第三話【猛毒の再来と、理性の決壊】
『偽装恋人』という名目でありながら、誠は真由子をひたすらに大切に扱い、二人はどう見ても本当の恋人のような穏やかで温かい時間を積み重ねていた。
真由子は愛知の大学へ進学し、一人暮らしを始めていた。一方の誠は、松本で病院勤務と研究、そして父の看病に追われる過酷な日々だったが、必ず月に一度は時間を作り、彼が愛知へ足を運ぶか、真由子が密かに松本へ帰るなどして逢瀬を重ねていた。
健二の執着から真由子を隠すため、誠は宮坂に頼み込み、健二の周囲に『真由子は大阪の大学に進学し、誠とは遠距離ながらも仲睦まじくやっている』というダミーの情報を流してもらっていた。それが功を奏したのか、健二からの接触は一切なく、真由子は平穏な毎日を送ることができていた。
(健二さんとの毎日は、息が詰まるような地獄だった……。佐藤先輩との時間は、優しい)
かつて、娘の遥が生まれた時でさえ得られなかった心からの安心感。
しかし、ふとした瞬間に(先輩は優しいけれど、もし子供ができたら、健二さんのように豹変してしまうのだろうか)という暗い不安がよぎることもあった。
だが、その不安はすぐに消え去った。松本で誠が兄の子供を預かる機会があり、甥っ子が誠に心から懐き、誠自身も不器用ながら深い愛情をもって接している姿を目の当たりにしたからだ。
(彼は、誰に対しても本当に誠実で、優しいのね……)
そして、真由子が二十歳になった冬のこと。
かつて普門館で交わした「二十歳になったら、一緒にお酒を」という約束を果たすため、誠は愛知へ赴き、二人は街の少しお洒落な居酒屋でグラスを合わせた。
初めてのアルコールに、ほんのりと頬を染める真由子。それを優しく、愛おしそうに目を細めて見守る誠。
(幸せだ……。でも、遥のために、いつかは健二さんの元に帰らなければならない。……でも、でも、今はできるだけ長く、佐藤先輩と一緒にいたい)
真由子が熱を持った瞳で誠を見つめた、その時だった。
店のドアが開き、数人の華やかなビジネスマンの集団が入ってきた。
「……真由子ちゃん」
健二だった。 上質なスーツに身を包んだその集団の中でも、ひときわ目を引く華やかなオーラ。圧倒的な「雄」としての危険な色気を、彼は隠し切れないほどに纏っていた。宮坂のダミー情報を、トップ証券マンの執念と情報網で突破してきたのだ。
「こんなところで会えるなんて。恋の神様は、どうやら俺に味方してるらしいな」
「健二。なぜここに」
誠が立ち上がり鋭い声で問うと、健二は余裕の笑みを浮かべた。
「ただの出張だよ。誠、残念だったな。ま、俺はあっちの席で飲んでるから……真由子ちゃん、あとでおいで」
健二は飄々と奥へ去っていった。
「真由子ちゃん、僕たちは帰ろうか」
真由子は青ざめた顔で無言で頷いた。しかし、その時、誠の携帯電話が震えた。
「……研究室からだ。急用かもしれない。すぐ戻る、ちょっと外に出てくるよ」
完璧なはずの人間計算機が生んだ、ほんの数十秒の「エラー」。
最悪の捕食者が、その絶好のチャンスを逃すはずがなかった。
いつの間にか、真由子のすぐ横に健二が座っていた。
「……!」
「真由子ちゃん。あの日、新宿駅のホームで見つけた時から、俺はずっと君のことしか考えられなくなってるんだ」
逃げようとする真由子の肩を阻むように腕を回し、健二は耳元で低く艶やかな声で囁いた。
「君のその、俺を拒絶しているように見せて、本当は俺の全部を知ってるみたいに揺れる瞳……。それがたまらなく俺を煽るんだよ。ずっと前から、俺のことを愛していたって言ってるみたいだ」
……図星だった。
(私は、ずっと……どんなに酷いことをされても、この人を愛してしまっていた)
「真由子。そんなに肩肘張ってないで、素直になれよ。あの天才が、お前みたいな田舎の女に本気になると思うか? ただの同情と義務感だよ。お前を心の底から欲して、世界一愛しているのは俺だけだ」
健二の低く艶やかな声が、真由子を侵食していく。
「強がるのはやめて、俺の腕の中でただの女に戻れ。……俺に狂え。俺だけを見ろよ」
健二の大きな手が、真由子の髪を甘く撫でた。
(い、いや……行きたくない……っ!私は佐藤先輩と一緒にいたいの)
真由子の魂は、かつての絶望を思い出して激しく警鐘を鳴らし、彼を拒絶している。しかし、一度彼を深く愛し、彼の子を宿した『器』だけが、かつての夫の囁きと体温に呼応するように、歓喜して蕩けそうになってしまう。
限界を超えた精神状態の中で、口から無意識の言葉がこぼれ落ちた。
「健二さん……遥……」
(いや、反応しないでっ!)
精神と肉体がぐちゃぐちゃに引き裂かれ、真由子はパニックに陥り、ガタガタと震えながらポロポロと涙をこぼした。
健二は一瞬驚いた顔をしたが、すぐニヤリと笑い、完全に自分の支配下に落ちたと確信した真由子を抱きしめようと肩に力を入れた。
「――そこまでだ、健二」
背後から、誠の低く冷たい声が響いた。
「お前がどんなに言葉を尽くして口説こうとも、彼女の隣を明け渡すつもりはない。……帰ろう、真由子ちゃん」
いつも穏やかで理知的な誠からは想像もつかないような、絶対零度の静かな怒り。その凄みに、さしもの健二も一瞬、息を呑んで腕を止めた。
誠は真由子の肩を抱き寄せ、彼女を隠すように店を後にした。
店を出た途端、緊張の糸が切れた真由子は誠の胸に縋りつき、子供のように号泣した。
「先輩……助けて……いっしょに……いて……っ」
「ごめん。僕が電話に出ず、ずっと一緒にいればよかった。彼に最大の隙を作ったのは、僕の計算ミスだ。君は何も悪くない」
真由子の涙は止まらない。
「僕が今日取ったホテルの部屋はすぐ近くだから、そこで少し休もう」
誠の部屋のドアが閉まり、外の世界から完全に遮断された途端、真由子は再び誠に縋りついた。
「助けて……このままだと、嫌なのに……健二さんの元に……戻ってしまいそうなの。わたし、佐藤先輩と……一緒にいたいの……お願い、私を上書きして……!」
「……っ!」
恐怖と欲望に引き裂かれ、どうしようもなく縋り付いてくる彼女を前に、誠の理性の堤防は完全に決壊した。
彼女のトラウマを、恐怖を、健二の痕跡をすべて塗り潰すため、誠は彼女を強く抱きしめ、ベッドへ連れ去った。
翌朝。
真由子が目を覚ますと、隣で誠が優しく微笑んでいた。
「おはよう、真由子ちゃん。よく眠れたかい?」
誠の声は、かつてないほど甘かった。長年の重たい想いがついに実り、彼女のすべてを守り、深く結ばれたことは、彼というシステムを純粋に歓喜させていた。
真由子は小さく頷いた。
(佐藤先輩に抱かれたとき、すごく嬉しかった。安心したし、しあわせだった。……私、ずっとこの人が好きだったんだ)
彼に抱かれたことで、真由子は自分の中にある明確な恋心を確信していた。しかし、彼女の思考は健二の呪縛によって残酷なまでにすれ違っていく。
(でも、先輩はただ私を守るため、あの男の痕跡を消すための『偽装恋人の義務』として、無理をして抱いてくれただけだ……)
一人で勝手に苦悩を抱え込み、胸を痛める真由子。彼女は、溢れそうになる本物の恋心を必死に隠して、震える声で言った。
「ありがとうございます。偽装なのに……こんなことまでしていただいて」
(私には、そう言うしか……ないんだよね)
その言葉を聞いた瞬間、誠の甘い微笑みがピタリと止まり、スッと眉をひそめた。
(……ああ、僕はなんてことをしてしまったんだ)
誠の胸を、冷たい後悔が貫いた。健二の恐怖で錯乱していた彼女の弱さにつけ込み、理性を失って彼女を傷つけてしまった。今の彼女は、昨夜の出来事を『偽装の義務』と理由づけることで、必死に自分の心を守ろうとしているのだ――。そう誤解した誠は、ここで自分の感情を押し付ければ、さらに彼女を追い詰めてしまうと判断した。
誠は真由子を優しく抱きしめ、「君が安心できたのなら、それでいいんだ」 と、自戒を込めるようにそう言うと、それ以上、言葉を続けることをやめた。
真由子は彼の腕の中で視線を落とした。
二人の間の見えない強烈な温度差は、お互いを思いやる優しさゆえに残酷にすれ違い、静かに、そして確実に限界を迎えようとしていた。
誠は、お互いに考える時間を作るためにも、後ろ髪を引かれる思いで予定通り松本へと帰路につくことにした。
一方、昨日の夜、二人がいなくなった後の居酒屋のテーブル。
残された健二は、グラスの氷を揺らしながら不敵な笑みを浮かべていた。
「……遥、ねぇ。真由子、お前も『あの記憶』を持ったままタイムリープしてたのか」
健二の瞳に、獲物を完全に追い詰めた捕食者の歓喜が宿る。
「なら、話は早いねぇ」




