第四話【魔王の帰還と、黄金の鳥籠(独奏・花岡健二)】
二〇二六年。
真由子を歩道橋から失った俺は、何もできず、何も考えられず、ただひたすらにアルコールで正気を麻痺させていた。
ある日、ふと夢を見た。あの歩道橋に行けば、また真由子に会える気がしてフラフラと迎えに行ったんだ。
そこでうっかり足を踏み外して、真っ逆さまに落ちて――。
「……健二、健二!」
目覚めると、そこは松本の文化会館のロビーだった。
さっきまで浴びるように酒を飲んでいたはずなのに、頭は驚くほどクリアで、体も軽い。
俺は目を疑った。
俺の顔を覗き込んでいるのは、制服を着たひどく若い「誠」だった。
佐藤誠——俺の唯一無二の相棒。天才だからなのか、神様から試練ばかり与えられている俺の親友。
「いくら疲れたとはいっても、こんなところで寝るなよ。帰るぞ。うちで夕飯食べていくだろ?」
「誠……? だいぶ久しぶりだな。髪、染めたのか? そうだ、親父の葬式来てたよな、なんで声もかけずに帰るんだよ」
「えっ? ……健二、何寝ぼけてるんだよ」
誠が訝しげに笑う。俺は慌てて周りを見回した。
そこは、とうの昔に離れたはずの懐かしい松本の街だった。
「え? 俺、なんで松本なんかに……」
「何言ってるんだ健二? 今年のコンクールは、珍しく松本で県大会をやったじゃないか。『エルカミ』、本番楽しかったな……僕たちの青春も終わりだって、さっきみんなに泣きながら言ってたじゃないか」
エルカミ。
それは俺が高三——一九九〇年——のときに定期演奏会で指揮を振り、コンクールでサックスを吹いた曲だ。誠のあの美しくて力強いホルンを輝かせたくて、俺が宮坂先生に頼み込んで選んだ曲。
どういうことだ。俺が高三?
自分の髪を触ると、確かにあの頃流行っていた髪型をしている。ガラスに映る俺も、間違いなく十八歳の高校生だった。
フン、青春が終わった途端のタイミングから夢を見るなんて、なんて間が悪いんだ。どうせなら、真由子と結婚してすべてが絶頂だった頃にしてくれればいいのに。
まあいいか。せっかくだ、この若い誠を愛でてやろう。
そう、誠の母親はこの前の年に亡くなったんだったな。俺が大好きだった彼女がいなくなったことは俺の人生で二番目に辛い記憶だ。
誠はこの頃、表向きは立ち直ってはいたが、心の穴は塞ぎきれていなかった。だから俺は、行けるときは毎日、誠の家で夕飯を食べてアイツを励ましていたっけ。
俺が妻の真由子とうまくいかなくなってからは、なんとなくアイツに会うのが辛くなって、近年は何年に一度かしか会えなかった。俺もアイツも忙しくなったというのもあるが、誠のあの真っ直ぐで嘘のない目を見て「俺は幸せだ」と強がるのは、酷く虚しかったからだ。
……俺の完璧だった家庭が壊れていったのは、すべて『遥』が生まれてからだ。
アイツさえ生まれなければ、真由子は余計な反抗などせず、俺だけを見て、俺の腕の中で幸せだったはずなんだ。
なら、もしこれが夢でなければ。
今度こそ『遥』を産ませず、ずっと俺と真由子の二人だけで暮らせばいい。俺が稼いだ金でアイツを磨き、最高のドレスで飾り立て、俺のことだけを見させていればいいんだ。
そうだな、じゃあ手始めに、俺が死に物狂いで身につけた証券マンとしての未来の知識で、就職するまでに莫大な資産を作っておくとするか。
俺はニヤリと笑い、『黄金の鳥籠』を作り、真由子を一生何不自由なく飼い殺してやるための完璧な計画を立て始めた。
一九九五年、夏。
前年の冬、一度目の人生と同様に誠の親父が倒れた。
誠は看病のために東京での輝かしい未来を捨て、松本で就職し、小さくまとまっていた。
俺は夏休みを利用して久しぶりに松本に帰省し、誠を励ましに行った。
ところが、誠は絶望するどころか、生き生きと再生していた。
なぜだ。なぜ歴史が変わっている?
しかも、俺以外の他人に一切興味を示さないあの誠が、母校の吹奏楽部のトレーナーまでしているという。
「今年は、面白い生徒がいてね」
聞けば、今年の『部長』がすごくしっかり部をまとめ上げ、五年前に俺たちが『戦略的撤退』した東海大会へ見事に駒を進めたという。
一体どこのどんな野郎だろう。あのクセの強い吹奏楽部を引っ張り、東海大会まで導くような統率力を持った凄腕の部長。そんな大役、当然、優秀な『男』に決まっていると俺は疑いもしなかった。
秋。誠が東京の大学教授と面会に来るというので、うちに泊まらせて一緒に飲んだ。
明日は普門館で吹奏楽の全国大会が行われ、宮坂先生と例の「部長」と三人で視察に行くという。
俺は宮坂先生に会いたいという大義名分をでっち上げ、誠がそこまで目をかける『優秀な男』を品定めしてやろうと、一緒に新宿駅へ向かった。
「宮坂先生、お久しぶりで——」
驚かせようと、柱の陰で待機していた俺は軽い足取りで現れようとした。
――だが、特急あずさのドアが開き、誠の元へ駆け寄ってきたその姿を見て、俺は息を呑んで立ち尽くした。
男じゃない。女だ。
しかも……『真由子』だった。
なぜだ。なぜここに、真由子がいる?
あいつが、あの『有能な部長』だというのか?
あり得ない。お前は男の稼ぎにすがるしか能のない、ただの冴えない事務員だったはずだろう?
しかも、真由子を見つめる誠の目は、ただの指導者のそれではなかった。完全に「女」として惚れ込んでいる目だった。
一度目の人生で、誠が市民バンドで真由子を眩しそうに見つめていた時よりも、ずっと深く、強い執着を帯びた瞳。
誠は、他でもない真由子のためにトレーナーを引き受けたのか。
今度こそ、あの純粋な親友は、俺から真由子を奪うつもりなのか。
冗談じゃない。真由子は俺のモノだ。
俺が真由子に近づこうと一歩踏み出した途端――。
「よお健二、だいぶ久しぶりじゃないか。俺に会いに来てくれたんだろ。積もる話は喫茶店でしようじゃないか!」
宮坂先生だった。ガッチリと肩を組まれ、強引に引き離される。空気読んでくれよ、俺の女が誠に掠め取られようとしてるんだぜ。
ま、情報集めにはちょうどいいか。
「先生。誠とま……浅野真由子は、いつから付き合っているんですか?」
「付き合っているわけないだろ。それこそ犯罪だろうが……お前、まさか真由子先生に惚れたのか? やめとけ、女子高生に手を出したらお前の将来に傷がつく。証券業界は傷が好まれないだろ。気をつけろよ、特にお前は女性沙汰で警察のお世話にならないようにな」
「先生、誤解ですよ。俺は至って真面目なんですから」
「……そういうことにしておこう」
宮坂先生の探るような視線を受け流し、俺はあえて核心を突いた。
「ところで、浅野さんが部長なんですか? 男ではなく?」
「ああ、そうだが? 彼女はよくやってくれているよ」
「東海大会へ行ったとか」
「まあ、俺はほぼ振っただけだよ、ほとんど誠のおかげだな。お前たちの時と同じくらいか、少し上手ってとこだな」
宮坂先生は俺の焦り(異常性)に気づいたのか、真由子の情報は雑誌に載るような表向きのことしか教えてくれなかった。彼女がまさか『理系』に進んでいることなど、俺はこの時つゆほども思っていなかった。
俺は全国大会が終わり、帰途に就くであろう三人を待ち伏せした。真由子に俺の余裕ある大人の魅力を印象付け、誠に奪われる前に落としてやろうと思ってな。
ところが、開口一番、誠と真由子は「高校を卒業したら、付き合うことにした」などと言いやがった。
あの野郎、俺を牽制しやがったな。
いいだろう。なら、高校を卒業するまでに俺が奪い返してやる。
だが、俺の目論見はすべて外れた。
真由子の受験の邪魔にならない程度に、何度かさりげなく校門で待ち伏せし印象付けようとしたが、俺の魅力に気づいた目の高い女どもが大量に押し寄せてきて真由子には近づけなかった。
翌年の春、とうとう俺は真由子をさらうつもりで学校で待ち伏せをした。ところが、宮坂先生に「大人が不用意に生徒に近づくべきではない」と冷たく一蹴された。フン、誠は良くて俺はダメかよ。
次に俺は、強硬手段に出ることにした。
一度目の人生と同じように、あのチョロい真由子の両親を未来の金と知識で口説き落とし、さっさと婚約してしまえばいい。
だが、実家を訪ねようとした俺の目の前で、真由子の家の玄関から誠が出てきたのだ。
「佐藤さん、また来てくださいね」
両親の満面の笑み。親公認かよ。
確かに、今の肩書きだけなら俺よりT大卒の誠の方が「優良物件」だからな。
仕方ない。ここは一度様子を見るか。
俺は真由子の進学先も就職先も知っている。
それに、誠は頭は良くても、女を抱き落とすような手管は絶対に持っていない。あの鈍感で堅物の真由子だ、誠がいくら頑張ったとしても、そう簡単に体を許すことはないだろう。
真由子が大学へ進学し落ち着いた頃、俺はS大学へ向かった。
……真由子がいない。真由子の実家周辺を探っても、彼女がいる様子がまったくない。
宮坂先生に探りを入れると、どうやら大阪の大学に行っているらしいと匂わされたが、詳しいことは絶対に教えてくれなかった。
俺は証券マンとしてのあらゆるネットワークと裏金を駆使し、時間はかかったが、ようやく真由子の居場所を突き止めた。
愛知だった。見事に騙された。
ちょうど名古屋への出張が入り、俺はここで一気に真由子を落とすことに決めた。
真由子はあっさりと見つかった。少し洒落た居酒屋で、誠と向かい合って座っている。
だが、俺の目論見どおり、二人の間にはまだ初々しい距離があった。どう見ても寝ていない。やはりな。
誠の電話が鳴り、奴のガードが手薄になった一瞬の隙を突き、俺は真由子の隣に滑り込んだ。
彼女の弱点を刺激するように、甘く、低く口説いた。
俺の言葉に、真由子はガタガタと震え、わかりやすく落ちかけた。身体が俺を覚えている証拠だ。
しかし、恐怖と快楽に引き裂かれた真由子が、俺に縋り付くように口走った言葉は――。
『健二さん……遥……』
俺の心臓が、大きく跳ねた。
あの、俺の完璧な家庭を壊した不幸の元凶、『遥』だと?
俺が真由子と寝て、種を仕込まなければ絶対に生まれないあの子の名前を、なぜ今の真由子が知っている?
……そうか。
ということは、ここにいる真由子も、俺と同じように『タイムリープ』した真由子ということか。
なら、話は早い。
戻ってきた誠が鋭い怒気を放って真由子を連れて帰ってしまったが、もうどうでもいい。
俺の口角は、歓喜で自然と吊り上がっていた。
「遥に会いたいんだろう、真由子?」
真由子が誠と寝る前に。
この『最強の切り札』を使って、真由子を永遠の鳥籠に閉じ込めてやる。




