際に足を踏み入れた佐藤家は、想像を絶する金持ちだった。
防音設備が完備され、真ん中にグランドピアノが置かれた広い音楽室——もともと誠の母親が使っていた部屋だそうだ——で、俺は思う存分サックスの練習をさせてもらった。
「ハロオゥ〜健二! 遊びに来たの!?」
時折乱入してくるチャラい兄貴の存在さえ無視すれば、そこは俺にとって最高の環境だった。
音楽室に入ると、いつも俺が一番吹きやすい位置に譜面台と椅子がセッティングされていて、室温も快適に保たれていた。 さらに、俺のサックス一本だけだと寂しいなと思う絶妙なタイミングで、誠がピアノで合わせてくれた。
俺のサックスが「俺の音を聴け!」と前に出る音だとしたら、アイツのピアノは、俺の音を一番美しく響かせるための、どこまでも深く、温かい土台のような音だった。
氷の男じゃない。このピアノが語る優しさと包容力がたぶんコイツの本質なんだろう。
「おい、お前……口では理屈ばっか並べるくせに、本当は優しいとこあるじゃんかよ」
そう茶化すと、誠はまた無表情で言い返してきた。
「君のピッチが不安定だから、和音で支えて修正を促しただけだ」
ほんと、素直じゃねえ奴。
俺がサックスの練習をしている間、誠が何をしているのかといえば、部屋の隅で分厚い本をパラパラと熱心にめくっていた。
「おい、お前いつも何読んでるんだよ。漫画じゃないよな」
「『四季報』だ。企業の情報が詰まっている本だよ」
「しきほう……?」
「そう。これを読めば日本の経済の動向がわかる。戦前から発行されている、伝統ある文化さ」
俺は持っていたサックスを落としそうになった。
中学生が、放課後に読む本か、それが。
コイツの頭の中はいったいどうなっているんだ。やっぱり正真正銘のバケモノじゃないか。
そして、俺が佐藤家に入り浸るようになったもう一つの理由があった。
いつも練習の合間に、誠のお母さんがおやつや飲み物を運んできてくれたのだ。
「誠がお友達を連れてくるなんて初めてで、おばさん嬉しいわ。健二くん、いつでも来てね」
入学式の日に見た、凛として上品で、穏やかな人。
うるさくてガサツなうちの母親とは対極にいるような彼女の微笑みを見るたび、俺の胸の奥が不思議な温かさで満たされた。
今思えば、俺は誠のお母さんに特別な感情を抱いていたのかもしれない。
女として俺のものにしたいとか、そういうんじゃない。ただ、会いたかった。
——この人が、俺の母親だったらよかったのに。
そんな、言葉にできない無自覚な渇望だった。
のちに俺が、その『上品で穏やかな空気』を纏った真由子に、どうしようもなく惹かれていくことなど、この時の俺は知る由もなかった。
気づけば俺は、佐藤家に行くのが楽しみになっていた。
誠のことを知れば知るほど、アイツの底知れない思考が面白くなった。
絶対に敵わないと思っていたあの「氷のバケモノ」が、いつしか俺にとって、どうしようもなく愛おしい『親友』になっていたのだ。




