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シンクロニシティ ―黒の変奏曲(ヴァリアシオン)―  作者: 滝丸
幻奏(IFストーリー)〜ダ・カーポ・アル・フィーネ〜

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第五話【最悪の共犯者と、計算機の帰還】

 結ばれた翌日の昼。

誠と真由子はホテルをチェックアウトし、遅めの朝食を摂ってから、名古屋駅の改札前にいた。


「佐藤先輩、お気をつけて」

「……うん。自宅に着いたら電話を入れるからね」

「はい」


 別れが辛くなり、真由子は堪えきれずに誠の胸にこつんと額を押し付けた。

誠はどこか切なそうな、けれどひどく愛おしそうな顔をして、真由子の髪をそっと撫でた。


「じゃあ。……またね、真由子ちゃん」


 誠の背中が改札の奥へ消え、完全に見えなくなるまで、真由子はその場に立ち尽くしていた。


(佐藤先輩、あなたを想う気持ちに、はっきりと気づいてしまいました。昨日は本当に幸せでした。……でも、いつかは健二さんのもとに戻らなければいけないの)


どうしたらいいのかわからず、足元を見つめる真由子。


「ふぅん。とうとう誠と寝たのか。……不倫だな」


 不意に、背後から声がした。

全身の血の気が引く。ゆっくりと振り向いた先には、完璧なスーツを着こなした健二が立っていた。


「真由子。お前も『タイムリープ』したんだな」

「……なんのことですか」


震える声で誤魔化そうとするが、健二は余裕の笑みを崩さない。


「とぼけるなよ。お前は俺の妻だろ。俺の、最愛の妻」

「……っ」

「誠は、どこまで知ってるんだ? ふん、言えるわけないよな、隠して寝たんだろ。誠みたいな真っ直ぐで綺麗な男に、お前のドロドロの過去を背負いきれるわけがない。そんな重いものを背負わせるなんて、愛する誠が可哀想だよなぁ」


健二は一歩距離を詰め、真由子の耳元でねっとりと囁いた。


「お前のその絶望を共有できる『共犯者』は、俺だけだ」


蛇に睨まれた蛙のように、真由子は動けない。


「いまならまだ許してやる。誠と別れて、俺のところへ戻ればな」

「……嫌です、二度と嫌」

「ほう、そんな寂しいことを言うんだ」


健二はわざとらしく顔を歪め、ついに『最悪のカード』を切った。


「俺と寝なければ、お前が愛した『遥』は永遠にこの世から消えるんだぞ。……お前が、遥を消すんだ」


 健二から放たれた、最悪の呪い。

真由子は呼吸を忘れ、目の前が真っ暗になった。


(ま、何と言われようとも、今度は子供なんて一切作ってやるつもりはないけどな)


そんなゲスな本音など微塵も見せず、健二は証券マンとしての完璧な笑顔で真由子を見下ろした。


「俺は火曜日までここに滞在する。心を決めたら、ここに連絡しろよ」


名刺を押し付けると、健二は上機嫌に鼻歌を歌いながら去っていった。



 一人残された真由子は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。


(佐藤先輩に相談なんて、できるわけない。それでなくても、好きでもない私を義務で抱かせてしまったのに。遥を取り戻すためにも、大好きな佐藤先輩を私の泥沼の過去から解放するためにも……私が犠牲になるしかないんだ)


真由子が絶望の淵を彷徨うように下宿へ帰宅してすぐ、部屋の電話が鳴った。


「真由子ちゃん。僕だよ。家に着いた」


電話の向こうから聞こえる、いつも通りの穏やかな誠の声。


「ううっ……さ、佐藤先輩……」

「真由子ちゃん? どうしたんだ、泣いているの?」

「今すぐ……わたしと……っ、別れて、ください……っ!」

「え……?」


 真由子はしゃくり上げるばかりで、一切声を出せなかった。

かろうじて「さようなら」とだけ呟いて、一方的に電話を切った。

健二の呪いへの恐怖と、誠を手放した絶望。泣き疲れ、昨晩の疲労も重なってローテーブルでうとうとしていた真由子は、激しい呼び鈴の音で跳ね起きた。

何も考えられない真っ白な頭で玄関のドアを開ける。


「——真由子ちゃん」


そこに立っていたのは、肩で息をする誠だった。

真由子は、神様が見せてくれた幻影だと思い込み、そのまま誠の胸に飛び込んだ。


「夢なら……醒めなければいいのに。大好きな、佐藤先輩……っ」

「……じゃあなぜ、別れたいなんて言ったの、真由子ちゃん」


 頭上から降ってきた熱を帯びた声に、真由子は現実に引き戻された。

幻影ではない。力強く抱きしめてくる彼の腕の強さも、コートから香る夜の冷たい空気も、すべてが本物だった。

電話越しに真由子の異常を察知した誠が、松本の自宅から急遽、車を飛ばして愛知まで引き返してきたのだ。


真由子は何も言えず、ただ誠の胸で涙を流した。

やっと口をついて出たのは、健二に植え付けられた呪いだった。


「だって……真っ直ぐな佐藤先輩には、私の過去を背負えない。背負わせては、いけないの……!」

「……やはり、健二が接触したのか。ごめん、真由子ちゃん。僕が傍にいながら、守りきれなくて」


誠は真由子の背中を優しく撫でながら、静かに、だが確信に満ちた声で言った。


「そもそも、君と健二は一昨年の普門館に訪れた時の新宿駅が初対面のはずなのに、あの時の二人は、明らかにお互いがお互いを『深く知っている』ようだった」

「え……」

「君のあの尋常でないトラウマ。年齢に合わない大人びた言動。そして、何かに怯え、一人で重い絶望を抱え込んでいるような危うさ。しかも、君は新宿駅で『ICカードを忘れたから、切符を買う』と言った。これらの変数を計算すると、論理的にはあり得ない『一つの解』に辿り着く。君が未来から来た、タイムリーパーであるという非科学的な解にね。……でもね、真由子ちゃん。実はもう一人、ある日突然、別人のように変わった奴がいるんだ。僕の親友の、健二だ」


真由子は信じられない思いで誠を見上げた。


「アイツはうまく擬態しているつもりだろうが……僕の計算機は、誤魔化せなかったんだよ」

「先輩……」

「真由子ちゃん。君の口から聞きたい。過去に何があったのか。健二に何を言われたのか。……全部、吐き出してみてくれないか」

「でも……っ」

「大丈夫だ」


誠は真由子の両頬を包み込み、まっすぐにその瞳を覗き込んだ。


「君への気持ちは、絶対に変わらないから」


その絶対的な優しさと覚悟に触れ、真由子の中で張り詰めていた糸がふつりと切れた。

真由子は決心し、バッグの中から、あの日からずっと密かに持ち歩いている『黒いビニールの生徒手帳』を取り出し、震える手で誠に差し出した。

そして、長く重い口を開いた。



 静まり返った部屋の中、ページをめくる微かな音だけが響いていた。

やがて、黒いビニールの手帳を読み終えた誠は、ゆっくりと眼鏡を外し、ふうっと長く深い息を吐き出した。


「……なるほど。すべて、繋がったよ」

「信じられません、よね……。中身が四十九歳のおばさんで、健二さんの妻で、娘までいたなんて」


恐る恐る尋ねる真由子に、誠は穏やかに首を振った。


「いや、信じるよ。君がずっと抱えていた危うさも、年齢にそぐわない達観した目も、これで完全に計算の辻褄が合った」


誠はベッドの端に座る真由子の隣に腰を下ろし、そっと彼女の手を握った。


「君は、健二の元へ戻らなければ、一度目の娘『遥ちゃん』に会えないと思っているんだね?」

真由子は小さく頷いた。

「真由子ちゃん、よく聞いてほしい。人間一人を作り出す遺伝子の組み合わせは天文学的な数字だ。一度目と全く同じタイミングで、全く同じ状態の健二と結ばれたとしても、同じ命が生まれる確率は実質『ゼロ』に等しい。……君が地獄に戻るという自己犠牲は、悲しいけれど、幻に過ぎないんだよ」

「そんな……じゃあ、もう二度と……」

「……それから、もう一つ。健二のことだけど」


絶望しかけた真由子の言葉を遮るように、誠の瞳に鋭い理知の光が宿る。


「今の健二は、一度目の人生の記憶を持っているせいで、君への愛……いや、執着と支配欲が異常なまでに肥大化し、歪みに歪みまくっているように見える。彼が本当に欲しているのは、『自分だけを永遠に見つめてくれる真由子』という絶対的な所有物だ」

「……」

「そこから計算すると、健二は今回、絶対に『遥ちゃん』を産ませることはしないはずだ。自分から君の愛情を奪うような存在を、今の彼が許容するはずがないからね」

「あっ……」


真由子はハッと息を呑んだ。


「つまり、君が健二の元へ行こうと行くまいと、彼の種をもらうことはできない。健二の言葉は、君を脅して縛り付けるための、ただの『嘘』だ」


 ——気づかなかった。 確かに、一度目の人生であんなに遥を冷遇していた男が、娘を再びこの世に戻そうなどと思っているはずがない。冷静に考えればすぐに気づくことなのに、健二さんの声を聞いただけで、私の思考は完全に恐怖で停止させられていたのだ。


「だから、君が健二の元へ行く理由は、もうどこにもない。……君自身が、健二の元へ行きたいと強く願うこと以外にはね」


誠は、逃げ道を塞ぐような、けれどひどく優しい声で告げた。

真由子は強く首を振った。


「行きたくありません。二度と嫌です……っ」


その言葉を聞いて、誠は心底安堵したように目を伏せた。


「……よかった。ここからは、僕たちの話をしてもいいかな」

「はい」

「君に、謝らなければならないことがあるんだ。僕は……ずっと、ずるいことをしていた」


誠は真由子の手を両手で包み込み、懺悔するように言葉を紡ぐ。


「君の隣にいたいばかりに、『偽装恋人』だのという、ずるい口実を使った。君の負担になりたくなくて、大人の余裕を装っていたけど……そのせいで、君を苦しめ、傷つけてしまったね」

「佐藤先輩……」

「君が高校生の時、新宿で君の涙を見た時から……ずっと、好きだったんだ。だから健二に渡したくない、僕が守りたいと思い、一番近くにいたかった」


誠は自嘲するように笑う。


「『誰か』じゃなく、真由子ちゃんに僕を支えてほしかったんだ。昨夜、君を抱いたのは、義務でも同情でもない。僕自身の、抑えきれない純粋な意思だ」


その言葉に、真由子の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「私こそ、ごめんなさい……っ。ずっと先輩の気持ちに甘えて、先輩は私を哀れんで、義務で抱いてくれたんだと思い込んで。あんな酷いことを言って、先輩を傷つけてしまった……。今日、先輩が無理をして駆けつけてくれた時、本当は……すごく、すごく嬉しかったのに」

「真由子ちゃん」

「わたしで、いいんですか? こんな地獄みたいな過去を持つ、面倒で重たい女なのに……」

「君がいいんだよ」


誠の迷いのない声が、真由子の言葉を優しく遮った。


「君が抱えていたその『四十九年の重み』が、あの冬、絶望していた僕の心に寄り添い、理解し、救い上げてくれたのだから」

「先輩……っ」


 真由子は堪えきれず、誠の胸に飛び込んで泣き崩れた。

誠はそんな彼女を力強く抱きしめ、二人は長かった偽装の期間を終え、本当の意味で心と魂を重ね合わせた。

静かで、甘く穏やかな時間が過ぎていく。



 やがて。 真由子の背中を撫でていた誠の動きが止まり、彼はゆっくりと顔を上げた。 真由子を腕の中に抱き込んだまま、彼の瞳に、先ほどまでの甘さは消え失せ……冷徹で鋭い「人間計算機」の光が完全に戻っていた。


「……さて。健二との『決戦』に向かおうか」

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