第二話【穏やかな日常と、写真立ての秘密】
あの日、図書館で『最短のルートを組もう』と連絡先を渡されてから一週間、私は一人で静かに考え続けていた。
母方の祖父母は私を優しく迎え入れてくれたが、明らかに高齢で身体も弱っており、いつまでも頼ることはできない。かといって、母の弟である叔父の家にははっきりと物を言う性格のお嫁さんがいるため、居候すれば気を遣って精神的にすり減るのが目に見えている。
そして、父方の花岡の家は古い因習に縛られた家柄だ。大好きだった母を散々いびり抜いたあの家の人たちの世話になることだけは、絶対に嫌だった。
近いうちに自立しなければならない。けれど、十八歳の私がいきなり一人で生きていくことはできない。八方塞がりの暗闇の中で、私にはもう、彼がくれた手帳の切れ端しか光に見えなかった。
一週間後。私は意を決して連絡を取り、佐藤さんと再び会うことになった。
「佐藤さん。……お言葉に甘えて、私の再出発を助けてもらえますか」
私の決意を聞き、佐藤さんは静かに頷いた。その瞳は、一週間前の優しい大人の目ではなく、極めて冷徹な「計算機」の目をしていた。
「わかった。……君はすでに十八歳で成人しているから、差し出がましいかもしれないが、僕から一つ提案がある。君を、僕の『養女』として引き取りたい」
「え……養女、ですか?」
息を呑む私に対し、佐藤さんは淡々と事実を並べた。
「君の両親が亡くなったことで、君のお母さんが遺したお金だけでなく、健二の保険金や東京のマンションなど、莫大な遺産が君のものになったはずだ。僕もかつて父を亡くした時に経験したが……そういった金には、必ず良からぬ人間が群がってくる」
彼の実家もまた、大きな資産家だった。だからこそ、孤独な私の足元がどれほど危ういか、この一週間で完全に計算し尽くしていたのだ。
「今の親族の状況では、君の心と財産を守り切る防壁にはなれない。だから、僕が法的な『親』になる。僕の戸籍に入れば、花岡の家だろうと誰だろうと、君の人生に指一本触れさせることはない」
それは、あまりにも極端で、けれど完璧なまでに合理的な解決策だった。
過去に数回しか会ったことのないおじさんの養女になる。普通なら、警戒して断るだろう。けれど、私はなぜか、この人についていきたいと強く思った。彼が私を真っ直ぐに見つめるその瞳の奥で、母が『この人を信じて』とお願いしているような気がしたからだ。
私から段取りをつけ、佐藤さんはまず、祖父母の元へ挨拶と相談に訪れた。
難色を示すかと思っていた祖父だが、佐藤さんの面差しや上品な佇まいをじっと観察するように見つめた後、ふと確認するような口調で尋ねた。
「……佐藤さんは、ご実家はどのあたりでいらっしゃいますか?」
「S小学校のすぐ近くです」
「ああ、やはり……。では、お父様はS大で教授をされていた?」
「はい。平成十一年の初秋に他界いたしましたが」
それを聞いた途端、祖父は痛ましくも納得したように深く頷いた。
「そうでしたか。たしかお亡くなりになる五年ほど前の冬にお倒れになって、ご家族で看病されていたんですよね。私も昔、お父様がお元気な頃に会合で何度かご一緒したご縁がありまして、亡くなられたと聞いた時は本当に残念でなりませんでした。お宅が資産家でいらっしゃることや、貴方がお父様の看病のために東京から戻られた優秀な息子さんだということも、よく存じております」
祖父は鋭い、現実的な目を佐藤さんに向けた。
「……率直に言えば、遥は健二くんの保険金などを受け取っていますから、金目当ての輩がこれからも沢山わいてくるでしょう。ですが、あのお父様のご子息であり、ご家族のためにご自身の道を後回しにされたほど誠実な貴方なら、間違いなくそんなことはない。どんな形であれ、遥を守ってやってほしい。私たちはもう長くない。……お願いします」
「ありがとうございます。正直、あまりにもあっさりとお許しいただいたので、驚いています」
佐藤さんの率直な言葉に、祖父は少し考えてから、再び口を開いた。
「佐藤さん。貴方は、昔、真由子と同じ吹奏楽団にいらっしゃったんですよね。楽器は、何を?」
「ホルンです」
「少し、待っていてください」
祖父は二階へ上がり、やがて一冊の古い楽譜を手に戻ってきた。
「去年、健二くんのお父さんが亡くなられた時、真由子は遥を連れてこの家に泊まりましてね。その時、この楽譜をずっと見ていたんです。……貴方も、見てやってください」
手渡された楽譜。その最後のページには、母の几帳面な字で様々な書き込みがあった。
その中の一つ。
『ホルンの佐藤さんに課題曲の解釈を聞いた。的確に教えてくれて、感謝』
それを見た瞬間、常に冷静な佐藤さんが、はっと息を呑み言葉を失った。
「真由子は、貴方のことを心から信頼していたようだ。……私たちは、真由子が信頼していた貴方に賭けようと思うんです」
それからほどなくして、私は松本にある佐藤家の敷地内へ引っ越した。
綺麗にリフォームされた大きな母屋には兄の徹さん夫婦が住み、佐藤さんは離れである音楽室の隣に広めの平屋を建てて暮らしていた。
引っ越しの挨拶をした日。徹さん——佐藤さんと顔がそっくりなのに底抜けに明るい人だった——は「今日からここは君の家だからね!」と明るく歓迎してくれたが、私の顔をじっと見た瞬間、ふっと切なそうな顔をした。
「……本当に、お母さんとよく似ているね」
その声に滲んでいた感情の正体を、この時の私はまだ知らなかった。
佐藤さんとの共同生活は、私がそれまで生きてきた「家族」の概念を根底から覆すものだった。
食事は共にしつつも、寝室とバスルームは音楽室に隣接する離れを使わせてもらうという、完璧に配慮された距離感。
製薬会社の製品開発部の部長として東京と松本を行き来する彼は、毎日顔を合わせるわけではなかったが、リビングのカレンダーには常に彼の予定が几帳面に書き込まれていた。自分の居場所を常に共有し、家にいる時はできる限り私に寄り添ってくれる。
いつ機嫌を損ねるか分からず、家族を顔色一つで支配しようとしていた父とは、何もかもが真逆だった。
「私……大学では、天文学か宇宙物理学を学びたいんです」
あの春の日、喫茶店で志望校自体は伝えてはいた。けれど、いざ『養女』として彼と正式な家族になり、かつて実の父から「金にならない」と冷笑され続けた学問の名を改めて口にするのは、やはり怖かった。また呆れられ、鼻で笑われるのではないかという呪縛が、どうしても拭えなかったのだ。
おそるおそる打ち明けた私に、佐藤さんは深く頷いた。
「女性が理系に進むのは大歓迎だ。いや、どの道であれ……自分で選び、切り開いていくことが素晴らしいし、僕は心から尊敬するよ」
その晩、離れの自室で私は人知れず声を殺して泣いた。 かつて父に「金にならない」と冷笑され、否定され続けてきた私の夢を、彼はたった一言で全肯定してくれたのだ。
彼によって完璧に計算し尽くされた、優しく穏やかな日常。 佐藤さんのそばにいると、深い絶望の中で止まっていた私の時間が、確実に前へと進んでいくのがわかった。
そして秋が深まる頃には、私は佐藤さんのことを、ごく自然に『お父さん』と呼ぶようになっていた。
初めてそう呼んだ時、彼は少しきょとんとして、それからひどく嬉しそうに、目を細めて微笑んでくれた。
ある夜のこと。
食後の何気ない会話の中で、私はふと、いたずらっぽく笑って言った。
「お母さん、花岡のお父さんじゃなくて、お父さんと結婚すればよかったのにね」
言った直後。私は自分自身の言葉にはっと気づき、目の前のお父さんをじっと見つめた。
「……お父さんは、浅野真由子のことが好きだったの?」
お父さんは少しの間沈黙し、真っ直ぐに私の目を見て答えた。
「僕にとって、最初で最後の恋だよ」
その嘘偽りのない誠実な響きに、私は少し考えた後、思い切って核心を突いた。
「実はね、少し前に花岡のおばあちゃんから言われたんだけど……『お父さんは、私を愛人にするつもりじゃないのか』って。お父さんは、どう思う?」
その瞬間、お父さんは信じられないものを見るように目を丸くした。
「……考えたこともなかった」
お父さんはひどく狼狽したように視線を泳がせ、それから必死に言葉を探すように口を開いた。
「君がどうしてもと望むなら、養女ではなく、別の計算式を組み直すこともやぶさかではないが……いや、しかし……」
おそらく私を傷つけまいと、必死でオブラートに包んだ言い回しを探しているのだろう。だが、青ざめた真顔と声の震えからは「絶対に無理だ(あり得ない)」という激しい拒絶の本音が、一万パーセント漏れ出していた。 不器用の極みのようなその姿を見て、私はたまらず吹き出した。
「そうだよね。私が思った通りだったよ」
本格的な冬の寒さが訪れた頃。 お父さんが東京への出張で家を空けている週末、私は受験勉強の息抜きも兼ねて、離れの大掃除を少しずつ進めていた。
いつも塵一つなく整頓されているお父さんの音楽室。
けれど、部屋の隅にある棚の一角にだけ、古い楽譜や本が不自然に無造作に積まれている場所があった。 完璧主義のあのお父さんが、なぜこんな置き方を? 不思議に思い、片付けようとその束を持ち上げると——「下に、古い写真立てが伏せられた状態で隠されていた。
埃を払って飾ろうか。そう思って何気なく写真を表に向けた瞬間、私は息を呑んだ。
そこに写っていたのは、ウエディングドレス姿のお母さんだった。
「綺麗……」
私が知っている、いつも疲れたように俯いていたお母さんじゃない。そこには、幸せいっぱいの笑顔で光り輝くお母さんがいた。こんなに美しいお母さんを見るのは、初めてだった。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「遥ちゃん、りんご貰ったからお裾分けに……あっ」
顔を出したのは、母屋に住む徹さんだった。紙袋を掲げた徹さんの視線が、私が手にしている写真立てでピタリと止まる。
「……見つけちゃったか」
気まずそうに目を伏せた徹さんに、私は静かに告げた。
「お父さんから、母のことが好きだったということは聞いています」
「そうか……どうせ誠のことだから、ただ『好きだった』としか言ってないんだろうね」
徹さんはふう、と小さく息を吐き出すと、どこか覚悟を決めたような真剣な眼差しで私を見た。
「……誠がたった一人で抱えてきたこと、君にはちゃんと話しておくべきかもしれないな」
徹さんに促されるまま、私たちは音楽室の中へと入り、向かい合うようにソファーへ腰を下ろした。




