第六話【魔王の敗北と、偽装恋人の新しい時間】
健二から指定されたホテルの部屋の前。
真由子は小さく深呼吸をしてから、呼び鈴を押した。
すぐに重いドアが開き、上質なスーツを着崩した健二が、勝利を確信した歪んだ微笑みを浮かべて姿を現す。
「ようこそ、俺の真由子。やっと賢い選択ができたみたいだ——」
「健二」
健二の言葉を、冷たく低い声が遮った。
健二の笑みが凍りつく。ドアの前に立っていたのは真由子だけではない。彼女の肩を庇うように抱き寄せ、絶対零度の瞳をした誠が立っていたのだ。
「誠……松本に帰ったんじゃなかったのか」
「真由子ちゃんの様子がおかしかったから、戻ってきたんだよ。……健二。君たちの事情は、すべて聞いた」
健二は一瞬舌打ちをしたが、すぐに余裕を取り繕った。
「なら、話は早いな。誠、俺の妻を盗るな」
「いつ、真由子ちゃんがお前の妻になったんだ」
「真由子はずっと俺のモノだったんだよ。今までも、これからもな」
「勘違いするな。ここはお前が以前いた世界ではない。だから彼女は、誰の所有物でもない。完全に自由だ」
「だから、お前が真由子を奪ってもいいと言いたいのか」
「ああ、そうだよ」
誠は一歩も引かず、健二を真っ直ぐに見据えた。
「健二。真由子ちゃんがお前を心から好きで、お前が彼女を大切にしているのなら、僕は喜んで身を引く。だが……今の健二を見る彼女の目はどうだ。怯え、震え、絶望している。彼女が心から笑っている顔を、お前は一度でも見たことがあるのか?」
「……っ」
「それが、お前が今まで彼女にしてきたことの『答え』じゃないのか?」
痛いところを突かれ、健二の顔から余裕が消え失せた。
「うるさい! 真由子は俺のモノだ! 俺が人生でただ一人愛した妻なんだ!」
怒鳴り声を上げた健二の圧に、真由子の魂が悲鳴を上げ、真っ青になってガタガタと震えだした。こみ上げてくる吐き気を、必死に両手で口を覆って堪える。
そんな真由子を背中に隠し、誠は心底軽蔑したような声を落とした。
「何が『愛した妻』だ。愛していれば、どう扱ってもいいのか。お前、最低だな」
「なんだと……!」
「高校のころ、僕が心から尊敬していたあの『男気のある花岡健二』は、一体どこに行ってしまったんだ」
その悲痛な響きに、激高していた健二がハッとして動きを止めた。
「金と未来の知識というメッキで自分を飾り立てて、怯える彼女を『遥ちゃん』という子供を人質にして鳥籠に閉じ込めようとしているだけの……ただの空っぽな男じゃないか」
いつもは論理と計算でしか物事を語らない誠の瞳に、怒りだけでなく、かつての親友を憐れむような生々しい悲しみが浮かんでいた。
「高三の夏のコンクールが終わったあの日。なぜ僕がお前を『健二ではない』と疑ったか、教えてやろうか。……夕方、二人でうちの音楽室でクールダウンしたとき、お前が吹くサックスの音に、昼の本番まではあれほど燃えたぎっていた情熱が、まったくなかったからだよ。……僕が大好きだった健二は、もうどこにもいないんだな」
「……っ!」
誠の静かで残酷な宣告に、健二は雷に打たれたように完全に硬直した。
真由子を支配しようと彼をつき動かしていた、執着という名のどす黒い光が、誠の言葉によって灰のように散ってゆく。
「真由子ちゃんを幸せにするために楽器を捨てるというなら、仕方ない。でも、今の健二には、音楽に対する情熱も、彼女への『本物の愛情』もない。金と支配で縛り付けるだけで……お前はそれで、本当に幸せなのか?」
真由子を手に入れるために金と権力に執着し、必死に未来を計算し尽くした結果。自分の一番の魅力であったはずの「音楽への情熱」と「誇り」をいつの間にか自ら殺し、ただの空っぽな偽物に成り下がっていたこと。それを、他でもない最大のライバルであり、親友である誠に突きつけられ、健二はようやく悟った。
(ああ……そうだ。いくら未来の知識と金で黄金の鳥籠を作って閉じ込めても、今の空っぽな俺じゃあ、彼女の心は絶対に手に入らない。……彼女の心が手に入らなければ、俺の心に安らぎが訪れる日など永遠に来ない。そして残された『音楽というアイデンティティ』すら、俺はもう失い、誠にまで軽蔑されるような偽物に、俺は堕ちてしまったのか)
足元から自分の輪郭がすべて崩れ落ちていくような、重く溶けていくような虚無感。 敗北を完全に認めた健二は、すべてを諦めたように、ひどく乾いた自嘲の笑みを漏らした。
「……お前には、昔から勝てないな」
「……」
「真由子を連れて、もう帰れ。……しばらく、お前に預ける」
精一杯の強がりを口にするかつての親友に、誠は静かに頷いた。
「わかった。……またな、健二」
「……ああ」
静かにドアが閉まる。
ホテルを出た真由子は、冬の冷たい夜気の中で、静かに涙を流した。
(かつてはあんなに愛した人でもあった。本当は、いつまでも私の王子様でいて欲しかった。……でも、長年彼にされた痛みは一生消えない。私はもう、彼を受け入れることはできない。さようなら、ごめんなさい……健二さん)
心の中でそっと告げた別れ。それは、彼女を縛り付けていた過去からの、完全な解放だった。
「真由子ちゃん。帰ろうか」
「……はい」
二人は、真由子の狭い下宿の部屋に帰り着いた。
暖房をつけ、真由子は温かいお茶を淹れた。一口飲むと、凍えていた心と身体がじんわりと溶けていくのを感じた。
「佐藤先輩……本当に、ありがとうございました。先輩が戻ってきてくださらなかったら、私は今頃、健二さんの鳥籠に閉じ込められていたと思います」
「うん。それは僕にとっても地獄だからね……でも、流石に今日は色々と疲れたから、休ませてもらえるかな」
誠が小さく息を吐いてシャツのボタンを緩める姿に、真由子は慌てて頷いた。
「ええ、もちろん! 狭いですけど、泊まっていってください。……でも、明日も病院のお仕事ですよね?」
「うん。でも、君の電話の様子が尋常じゃなかったから、あの場ですぐに病院に連絡して有給申請してきたよ。流石に怒られたけどね」
「えっ!? す、すみませんっ、私のせいで!」
平謝りする真由子を見て、誠はふっと優しく微笑んだ。
「謝らないで。僕の『彼女』の一大事だからね。……明日の夕方には、ちゃんと松本の研究室に向かうから大丈夫だよ」
そう言うと、誠はマグカップを置き、まだ微かに震えが残る真由子を、その力強い腕でぎゅっと抱き寄せた。
耳元に、熱い吐息と甘い声が落ちる。
「さて。明日の夕方まで……まだたっぷり時間があるね。僕がすべて、君の過去を上書きしようか」
誠の目に熱い光が灯る。
「……っ」
長年の偽装とためらいを完全に脱ぎ捨てた誠の深いキス。
すべてを奪い、満たしていくような彼の熱に包まれながら、過去の男の痕跡も、自己犠牲の呪縛もすべてが甘く塗りつぶされていく。
二人は本当の『恋人』としての絆を確かなものにするのだった。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
番外編『ダ・カーポ・アル・フィーネ』、いかがでしたでしょうか。
「もしも、1995年の普門館に向かうときの新宿駅に健二がついて来ちゃったら?」というIFストーリーと見せかけて、実はお話の中盤で「タイトル回収!」とやりたかったエピソードでした。
当初は「少しミステリー要素のあるお話も書いてみたい!」と意気込んで書き始めたのですが……気づけば結局、真由子が誠さんに溺愛されて終わるという、いつもの『シンクロニシティ』の展開に着地してしまいました。おそるべし佐藤誠。
【次回予告】
いよいよ最後のシークレットトラックとなります。
【金色のトランペットと、天才の最適解】
佐藤兄弟と、彼らを取り巻く音楽のお話です。
実は、佐藤家で音楽をやっていたのは誠さんだけではなかった……!?
天才トランペッターである兄・徹さんの過去を描きます。
ぜひ、お読みください!




