第一話【新宿駅の捕食者と、狂い始めた計算式】
一九九五年、秋。
東京・普門館で行われる全国大会を視察するため、真由子と吹奏楽部顧問の宮坂は新宿駅のホームに降り立った。同行するトレーナーの誠とは、彼が前日から東京入りしていたため、この特急到着ホームで合流する手はずになっていた。
「佐藤先輩、お待たせしました!」
人混みを抜けて小走りで近づいてきた真由子を見た瞬間、誠の呼吸が微かに止まった。
これまで制服姿しか見たことのなかった彼女の、初めて見る私服。紺のシンプルなワンピースに、歩きやすそうな白いスニーカー。決して派手ではないが、彼女が元来持っている大人びて静かな空気にひどく似合っていた。
思わず見とれそうになる自分を自制し、誠が平静を装って口を開きかけた——その時だった。
そこには、誠にとって最大の「計算外の変数」が存在していた。
親友である花岡健二が、「お世話になった宮坂先生に挨拶する」という名目で、勝手にこの待ち合わせ場所へついてきてしまっていたのだ。
「宮坂先生、お久しぶりで——」
驚かせようと少し離れた柱の陰で待機していた健二が、軽い足取りで現れ、宮坂にかけた言葉がふいに途切れた。
健二の視線が、ワンピース姿の真由子を射抜くように捉えている。その瞬間、健二の纏う空気が一変した。優秀な証券マンとして、のちに数字と市場を支配することになる男が、目の前の少女の放つ魅力に完全にロックオンしたのだ。
それは、猛毒の男が、自らの支配下に置くべき上質な獲物を「品定め」するような、ねっとりとした冷たい熱を孕んでいた。かつて真由子を虐げたモラハラ夫特有の、圧倒的な野心と執着の目だった。
一方、真由子は全身の血の気がサッと引くのを感じていた。
四十九歳までの記憶を持つ彼女にとって、目の前で目を光らせる男は、かつて自分を搾取し、絶望の果てに追いやったモラハラ夫そのものだ。
(どうして、ここに……っ!)
恐怖で喉が引きつり、一歩も動けなくなる。
その異常な空気を、宮坂が見逃すはずがなかった。健二の常軌を逸した捕食者の目と、顔面蒼白で小刻みに震え出した真由子。
「……おい、佐藤。お前、真由子先生を連れて先に地下鉄に向かえ」
「先生? しかし……」
「いいから、早く行け。俺は健二と久しぶりに話がしたい。喫茶店に寄ってから行くからな」
有無を言わせぬ大人の威圧感を放ちながら、宮坂はスッと半歩前に出た。健二の常軌を逸した捕食者の視線から、教え子である真由子を物理的に庇うような、無駄のない動きだった。頼れる恩師のその背中に押され、誠は状況を完全に把握しきれないまま、真由子の腕を引いて丸ノ内線の改札へと急いだ。
パニック状態の真由子は、切符売り場の前で四十九歳の現代の感覚と混同し、つい素の口調をこぼしてしまう。
(あ、ICカード……見当たらないから切符買わなきゃ)
「佐藤先輩、わたし、ICカード忘れたので切符買ってきます。少し待っててもらってもいいですか?」
「……え? IC……?(集積回路のことか?)」
一九九五年現在、まだ存在しない単語に誠が目を丸くする。真由子はハッとして青い顔のまま誤魔化した。
「あ、あっ、いえ! なんでもないです、切符買います!」
ガタン、ゴトンと揺れる丸ノ内線の車内。
座席に座った真由子は俯いたまま、小刻みに震えていた。
「……真由子ちゃん? 気分が悪いのかい?」
心配した誠が優しくそっと覗き込むと、真由子の瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ落ちていた。無意識に自分の両腕を強く抱きしめ、自分を守るように縮こまっている。
「……ごめんなさい、佐藤先輩……わたし、あの人……っ」
「健二が、怖かったんだね」
誠の頭の中で、恐ろしい速度で計算式が回り始める。
いつも大人びていて、誰よりも自立しようと気丈に振る舞っている彼女が、今、自分の隣で壊れそうなほど怯え、涙を流しているという事実。
(……僕は、何を見落としていた?)
完璧なはずの『人間計算機』の内部システムに、激しいノイズが走る。
(彼女の奥にある得体の知れない傷ごと、すべてを自分だけの腕で守り抜きたい。……健二には、絶対に渡さない。僕が、彼女を守り、幸せにしてみせる)
「真由子ちゃん。……大丈夫だ、もう泣かなくていい」
誠は周囲の目も気にせず、震える真由子の肩を自分の身体で庇うように力強く引き寄せた。
(こんな公共の場で、女子高生を抱き寄せるなど、絶対にするべきではない。……だが、止められない)
論理的で冷静な「人間計算機」であるはずの誠の内部システムに、深刻なエラーが鳴り響く。普段の彼なら絶対にあり得ない非合理的な衝動。しかし、彼女の心の奥にある傷ごと守り抜きたいと強く願う愛情が、そのバグを完全に飲み込んでいた。
真由子は、誠の手の温もりに無性にホッと安堵し、すがるようにその広い胸に顔を埋めた。彼女は誠の手をずっと強く握りしめていた。そうでなければ、甦る恐怖で本当に心が壊れてしまいそうだったからだ。
「あの男には、二度と君を近づけさせない。僕が、絶対に君を守るから」
暗い地下鉄の車内で、佐藤誠の理性が敗北し、彼女のすべてを守り抜くという狂気的な愛情が、予定より早く、静かに、そして決定的に起動した瞬間だった。




