第三話 【独奏——佐藤誠 時間切れの解】
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本エピソードの前半は「シルバーウィーク特別編」の再掲、後半はその後の新規エピソードとなります。
二〇〇五年、夏。
常念松本吹奏楽団の練習日、休憩中のことだった。
俺に話しかけてきたのは、クラリネットの浅野さんだった。
控えめで、自分から積極的に前に出るタイプではないが、楽器の腕は確かだ。芯があって、極めて正確な音を出す。古い付き合いの健二などわずかな例外を除いて、ほとんどの人がただの『風景』になってしまう俺の視界のなかで、確かな輪郭を持って存在する数少ない人だった。
そんな彼女が、ものすごく緊張した面持ちで俺に声をかけてきたのだ。
「あ、あの。音楽の解釈や分析がすごく上手だとお伺いして。課題曲の解釈についてお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「ああ。どこだい」
彼女はほっとしたような表情を見せて、楽譜を差し出してきた。
まともに話したのは初めてだったが、見た目通りひたむきな子だ。些細なフレーズだから適当に吹いてもごまかせる箇所なのに、彼女はきちんと構造を理解しようと考えている。
いや、彼女のいつもの音が物語っていた。彼女が常に誠実に音楽と向き合っていることを。
俺の拙い説明ですっきりした顔になり、納得できた彼女がパッと明るい笑顔を見せる。
その笑顔につられ、俺も自然と微笑んでいた。そして、無意識に言葉が口を突いて出た。
「君は、いつも真面目に音楽と向き合っているね」
彼女は少し頬を赤くし、「嬉しいです、ありがとうございました」と一礼して、自分の席に戻っていった。
彼女の笑顔を見た直後から、俺の人生に再び光が差し込んだような気がした。気がついたら、自分の中で淀んで止まっていたはずの音が、再び力強く動き出していた。
「え、佐藤さん。急に上手くなってない? いや、もともと上手かったけど、芯が出たっていうか、包み込まれるっていうか」
隣の奏者が驚いたように話しかけてきたが、正直、俺が一番驚いていた。
なぜだろう。
彼女の笑顔には、そんな非科学的な力があるのだろうか。
秋。
親友の健二——東京の大手証券会社に就職し、昨年から期間限定で長野支社に転勤してきている——とはちょくちょく飲みに行っていたが、ある日、健二がいつになく上機嫌で俺に言ってきた。
「俺、来年の夏に東京に戻る内示を受けたんだ。本社に戻る、栄転だ」
「そうか。おめでとう」
「でさ。結婚することにした」
「……え? 女癖の悪いお前が?」
健二は中学の頃から、女性を取っ替え引っ替えしていた。特定の彼女を作らず、王子様のように振る舞いながら、他校に一人ずつ都合のいい相手を作っては上手に遊んでいた。俺には想像もつかない手口だが、別れる時も相手に恨まれないように立ち回る。
そんな健二が、結婚?
「人聞きの悪いこと言うなよ、俺は本気だ、大切にしたいんだ。その証拠に、プロポーズを受けてくれた真由子にはまだ手も出してない」
「真由子?」
「あ、クラリネットの浅野真由子だよ。いい女だろ。誠、狙ってた?」
「いや。……おめでとう」
健二が本気で浅野さんを想っていて、大事に扱うために手も出さずにプロポーズまでした。
対して俺は、彼女に挨拶すらまともにしたことがない。ただ、遠くからその正確でひたむきな音を聴いているだけだった。
『対して俺は?』
なぜ、自分と健二を比べているのだろう。
俺の中の計算機が、けたたましく警告音を鳴らしている。
健二が彼女を「所有」することに対して、なぜこれほどまでに不快なのか。なぜ、胃の奥に冷たい鉛を飲み込んだような嫌悪感がこびりつくのか。祝福の言葉を口にするだけで、声が引きつる。
親友が初めて心からの恋をして幸せそうにしているというのに、このどろりとしたどす黒い、名もなき感情は何なんだ。
俺の計算機は、自分のこの不快感の「数式」を、どうしても導き出すことができないでいた。
二〇〇六年、春。
松本を離れる前にと、親友が設定した結婚式と披露宴。
人前式のあと、おしゃれなレストランウエディングへと場を移した。
健二のエスコートで現れた浅野さんは、松本ではなかなか見ない、都会的で洗練されたマーメイドスタイルのウエディングドレスを着ていた。いかにも健二が好みそうな、見栄えのするドレスだ。
浅野さんを見た途端、俺は今まで抱えていた複雑な感情の、最もシンプルで明確な『解』を導きだしてしまった。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
でも、彼女の幸せそうな視線の先にあるのは俺ではなく、健二なのだ。
居酒屋で抱えたあの得体の知れない黒い感情は、彼女への『恋心』だったのだと、彼女が他の男のものになって初めて理解した。
もっと早くこの気持ちに気づき、行動を起こしていれば、何かが違ったのだろうか。
いや。
あの健二が浅野さんを見る時の目は、いつもとは全然違う。
あれは間違いなく、浅野さんを心から愛している目だ。
浅野さんが幸せになれるなら、それでいい。ここでくすぶっている俺なんかより、光り輝く健二と共に、おばあちゃんになるまで幸せでいてほしい。
もし、もう一度人生をやり直すことができて、もう一度君に出会うことがあるならば。
今度は確実に、君の隣に立てるような男になるよ。
そうだ、今からでも遅くはない。
親父が倒れたあの冬に止まってから、ずっと止まりっぱなしだった俺の計算機を、もう一度フル稼働させよう。いつか君の隣に胸を張って立てる男になるために。まずは俺自身が、立ち止まっていた自分の人生を、力強く生き直そう。
その夜は、そんな未練がましいことを思いながら、ひとり、泥のように眠りについた。
浅野さんの結婚式が終わった後、俺はひたすら何かに取り憑かれたように研究に没頭した。久しぶりにT大の恩師に連絡を取り、死に物狂いで博士課程を最速で修了した。
年齢的な壁もあり、T大の研究室に長く留まることは叶わなかったが、少しの間籍を置かせてもらった後、とある製薬会社に転職し、再び研究の道へと戻った。
あれから二十年——今では製品開発部の部長となり、東京と松本の研究室を慌ただしく往復する毎日を送っている。俺の人生は、傍から見れば十分に成功した「最適解」のように見えただろう。
二〇二六年、二月。
健二の父親が亡くなったと、兄から連絡が入った。俺と健二、そして互いの兄同士も同級生という縁があり、花岡家とは昔からそれなりの付き合いがあった。俺は兄と共に、健二の父の葬儀に参列した。
健二本人とは二〇〇六年の結婚式以降も何度か顔を合わせていたが、浅野さんの姿を見るのは実に二十年ぶりだった。
ひと目見て、俺は愕然とした。
彼女は、ちっとも幸せそうではなかったのだ。
自身を飾ることに一円たりとも金をかけていないとわかる、疲れ切った容姿。それなのに、健二が買い与えたであろう一目でわかる高級な喪服だけが、彼女の体を不自然に包んでいる。その残酷なアンバランスさが、彼女の強いられている不幸を如実に物語っていた。
唯一、隣に寄り添う彼女に瓜二つの娘さん——健二が、生まれてすぐのころ『幸せだ』と俺への当てつけのように自慢してきた『遥』という名の娘——に向ける視線だけが、俺の記憶にある温かい「昔の彼女の目」だった。
自分の愚かな計算違いを、俺は心の底から呪った。
あんな風にすり減らされるくらいなら、結婚式場から強奪してでも俺が彼女を奪うべきだったのだ。健二の奴、『俺は本気だ。大切にしたい』と言っていたじゃないか。それなのに、なぜあんなにも彼女から生気を奪い去ることができるんだ。
……魂が抜けたような目をした彼女は、それでもあの檻のような家庭の中で「幸せ」だと自分に言い聞かせて生きているのだろうか。
帰り道、到底答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると回り続けていた。
俺は健二に直接一言言ってやろうと、東京出張の折に連絡を入れた。しかし、トップ証券マンとして多忙を極めるあいつとはなかなか予定が合わず、結局会えずじまいになってしまった。
十二月。東京出張へ向かう『あずさ号』のグリーン車に乗っていた時のことだ。俺のスマホに着信が入った。兄からだった。
『誠、落ち着いて聞けよ。……健二が、亡くなったそうだ』
耳を疑う言葉に続く報告は、俺の理性を粉々に打ち砕いた。浅野さんが事故で亡くなり、妻を失って自暴自棄になった健二もまた、事故で亡くなったというのだ。
電話の向こうの兄の声は、ひどく沈痛だった。兄は、俺がずっと浅野さんを想い続けていたことを知っていたから。
東京での仕事を上の空で終わらせ、俺は健二の亡骸が安置された場所へと向かった。
周囲からは悲痛な啜り泣きが聞こえていたが、俺の胸の中に悲しみは一切なく、ただ健二に対する激しい憎悪と怒りだけが煮え滾っていた。
冷たくなったかつての親友を見下ろし、俺は堪えきれずに吐き捨てた。
「……浅野さんに、なんてことをしたんだ」
あの頃、自分の感情という不確定要素に気づくのが致命的に遅かった。本当に、ただそれだけのことだったのだ。
でも——。 二月にあんなにも擦り切れた浅野さんを見たあの時。世間の常識や理屈などすべて投げ捨てて、何と言われようと俺の元へ強引に連れ去るべきだったのではないか。
……いや、ただの身勝手な自己満足だ。あの頃、遠くから見つめているだけだった俺のことなど、彼女はもう覚えてすらいなかっただろう。
浅野さんに瓜二つだった一人娘の遥さんは今、どうしているのだろうか。
健二のことはともかく、たった一人の母親を失った彼女の悲しみはいかばかりだろう。俺自身も病であっという間に母を亡くし、世界が崩れ落ちるような絶望を味わっている。ましてや彼女の場合は、ある日突然、理不尽に母親を奪われてしまったのだ。その喪失感は計り知れない。
行き場のない後悔を持て余した、久しぶりの休日。
彼女の記憶も、声も、もはや遠い過去のものとなってしまったけれど。
家にいても息が詰まるようで、俺はふと思い立って外に出た。
特に行き先があったわけではない。ただ、不意に吹き抜けた春の風に背中を押されるようにして、俺は当てもなく市内の図書館へと足を運んでいた——。




