第一話【ちいさな魔王(カスチェイ)と、ちいさな計算機】
二〇〇六年、春。
松本市内のシティホテル、最上階のスイートルーム。
今日、俺と真由子は入籍し、人前式で誓いを立て、身内と親しい友人だけを招いてレストランで披露宴を行った。
長い一日が終わり、ようやく訪れた二人きりの「初夜」。
ベッドの隣では、真由子が疲れたのか、規則正しい寝息を立ててぐっすりと眠っている。
俺は、その白く柔らかな頬にそっと指先で触れた。
手の速さなら松本一だと自負していた俺様が、結局、今日の今日まで彼女に手を出せなかった。
……嫌われたくなかったのだ。
真由子は、俺が人生で初めて本気で惚れ込み、大切にしたいと心から願った女だった。
最近の真由子は、出会った当初のあの虚ろな目をすることが少なくなり、ふとした瞬間にとても穏やかで幸せそうな顔を見せるようになった。
俺と結婚できたことが嬉しい、ということだろう。
当然だ。俺様がプロポーズして、嬉しくない女なんてこの世にいるはずがない。
……よかった。本当に。
俺は満ち足りた征服感と、温かい庇護欲に胸を満たしながら、ふと、数時間前の披露宴での出来事を思い返していた。
俺の親友であり、俺と真由子が入団している市民吹奏楽団の仲間でもある佐藤誠。
披露宴の最中、ウエディングドレス姿の真由子を見つめていたアイツの目の色が、明らかにおかしかった。
昔からアイツの考えていることは、俺でも理解できないことが多い。だが、今日アイツが真由子を見た瞬間に見せたあの表情は、俺の胸の奥をざわつかせた。
披露宴が終わる頃には、アイツの瞳に宿っていた「すべてを諦めたような沈黙」が完全に消え去り、代わりに、何かを激しく決意したような強烈な理性の光が灯っていた。
まるで、ずっと電源を落としていた巨大な計算機が、限界を超えて再起動したかのような……そんな目だった。
俺たちの高校時代、アイツが「新薬を作るためにT大へ行く」と執念を燃やしていたあの時と全く同じ、いや、それ以上に恐ろしい熱を帯びた目。
アイツは今日この日、真由子の花嫁姿を見て、何かに気づいたとでも言うのか?
……どうして今夜、あの時の誠の目を思い出すのだろうか。
隣で無防備に眠る真由子の髪を撫でながら、俺の意識は自然と、すべての始まりであるあの春へと遡っていった。
誠と初めて会ったのは、忘れもしない昭和六十年(一九八五年)の春。中学の入学式の日だった。
俺には、四歳年上の兄貴がいる。その兄貴の友人に、「徹」という俺がこの世で最も苦手とする男がいた。
俺たち兄弟とは正反対の端正な醤油顔のくせに、やたらと華やかでチャラい言動をする男だ。アイツに「ハロオゥ〜健二」と馴れ馴れしく肩を組まれると、蕁麻疹が出そうになる。
入学式の日、俺の母が徹の母親にばったり出くわした。
徹の母親は、ばぁちゃんと年がら年中ケンカしている気の強いうちの母とは大違いで、凛として上品で、ひどく落ち着いた美しい人だった。
……今思えば。あの上品で静かな佇まいは、どことなく真由子と似た空気を纏っていた気がする。
立ち話の最後に、徹の母親が俺に優しく微笑みかけた。
「健二くん。同じ学年に、うちの次男もいるのよ。徹を知ってるお友達はみんなびっくりするんだけど……誠っていうの。よかったら、仲良くしてやってね」
俺は、大人顔負けの完璧な営業スマイルで「ええ、もちろん」と返した。
(冗談じゃない。あんなチャラい男の弟なんて、絶対に関わりたくないね)
ところが。
入学式を終えた後の廊下でそいつを見つけて、俺は息を呑んだ。
身長は百四十センチそこそこ。顔の造作は徹に瓜二つで、黙っていればどちらかわからないレベルだ。
(うわ、あの弟かよ……)
「健一くんの弟さんだよね。一組の、佐藤誠です。兄がいつもお世話になっています」
俺の二組の隣、一組か。
言葉遣いはひどく丁寧だった。だが、表情というものが一切ない。愛想笑い一つ浮かべず、ただ淡々と事実だけを述べる。徹のあの軽薄さとは真逆の、まったく隙のない『氷』のようなヤツだった。
俺は強烈な面食らいと共に、佐藤誠という存在を脳裏に焼き付けられた。
中学に入り、俺は念願の吹奏楽部に入部を決めた。
選んだ楽器は、当然サックスだ。花形であり、一番格好いい。俺が目立たなくて、いったい誰が目立つというんだ。
だが、音楽室の扉を開けると、そこにはまたしても佐藤誠がいた。
音楽なんて一番似合わなそうな顔をしているくせに。
「花岡くんは、サックス希望なんだね。僕は、一番難しいとされているホルンに挑戦してみたいんだ」
ホルン。地味で、裏方に回ることの多い楽器だ。
氷のようなアイツには、確かにお似合いかもしれないな。
俺は家に帰り、両親に直訴した。
「今度の中間テストで学年一位を取るから、ご褒美に俺だけのサックスを買って欲しい!」
しかし、隣で聞いていた兄貴が呆れたようにため息をついた。
「健二、やめとけ。父さん、母さん、学年三位以内で約束してやってよ」
「あ? なんだよ兄貴」
「……徹もかなり賢かったけどな、弟の誠はバケモノだぞ。いくら健二が秀才でも、アイツには無理だ」
俺は自慢じゃないが、周囲には『天性の才能だけで何でもこなす天才』で通している。だが、実際は隠れて血を吐くような努力をしている、超絶ガリ勉だ。
他人に努力の過程を見せるなんてダサい真似は、絶対にしない主義だ。見えないところで、俺より勉強している同級生なんて絶対にいるはずがない。
そして迎えた、中間テストの順位発表。
当時の学校は、ご丁寧に成績上位者の名前が廊下にデカデカと貼り出されていた。
俺は余裕の笑みを浮かべ、輝かしいトップの名前を見上げた。
1位 佐藤 誠 500点
2位 花岡健二 489点
……は?
なんだよ、満点って。バケモノか?
——いや。兄貴の言う通り、佐藤誠は正真正銘の『バケモノ』だった。
結局、誠は中学三年間、一度たりとも一位の座を明け渡すことはなかった。それどころか、すべての定期テストで五百点満点を叩き出し、中学校の生きた伝説となった。
ついでに言えば、俺も三年間、全定期テストで『二位』という、まったく嬉しくない大記録を打ち立ててしまった。
六月。校内合唱コンクールが開催された。
俺は当然、二組の指揮者に立候補した。一年生とはいえ、俺様のカリスマ性と音楽センスを見せつければ、学年一位(金賞)は二組がもらったも同然だ。
練習での俺の指導も、本番のタクトも完璧だった。
対して、隣の一組。誠は「歌うのは合理的じゃないから」と、クラスのピアノ伴奏を引き受けていた。
あの氷の男が弾く伴奏なんて、どうせ機械のように無機質でつまらないものだろう。
——だが。
ヤツの指が鍵盤に触れた瞬間、体育館の空気が一変した。
一組の連中どころか、体育館の空間すべてを底辺から支え、優しく包み込むような圧倒的な包容力。
「こう歌えばいい」と、すべてを正しく導いてくれるような音。
あの無表情な氷の男のどこから、こんなにも深く、血の通った音が鳴るんだ。
俺は、勉強だけでなく……俺の最大の武器であるはずの「音楽」でも、アイツに負けたのだ。




