【金色のトランペットと、天才の最適解】
二〇〇二年末、佐藤家の音楽室。
真由子は、エプロン姿で大掃除を手伝っていた。
(ほぼ毎週、休日のたびに練習で使わせてもらっているんだから、年末の掃除ぐらいはしないと……)
気合を入れて雑巾や埃取りを持参したものの、室内はいつ掃除しているのか謎なくらい、常に塵一つなく綺麗に整頓されており、大掃除すら必要ないほどだった。
不思議に思って尋ねると、誠は手元の楽譜を整理しながら涼しい顔で答えた。
「母屋は、昔からの家政婦さんが掃除してくれるからね。でも、この音楽室だけは楽器が沢山あるから、僕が自分で手入れをしているんだ」
(かせいふ……! 本当にいるんだ、そんな人。本やドラマの世界だけの存在だと思ってたけど、初めてその影を見た……)
松本の旧家であり、資産家でもある佐藤家。普段の誠の堅実で合理的な金銭感覚からはあまり実感がないものの、時折こうして垣間見える「お坊ちゃん」な事実に、真由子は密かに目眩を覚えた。
「……そ、そうなんだ」
気を取り直して、真由子は備え付けの大きな戸棚から古い楽譜や小物を出し、そっと埃を払おうとした。
「あれ?」
棚の一角に、見慣れない焦茶のハードケースが一つ、大切に保管されているのを見つけた。
ホルンのケースではない。それは金管楽器奏者なら一度は憧れるあの海外メーカーのトランペットのケースだった。
「誠さん、この楽器は、誰の?」
真由子が振り返って尋ねると、誠の手がピタリと止まった。
「それは……兄さんのだよ」
いつもならあまりないことだが、誠は少しだけ目を泳がせて答えた。
「えっ? 徹お義兄さんも、楽器をやってたの?」
明るく笑う豪快な義兄が奏でるならさぞ華やかな音を出すのだろう。真由子は純粋に興味を持ちキラキラした目で食いついた。
すると、誠は言いにくそうに、少しだけ目を伏せて静かに答えた。
「ああ。高校からは人前で吹くことはほとんどなかったみたいだけど……。兄さんは……ああいう人を『天才』っていうんだろうな」
「ええっ? 徹さんが、そんなに?」
誠自身が、圧倒的な実力を持つホルン吹きである。その彼が、手放しで『天才』と称するのなら、身内ながら本当にすごい腕前だったのだろう。
しかし、珍しく誠の言葉の歯切れが悪い。彼が過去を語る時に見せる、この微かな翳り。
(……これ以上は、聞いてはいけないことなのかもしれない)
彼が自分から話してくれるまでは踏み込んではいけない領域だと察し、真由子はそれ以上自分から話題を振るのをそっとやめた。
◆ ◆ ◆
二〇二六年、初夏。松本。
真由子は義実家である佐藤家を訪れ、長らく足を踏み入れていなかった音楽室にいた。
つい先ほど、義兄の徹から、母を亡くして絶望していた若き日の誠の魂を救ってくれたのが他ならぬ『健二』であったという過去を聞かされたばかりだった。
(とりあえず、掃除……するところもないくらい綺麗だけど、誠さんのものの埃くらいは落として帰ろう)
手を動かしていないと、誠と健二のことばかり考えてしまう。
(思いを馳せるのは帰りのあずさの車内でもできるし)
真由子が気持ちを切り替えて掃除を終え、ピアノの椅子に腰掛けて天井を仰いだ頃、一度母屋に戻っていた徹がスーツ姿に着替えてひょっこりと音楽室に顔を出した。
「少し早いけど、迎えにきたよ。そろそろ駅に向かう支度をしないとね」
「あ……はい、お忙しいのにありがとうございます」
真由子がハッとして立ち上がり、身支度を始めようとしたそのとき。
ふいに、徹がポツリと話し始めた。今日の徹はいつものチャラい雰囲気を潜め、佐藤家の長男としての落ち着いた顔つきをしている。
「この音楽室……実は、時折俺が使ってるんだ。誠たちが東京に行ってから、最初はごくたまに。子供達が大きくなってからは週一くらいかな。ずっと封印してた楽器を出してさ。だから、音楽室の維持は俺がやってるから、誠にも気にしなくていいって伝えておいてよ」
「えっ? 徹お義兄さん、トランペット、再開したんですか?」
二〇〇二年の年末、真由子が大掃除を手伝った際に見つけたトランペット。あの時、誠は言葉を濁しながらも、兄のことを「天才」と呼んでいた。
「なんだ、誠のやつ、真由子ちゃんに話してたのか。うん。時折、吹いてるよ。もう両親もいなくなって、反発する相手もいないしね」
「えっ? 反発、ですか?」
「あっ……なんだ、誠は中途半端にしか話してないのか」
徹は苦笑いしながら、少し懐かしむように目を細めた。
「うーん……一言で言えば、俺が音大に行きたいって言ったら、よりによって『音大卒の母』に猛反対されてね。それに反発して、自分から楽器を吹くのをやめちゃったってとこなんだ」
「そうだったんですか……。あの、全然知らずに踏み込んでしまって、申し訳ありません」
「いやいやいや! 真由子ちゃんが謝ることじゃないよ! どこの家にもよくある、思春期の親子のすれ違いさ」
慌てて手を振る徹に、真由子は申し訳なさそうに眉を下げた。
◆ ◆ ◆
松本駅へと向かう、徹の運転する車の中。
「対面より、車の中の方がこういう話はしやすい気がするな」
ハンドルを握りながら、徹が静かに口を開いた。
「俺さ、トランペットの腕には、自分で言うのもなんだけどまあまあ自信があったんだよね。だから中三の時、いっちょ音大にでも行ってみようかって、軽い気持ちで両親に言ってみたわけ。そしたら母さんが、『音大を出て、その先の人生はどうするの?』って」
「その先、ですか?」
「そう。俺、音楽の先のキャリアなんて何も考えてなくてさ。『テキトーになんとかなるっしょ』って答えたら、普段は優しい母さんに真剣に怒られてね。『大学は、その先の人生も考えて行きなさい。生半可な気持ちで音楽の道に進むな』って。その時は『何だよバカヤロー、俺の才能を信じないのか』って頭に血が上ってさ。中学を卒業したあとは、たまに助っ人で呼ばれる以外は、意地を張って全く吹かなくなったんだ」
信号待ちで車が停まる。徹はふっと息をつき、眩しそうにフロントガラス越しの空を見上げた。
「……だけど、今ならわかる。母さんの言ったことは完全に正しかったんだ。俺は確かに、実技の才能だけで音大には合格したかもしれない。でも、その後の生活はどうするんだ? 恵と一緒になって、子供たちを養っていけたのか?ただ楽器を吹くのが得意だっただけでプロの演奏家になれるほどの狂気的な覚悟もなかった俺が音大に行っても、結局は佐藤家の財産を食い潰すだけの、ただのドラ息子になってたんだろうさ」
徹の横顔には、後悔ではなく、確かな納得と清々しさがあった。
「それに、大学を卒業したあと、自分が一生をかけて本当にやりたいことは何かと考えたとき……それは『演奏家』でも『音楽教師』でもなかったんだよね」
ふと、真由子の視線が、スーツを着た徹の胸元に留まった。
そこには、金色の『議員バッジ』が誇らしげに光っている。
(ああ……)
真由子は、彼が本当は何になりたかったのか、聞かなくてもわかる気がした。
少し騒がしくてお調子者だけれど、誰に対しても分け隔てなく接し、懐に飛び込み、人と人とを繋ぐ天才。この義兄には、この街と人々を支える地方議員という職業が、誰よりもぴったりだと心から思えた。
「だから今、こうして趣味として純粋にトランペットを楽しめているのが、俺にとっての『最適解』ってやつかな」
弟の口癖を真似て悪戯っぽく笑う徹に、真由子もふわりと微笑み返した。
騒がしい兄と、冷静すぎる弟。正反対に見えても『音楽』というルーツで深く繋がっている兄弟を、真由子は心から誇らしく、そして愛おしく思った。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
『金色のトランペットと、天才の最適解』、いかがでしたでしょうか。
本編では出番こそ少なめですが、登場するたびに強烈なインパクトを残していく徹さん。実は彼もかつては音楽をやっていて、しかも誠さんよりも上手だったとは……!
彼がいつも底抜けに明るい理由や、松本に残った背景にも、彼なりの色々と深い事情と愛情があったのでしょう。それは、また別の場で……。
【次回予告】
番外編 奏の演奏会
さて、この番外編集もとうとう次が最後のお話となりました。
ラストを飾るのは、本編から少し未来に進んだ「2028年の佐藤家」のお話です。
本編の高校時代、コロナ禍で不完全燃焼のまま終わってしまった奏の吹奏楽。日常を完全に取り戻した2028年に、ついにリベンジ演奏会を開催することに!?
もちろん最後なので、誠さんにもしっかりホルンを吹いてもらい、真由子とも少しはイチャイチャしてもらいます(笑)
今回は、三話構成でお届けします。
① ストーリー本編
② 吹奏楽ファンのための「吹奏楽もりもりバージョン」
③ 友情と、少し変化した佐藤夫婦の語らいを描く「おまけ」
『シンクロニシティ』の番外編オーラス、ぜひご期待ください!




