第四話【解かれた数式と、はるかなる最適解】
長い、長いため息をつくようにして、徹さんは静かに過去の物語を締めくくった。
「……というのが、誠の抱えてきた過去だよ」
私は膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、ただ黙ってうつむいていた。母がどれほど彼に愛されていたか、そして彼がどれほど深い絶望と後悔を抱えて生きてきたかが、痛いほど伝わってきたからだ。 徹さんは、そんな私を安心させるように、少しだけ口調を和らげて付け加えた。
「だから、よく世間で囁かれるような、その……」
「お父さんが私を愛人にしたいと思ってると誤解されることですよね」
「ああ。誠に限って、絶対にそれはないよ」
「実は、以前花岡の祖母に言われたので、お父さんに直接ぶつけちゃいました」
「うっ。……君は、本当にお母さん譲りの芯の強い子なんだね」
徹さんは苦笑しながら、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。
「誠が遥ちゃんに対して抱いている気持ちは、決して一つじゃないと思う。真由子さんの面影を追っている部分もゼロじゃないだろう。でもね、男女の気持ちだけは絶対にない。あいつが君を引き取ってからのこの数ヶ月、どれほど不器用な努力をしてきたか……君には伝わっていると思うけど」
「不器用な、努力……」
「あいつ、君が来るって決まった日から、思春期の女の子に必要な栄養素とか、適切な距離感とか、夜な夜な分厚い本を広げて必死に計算式を組んでたんだよ。傍から見てて呆れるくらいにね」
徹さんの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「それに、あいつ……最近すごく幸せそうなんだよね。君が来てくれて、あいつの止まっていた時間がようやく動き出したんだ。あいつは多分、本当の意味での『家族』が欲しかったんだと思う」
徹さんはそう言い残すと、「邪魔したね」と優しく微笑んで母屋に帰って行った。
一人残された音楽室。私は、お父さんの大切な写真をもう一度静かに見つめた。
先ほど徹さんが語ってくれたお父さんの過去の話を聞いて私の中で押し殺していた違和感が輪郭をもってはっきりと見えてきた。
私は自分の家しか知らなかったから、今までは『家族』ってあんなものだと思っていた。 ううん、本当はうすうす「何かがおかしい」とは気づいていたのだ。東京では近くに親戚もいなかったから、わからないふりをしてやり過ごすしかなかっただけで。 けれど、佐藤家にお世話になり、お父さんや徹さんという「家族」の温かさに触れるうちに、実の父の異常さが浮き彫りになってきた。
実の父——花岡健二は、今思えば、母のことを好きすぎるあまり、私に対してすら「自分から母を奪う存在」として嫉妬していたのかもしれない。
あんなに母に酷いことをしていたのに、母が亡くなった後、父は会社にも行かず部屋に閉じこもって浴びるようにお酒を飲み続けて、焦点のあわない空な目をして、口を開けばうわ言のように「真由子、真由子」と呼ぶばかりだった。すぐそばにいる私の存在なんて、最初からなかったかのようだったし……結局、彼にとっての愛情とは、母を鳥籠に閉じ込め、支配することでしか表現できないものだったのだ。
でも、佐藤誠という人は全く違う。 母が最期に遺してくれた「自分の足で生きてほしい」という願いを全力で尊重し、私の人生や時間を絶対に奪わないよう、完璧な距離感で包み込んでくれている。
相手を縛り付けるのではなく、ただ静かに守り抜くこと。それが本当の愛情なのだと、私はここで初めて知った。
私は写真立てと楽譜の束を、そっと元の位置に伏せて戻した。 お父さんがこの事実を隠しておきたいなら、私もずっと気づかないふりをしよう。それが、不器用で優しすぎる『お父さん』への、私なりの小さな恩返しだから。
——お父さんの期待に応えたい。 いや、違う。たとえ私が大学に合格してもしなくても、お父さんは絶対に私を否定しない。どんな結果になろうと、きっと私の人生のための『最適解』を何度でも組み直してくれるだろう。
だからこそ、私は自分の足で立ちたい。 与えられるだけの子供を卒業して、いつか私も、彼を少しでも支えられるような大人になりたい。
私はこの決意を元に毎日必死で勉強し、追い込みをかけた。
お父さんはそんな私に、彼らしい完璧な計算式で最大限のサポートをしてくれた。
私が勉強している後ろで専門書や論文を読みながらそっと様子を伺い、私の集中力が切れる絶妙なタイミングで、脳の疲労回復に最適な成分を計算した特製のスープや淹れたての温かいお茶をそっと机に置いてくれた。
こんなにも穏やかな気持ちで机に向かえたのは一体何年ぶりだろう。
そうだった。私は本当は新しい知識を得ることが、勉強することが大好きだったんだ。かつて否定され続け、見失いかけていたその気持ちを思い出させてくれたお父さんに改めて心から感謝した。
二〇二八年、春。 私は、第一志望の東京の大学に見事合格を果たした。
報告を聞いたお父さんは、いつもの冷静な顔をほんの少しだけ崩し、「……君の努力が、正しい数式を導き出したんだね。よく頑張った」と、心底安堵したように微笑んでくれた。
お父さんは合格祝いとして、私が東京で一人暮らしをするためのマンションを用意しようと持ちかけてきた。私は真っ直ぐに彼を見つめ、口を開いた。
「お父さん。私からの、最初で最後のわがままを聞いてほしいの」
「なんだい?」
「東京に借りるマンションはね、お父さんが出張で来た時に一緒に過ごせるような、少し広めの部屋にしてほしいの」
その言葉が意味するもの。それは、私がこれからも一時的な居候などではなく、「佐藤誠の娘」として生きていくという、何よりの証明だった。
常に冷静沈着な『人間計算機』の目から、不意に、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……わかった。完璧な物件を探そう」
長かった暗闇は終わり、数式は美しく解かれた。 私は、佐藤誠と「親子」として生きていくことを選んだのだ。
滝丸です。
番外編『幻奏( IF ストーリー〜真由子一度目の人生・その後〜)』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、「もし、真由子がタイムリープしていなかったら」というお話でした。
実はこのストーリー、本編の第二楽章を描き始めたあたりに思いついてすぐに書き出したのですが……あまりにも辛すぎて涙が止まらなくなり、しばらく放置してしまっていました。
それでも、「最後まで書き切ることこそが、一度目の世界に取り残された遥と誠に対する誠実さかな」と勝手に思い直し、最後まで書き切ることにしました。
先にシルバーウィーク特別編として一部を掲載させていただいたあと、今回の完成形を公開させていただきましたが、いかがだったでしょうか。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、第三話の中で誠と真由子が会話しているシーン(特別編では誠の『夢』として公開した部分)には、非常にマニアックな仕掛けをしています。あれは単なる夢ではなく、「一度目の世界の記憶のトレース」だと確定できるところがあります。ぜひ、検証してみてください。
辛いことがあったあの二人が、このあとは穏やかに幸せに暮らしていくことを願ってやみません。
さて、番外編集はまだまだ鬱陶しいほど続きます(笑)。
明日20:10からは、本編の終盤でも予告いたしました「健二と誠の青春時代」のお話です。
シンクロニシティ・エピソードゼロ
〜魔王と計算機の青い共鳴〜
本編では断片的にしか語られなかった、全く正反対の二人が過ごした中高時代。なぜあの二人が「親友」になったのか、その始まりの物語を全八話でお届けします。
ぜひ、お楽しみください!




