第二話【恩師の許可と、偽装恋人という名の防波堤】
駅に着く頃には、真由子の涙は止まっていた。
「佐藤先輩、ありがとうございました。少し落ち着きました」
「それは、よかった」
二人は駅近くのベンチで、ギリギリまで宮坂を待つことにした。
遅れて合流した宮坂は、真由子の手をしっかりと握ったままの誠を見て、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた。
「とうとうくっついたか、お前ら」
ハッとした真由子が慌てて手を離そうとするが、誠は逆にその小さな手を強く握りしめた。
「……人混みで、はぐれるといけないから」
自分でも驚くほど理屈に合わない言い訳だったが、宮坂は「そういうことにしておかないとな」と生暖かい目で受け流した。
やがて、真由子が化粧室へとその場を離れた短い隙を突いて、宮坂の表情から先ほどまでの冗談の色がすっと消え去った。
「先生。健二は……」
誠の探るような問いかけを遮るように、宮坂が低く重い声で告げる。
「あいつ、真由子先生に惚れてるぞ。しかも、かなり執拗にな」
「……」
「俺の知る、あいつの今までの適当な女性の扱いとは明らかに違った。お前と彼女のことを、酷く執拗に探ってきた。……ただな、佐藤。ひとつ気にかかることがある」
宮坂は周囲の喧騒から声を潜め、探るような視線を誠に向けた。
「あいつ、真由子先生の『フルネーム』を知っていたぞ。お前が教えたのか?」
その言葉に、誠の眉間がわずかに動く。
「……いえ、一切。僕から話したことはありませんし、彼女が健二と面識があるなど、聞いたこともありません」
「そうか。一応、高校生に手を出したら犯罪だぞと釘は刺しておいたがな」
(なぜ健二が、一度も会ったことのないはずの真由子ちゃんの名を知っている?)
宮坂の言葉の裏に潜む不気味な違和感に対し、誠の脳内で高速の演算が始まる。だが、導き出される解はどれも危険を知らせるアラートばかりだった。
沈黙する教え子を見て、宮坂は腕を組み、静かに息を吐いた。
「佐藤。お前が倫理観に背くような真似をしない堅物だということは、俺が一番よくわかっている。だが……今回は、そうも言ってられないかもしれんな」
それは、恩師からの事実上の『許可』だった。 その瞬間、誠の瞳に、冷徹で鋭い光が宿る。
「……僕に、考えがあります」
「人間計算機の登場、というわけか。だが気をつけろよ、お前が一番知っているとは思うが健二は女絡みにはめっぽう強いぞ」
「わかっています。彼女は……僕が必ず守ります」
演奏が終わり、三人が新宿駅のホームに戻ると、そこにはまだ健二が待ち構えていた。
真由子は恐怖で身体が凍りつく。しかし、健二が声をかけるよりも早く、誠は彼を遮るように言い放った。
「健二。僕の彼女を紹介する」
真由子は驚いて誠を見上げた。
「……まだ高校生だから、高校を卒業したら正式にお付き合いさせてもらうように約束してるんだ。だから、君には渡さないよ」
誠の強い瞳の奥底にある決意を感じ取り、真由子も咄嗟に話を合わせる。
「は、はい、そうです」
健二はフン、と鼻を鳴らした。
「ふうん。じゃあ、高校を卒業するまでは俺にも権利があるってことだな」
ニヤリと笑うその顔が、かつて自分を支配し見下していた夫の顔と完全に重なり、真由子の頭の中は恐怖で真っ白になった。
「け、健二さん……あ、ありません。もう約束したんで」
「……諦め切れないなぁ、どうしたら振り向いてもらえるかねぇ」
つかみどころのない表情で飄々と言ってのける健二に、宮坂が「いつもの女癖の悪さで横恋慕するなよ」と鋭く釘を刺す。
そのやり取りの最中、誠の『計算機』にひとつの強烈なエラーが記録されていた。
(……健二さん? おかしい。健二はまだ、一度も自分の名前を名乗っていないはずだ)
帰りの『あずさ』の車内。
「佐藤先輩、ありがとうございました。嘘でも、助かりました」
真由子のその言葉に、誠は内心で(嘘なんかじゃない)と叫びそうになるのを必死で押さえ込み、ただ静かに微笑んでみせた。
あずさ号の車窓から誠と二人で諏訪湖の美しい夜景を観たことで、真由子はようやく心が落ち着き微笑みを浮かべることができた。
健二からの接触は、在学中は宮坂が防波堤となって守り抜いた。
しかし、真由子が大学に合格し、晴れて大学生になることが決まった春。宮坂は真由子と誠の二人を呼び出した。
「健二のことだが、最近までずっと真由子先生に接触しようとしていた。真由子先生が高校から巣立ったこれからは、さすがに俺も守ってやれん。あとは佐藤、お前が考えろ」
「いえ、それは先輩に申し訳ないので、自分で何とか……します」
遠慮する真由子に対し、誠は静かに、だが確固たる意志を持って告げた。
「いいんだよ、真由子ちゃん。……約束通り、このまま付き合うことにしよう」
「えっ?」
「健二から君を守るには最適解だと思うが。それに……父のこともある。誰かに心の支えになってほしいんだ。……だめかな?」
自分の弱みを切り札にした、知能犯ならではの完璧な交渉術。
「そういうことなら……お願いします。宮坂先生、ふりですから、佐藤先輩は犯罪者でも何でもないですからね」
自分は大人だという余裕を見せながらそう承諾する真由子を見て、宮坂は深く息を吐いた。
(佐藤の執念にかかれば、数年後には偽装でなくなっているだろうな……)
「……俺は、結婚式の時のスピーチでも考えておくよ」




