第一話【遺された計算機と、火の鳥の娘】
お読みいただきありがとうございます。
こちらのエピソードは、以前「シルバーウィーク特別編」として掲載したお話の再掲となります。すでにお読みいただいた方は重複してしまいますが、何卒ご了承ください。
二〇二七年、四月下旬。
初夏を思わせる予想外の強い日差しから逃れるように、私は松本市内の図書館に駆け込んだ。
東京の高校をなんとか卒業したものの、大学受験なんてとてもできる精神状態ではなく、私は少し前からここ松本の祖父母の家に身を寄せていた。
母が、歩道橋から落ちて亡くなった。 その後を追うようにして、自暴自棄になった父も、お酒を大量に飲んでから母が落ちた歩道橋に行き、足を滑らせてこの世を去った。 あんなに母を支配し、見下していたくせに、母がいなくなった途端に生きていけなくなるなんて、父の気持ちはさっぱりわからない。
立て続けに両親を失い、私の時間は長い間、暗闇の中で止まったままだった。
久しぶりに読もうと思い、天文学の本を探して書架の間を歩いていた時だった。
右耳の後ろ――幼い頃、母がよく愛おしそうにキスをしてくれた小さなほくろのある場所に、ふわっと春の風を感じた。
まるで、そこに母がいるような気がして思わず振り向いた途端、ドン、と誰かの背中にぶつかってしまった。
「あっ、すみません……」
「いや、こちらこそ。……君は」
落ちた本を拾い上げてくれた熟年の男性は、私の顔を見た瞬間、その理知的な眼鏡の奥の瞳をわずかに見開いた。
少し白髪の混じった、仕立ての良いシャツを着たその人を、私も知っていた。
「……佐藤、さん」
父の友人だった人。
父が変わり果てた姿になった時。
泣き崩れる親族や関係者の中で、この人だけは一切の涙を流さなかった。ただ絶対零度の冷たい瞳で父を見下ろし、低く、押し殺した声でこう言ったのだ。
『――浅野さんに、なんてことしたんだ』
花岡、ではなく『浅野さん』。
母の旧姓を口にしたその声には、怒りとも悲しみともつかない、底知れない絶望が張り付いていたから、私は彼を強烈に覚えていた。
私たちは図書館の近くの喫茶店に入った。
佐藤さんは静かにコーヒーを頼んだ。どこか祈るような冷たい彼の横顔を見ていると、誰にも言えなかった言葉が自然と口からこぼれ落ちていた。私は自分の身の上と、両親の生前の話をした。
父がどれほど母を追い詰めていたか。母がどんなにすり減り、それでも私を守ろうとしてくれていたか。父に嫌なことを言われても、星空を観ていれば忘れられたことも。
佐藤さんは、相変わらず無言だった。相槌を打つことすらなく、ただ静かに、私の言葉をその胸の奥に沈め込むように聞いていた。
ひとしきり話し終え、グラスの氷がカランと鳴った時。
「……それで」
佐藤さんが、初めて口を開いた。
「このあと、君はどうしたいんだい?」
静かで、けれど私の本質を真っ直ぐに射抜くような声だった。
私は膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、前を向いた。
「大学に、挑戦しようと思っています」
止まっていた時間を、動かす。
「お母さんが、命を削って……私にお金を遺してくれたから。私に、自分の足で生きていってほしいと願ってくれたから。だから私、勉強して、大学に行きたいんです」
その言葉を聞いた瞬間。 冷徹な機械のようだった佐藤さんの瞳が、ふっと揺れた。
彼の目には今、生涯を父の支配下で過ごし、ついに自らの力で飛び立つことのできなかった『囚われの王女』のような母が、最後の命を削ってでも大空へと放ちたかった希望――『火の鳥』の姿が、私と重なって見えているのかもしれなかった。 ……私の顔は、母にそっくりだから。
佐藤さんは眼鏡の縁をゆっくりと押し上げると、ふっと、葬儀の時には絶対に見せなかった、深く温かい微笑みを浮かべた。
「……そうか」
彼は鞄の中から手帳と万年筆を取り出すと、私の志望校と現状の学力をいくつか尋ねた。そして、手帳のページにさらさらと複雑な学習計画のフローチャートを書きつけ、連絡先を添えてその紙を私に差し出した。
「君のお母さんには……昔、少しだけ借りがあってね。僕は予備校の講師ではないが、君が望むなら、志望校に合格するための『最短の計算式』を組もう」
「えっ……」
「君のお母さんが遺した大切なお金だ。無駄な回り道に使う必要はない。僕が、君の時間を完璧に管理する」
それは、かつて密かに母を愛しつづけた「人間計算機」が、数十年越しに娘である私に提示してくれた、絶対に壊れない未来への設計図だった。




