幻奏〜真由子一度目の人生〜【交わらなかった世界の君へ】
お読みいただきありがとうございます。
こちらのエピソードは、以前「シルバーウィーク特別編」として掲載したお話の再掲となります。すでにお読みいただいた方は重複してしまいますが、何卒ご了承ください。
「佐藤さん」
「浅野さん。何か」
二〇〇五年、夏。
常念松本吹奏楽団の練習日、休憩中のことだった。
俺に話しかけてきたのは、クラリネットの浅野さんだった。
控えめで、自分から積極的に前に出るタイプではないが、楽器の腕は確かだ。芯があって、極めて正確な音を出す。古い付き合いの健二などわずかな例外を除いて、ほとんどの人がただの『風景』になってしまう俺の視界のなかで、確かな輪郭を持って存在する数少ない人だった。
そんな彼女が、ものすごく緊張した面持ちで俺に声をかけてきたのだ。
「あ、あの。音楽の解釈や分析がすごく上手だとお伺いして。課題曲の解釈についてお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「ああ。どこだい」
彼女はほっとしたような表情を見せて、楽譜を差し出してきた。
まともに話したのは初めてだったが、見た目通りひたむきな子だ。些細なフレーズだから適当に吹いてもごまかせる箇所なのに、彼女はきちんと構造を理解しようと考えている。
いや、彼女のいつもの音が物語っていた。彼女が常に誠実に音楽と向き合っていることを。
俺の拙い説明ですっきりした顔になり、納得できた彼女がパッと明るい笑顔を見せる。
その笑顔につられ、俺も自然と微笑んでいた。そして、無意識に言葉が口を突いて出た。
「君は、いつも真面目に音楽と向き合っているね」
彼女は少し頬を赤くし、「嬉しいです、ありがとうございました」と一礼して、自分の席に戻っていった。
彼女の笑顔を見た直後から、俺の人生に再び光が差し込んだような気がした。気がついたら、自分の中で淀んで止まっていたはずの音が、再び力強く動き出していた。
「え、佐藤さん。急に上手くなってない? いや、もともと上手かったけど、芯が出たっていうか、包み込まれるっていうか」
隣の奏者が驚いたように話しかけてきたが、正直、俺が一番驚いていた。
なぜだろう。
彼女の笑顔には、そんな非科学的な力があるのだろうか。
秋。
親友の健二——東京の大手証券会社に就職し、昨年から期間限定で長野支社に転勤してきている——とはちょくちょく飲みに行っていたが、ある日、健二がいつになく上機嫌で俺に言ってきた。
「俺、来年の夏に東京に戻る内示を受けたんだ。本社に戻る、栄転だ」
「そうか。おめでとう」
「でさ。結婚することにした」
「……え? 女癖の悪いお前が?」
健二は中学の頃から、女性を取っ替え引っ替えしていた。特定の彼女を作らず、王子様のように振る舞いながら、他校に一人ずつ都合のいい相手を作っては上手に遊んでいた。俺には想像もつかない手口だが、別れる時も相手に恨まれないように立ち回る。
そんな健二が、結婚?
「人聞きの悪いこと言うなよ、俺は本気だ、大切にしたいんだ。その証拠に、プロポーズを受けてくれた真由子にはまだ手も出してない」
「真由子?」
「あ、クラリネットの浅野真由子だよ。いい女だろ。誠、狙ってた?」
「いや。……おめでとう」
健二が本気で浅野さんを想っていて、大事に扱うために手も出さずにプロポーズまでした。
対して俺は、彼女に挨拶すらまともにしたことがない。ただ、遠くからその正確でひたむきな音を聴いているだけだった。
『対して俺は?』
なぜ、自分と健二を比べているのだろう。
俺の中の計算機が、けたたましく警告音を鳴らしている。
健二が彼女を「所有」することに対して、なぜこれほどまでに不快なのか。なぜ、胃の奥に冷たい鉛を飲み込んだような嫌悪感がこびりつくのか。祝福の言葉を口にするだけで、声が引きつる。
親友が初めて心からの恋をして幸せそうにしているというのに、このどろりとしたどす黒い、名もなき感情は何なんだ。
俺の計算機は、自分のこの不快感の「数式」を、どうしても導き出すことができないでいた。
二〇〇六年、春。
松本を離れる前にと、親友が設定した結婚式と披露宴。
人前式のあと、おしゃれなレストランウエディングへと場を移した。
健二のエスコートで現れた浅野さんは、松本ではなかなか見ない、都会的で洗練されたマーメイドスタイルのウエディングドレスを着ていた。いかにも健二が好みそうな、見栄えのするドレスだ。
浅野さんを見た途端、俺は今まで抱えていた複雑な感情の、最もシンプルで明確な『解』を導きだしてしまった。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
でも、彼女の幸せそうな視線の先にあるのは俺ではなく、健二なのだ。
居酒屋で抱えたあの得体の知れない黒い感情は、彼女への『恋心』だったのだと、彼女が他の男のものになって初めて理解した。
もっと早くこの気持ちに気づき、行動を起こしていれば、何かが違ったのだろうか。
いや。
あの健二が浅野さんを見る時の目は、いつもとは全然違う。
あれは間違いなく、浅野さんを心から愛している目だ。
浅野さんが幸せになれるなら、それでいい。ここでくすぶっている俺なんかより、光り輝く健二と共に、おばあちゃんになるまで幸せでいてほしい。
もし、もう一度人生をやり直すことができて、もう一度君に出会うことがあるならば。
今度は確実に、君の隣に立てるような男になるよ。
そうだ、今からでも遅くはない。
親父が倒れたあの冬に止まってから、ずっと止まりっぱなしだった俺の計算機を、もう一度フル稼働させよう。 いつか君の隣に胸を張って立てる男になるために。まずは俺自身が、立ち止まっていた自分の人生を、力強く生き直そう。
その夜は、そんな未練がましいことを思いながら、ひとり、泥のように眠りについた。
「……っ」
翌朝。
じっとりと嫌な汗をかいていることに気づき、弾かれたように目を覚ました。
隣で、誰かが気持ちよさそうに寝息を立てている。
……浅野さん? なぜ、健二の奥さんが俺の隣で寝てるんだ?
混乱する頭でテーブルに置いてあるカレンダーを見ると、そこには『二〇〇二年』と記されていた。
夢、か。
……なんてたちの悪い、嫌な夢だったんだ。
俺は寝ぼけた計算機を叩き起こし、必死に状況の再計算を開始した。
今日は日曜日。
真由子ちゃんといつも通りの週末を過ごし、俺の部屋に泊まっていたんだった。
俺はそっとベッドを抜け出し、シャワーを浴びて心にへばりついたドロリとした感情を洗い流した。珍しくパジャマのまま、ルーティーンを取り戻すべく朝のコーヒーを淹れにキッチンへ向かう。
洗面所には真由子ちゃんの歯ブラシと化粧水があり、リビングには二人の写真が入った写真立てが飾られている。
真由子ちゃんの「二度目の人生」の穏やかな日常を、俺は一つ一つ確かめずにはいられなかった。
コーヒーの香りに誘われるように、いつも通り真由子ちゃんが起きてくる。
俺はお揃いのマグカップにコーヒーを注ぎ、真由子ちゃんのカップにはミルクを足した。
「おはよう」
眩しいほどの笑顔で微笑む彼女の顔を見た瞬間、たまらなく切なさが込み上げ、俺は真由子ちゃんを抱きしめた。
「どうしたの、誠さん」
「いや、ちょっと嫌な夢を見て」
「そう……嫌な夢って、起きたあとも引きずって辛いよね」
真由子ちゃんは背中に腕を回し、どこまでも俺に優しく寄り添ってくれる。
俺は、胸の奥に残る得体の知れない不安を完全に払拭したくて、ふと、彼女の一度目の人生について尋ねてみた。
「……そういえば、真由子ちゃんのウエディングドレスって、どんなのだった?」
「えっ……?」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせたあと、少し困ったように笑った。
「レストランウエディングだったからって勧められて、マーメイドラインだったの。本当は、もっとふんわりしたのが着たかったんだけどね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳内で高速回転していた計算機が、致命的なエラーを吐き出して完全に停止した。
あの夢は、現実の記憶のトレースなのか?
そんな非科学的なことがあるはずがない。……いや、真由子ちゃんの存在自体が、すでに極めて非科学的な奇跡なのだが。
「誠さん? ……誠さん、ベッド行こう。一口コーヒー飲んで、今日は寝なおそう? ……あ、あっ、変な意味じゃなくてっ」
思考がフリーズして動けなくなった俺を心配したのか、頬を赤くして慌てる彼女の、あまりにも温かく柔らかい手のひらに引かれる。
その熱に触れた瞬間、停止していた俺の心臓は再び大きく脈を打ち始めた。
真由子ちゃんは、優しい。
俺は彼女に手を引かれるまま、再びベッドに戻った。
真由子ちゃんは俺を柔らかく包み込み、そっと抱きしめてくれた。彼女の体温と匂いに包まれるうち、俺の計算機は少しずつ、正常なリズムを取り戻し始めた。
さっきのが単なる夢であろうと、並行世界の記憶であろうと、関係ない。
俺にできることは一つだけだ。 健二が松本に帰ってくる二〇〇四年までに、彼女が自分の足で立てるよう盤石な土台を作り、何があっても健二を彼女の領域に踏み込ませないこと。
彼女のこの笑顔を、一生かけて守り抜くために。
俺は自分の立てた綿密な計画を再確認し、静かに計算機を回し続けた。




