第四話【計算機の限界突破と、無自覚なクリスティーヌ】
「誠さん」
控室のドアを開けた誠を、真由子の柔らかい声が出迎えた。
振り返った彼女の姿に、誠はピタリと動きを止め、完全に言葉を失う。
カラードレスにお色直しをした真由子は息を呑むほど美しく、まさに彼だけのヒロインそのものであった。
(……っ)
今回は事前に「絶対に美しいはずだ」という心の準備(免疫)を極限まで高めてきたため、物理的に腰を抜かすことこそ回避できたが、脳内の計算式は完全にフリーズしている。
「誠さん、ごめんなさい」
真由子が少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「美穂経由で、上條さんにお願いされたの。五月の定期演奏会の編成のままだと、どうしてもホルンのトップが薄くて寂しい演奏になっちゃうからって……。でも、『夜の音楽』はびっくりした。いきなり誠さんのソロになるんだもん」
悪戯っぽく笑いながら、真由子は愛おしそうな顔をして言葉を続けた。
「誠さんのソロ、本当に素敵だった。色気たっぷりで……なんだか、本物のファントムみたいだったよ」
「……素敵なのは、真由子ちゃんのほうだよ。本当に、綺麗だ」
搾り出すようにそれだけを言い、誠は歩み寄って真由子を壊れ物のように優しく抱きしめた。
「……一生、離さないからね」
「うん」
その甘い空気を、ノックの音が遮る。
「新郎様、新婦様。お色直しが完了いたしましたら、写真撮影をしてから会場へ向かいます」
式場スタッフの声に、誠はハッと我に返った。
「承知しました、すぐに向かいます」
スタジオへ移動し、カメラマンの指示で写真撮影の準備が進む中。
ふと、誠は小道具として置かれている「ある物」を見て眉をひそめた。
……ファントムの、白い仮面?
「うん、バンドの皆さんからのプレゼントだって」
真由子が楽しそうに仮面を持ち上げた。
「再入場の時、これをつけて入場してって」
「嫌だ」
即答(0.1秒)する誠に、真由子はくすっと笑った。
「そう言うと思ったから、ここに持ってきたの。せっかくだから、写真だけ。私も、写真だけがいいと思って」
「……なぜ?」
「だって……仮面をつける時、眼鏡、外すでしょ?」
真由子は少しだけ視線を逸らし、頬を赤く染めて呟いた。
「誠さんの眼鏡を外した綺麗な顔、他の人に見せるの……ちょっと、妬けるから」
「…………真由子ちゃんが、妬ける?」
「うん。……もうっ、何度も言わせないで。恥ずかしいから」
その瞬間。
誠の端正な顔が、これまで誰も見たことがないくらいに、限界を迎えたように歪んだ。
「……仮面をつけるくらいなら、お安い御用だよ」
(ちょっと! 誠さん、急にキャラ変わってない? どうしたんだろう、お酒飲みすぎたのかな?)
急に甘く、火のついたように熱を帯びた夫のキャラ変が、自分自身の『可愛い嫉妬』のせいだということに、真由子は全く気づいていないのだった。
二〇〇三年、年末。
松本市内の浅野家、真由子の自室。
すっかりお腹が大きくなり、どこから見ても立派な妊婦になった真由子のもとへ、親友の美穂が遊びに来ていた。
「真由子、寒いのにわざわざ実家で待っててくれてありがとう! お腹、だいぶ目立ってきたね」
「ううん、こっちこそ来てくれてありがとう。動けるうちに自分の部屋を整理しておきたくて、しばらくはこっちと往復するつもりなの」
真由子はだいぶふっくらしてきたお腹を優しく撫でた。
「そっか。……来年の春には佐藤さん、いよいよ東京の研究室に戻るんだもんね」
「うん。でも、私は松本で出産して、六月くらいまでは実家で暮らさせてもらおうと思ってるの。だから、今あわてて誠さんの家に私の荷物を全部運んでも、すぐまた東京行きのための荷造りになって、二度手間どころか三度手間になっちゃうでしょ?」
「あはは、相変わらず現実的! でも佐藤さん、一人で先に行っちゃうなんて寂しがるんじゃない?」
「そうでもないのよ。実家のサポートがある松本で出産するのが『一番安全な最適解だ』って言ってて。……でも、引っ越しに関しては過保護すぎて大変だよ。『荷造りも移動も全部僕がやるから、君は絶対に座ってて』って、全然引いてくれなくて」
「さすが佐藤さん……相変わらず愛が重たいわね。あ、だから披露宴の写真のアルバムもこっちに置いてあるんだ! 早速見せてもらうね」
美穂はウキウキと分厚いアルバムを開いた。
厳かな挙式、感動的なスピーチ、そして楽団員たちの大爆笑を誘った余興のページへと進み——。
お色直し後の再入場前に撮影した写真を見た美穂は、目を見開き、信じられないものを見るような目で真由子を振り返った。
「……ちょっと、真由子。なにこれ」
「え?」
「このファントムの仮面つけてる写真! 佐藤さん、めちゃめちゃノリノリじゃない!!」
美穂が指差した写真には、白い仮面をつけ、なぜか無駄に色気のある本気のポーズ(しかもカメラ目線)を決めている誠の姿がバッチリと収められていた。
「あの『絶対零度の人間計算機』が、絶対にこんなふざけた企画乗ってくれないと思ったのに……だって、再入場してきたときはいつも通りだったよね? あんた、控室で一体どんな魔法を使ったのよ!?」
「え、魔法? 何も使ってないよ?」
真由子は不思議そうに首を傾げた。
「誠さんね、予想通り『嫌だ』って即答したの。私も別に無理してつけてほしかったわけじゃないし、『せっかくだから写真だけ撮ろう。私も本当は、眼鏡を外した誠さんの綺麗な顔を皆さんに見せるの、ちょっと妬けるから』って……つい本音を言っただけだよ?」
言いながら、真由子はあの時の羞恥を思い出して少しだけ頬を赤く染めた。
しかし、それを聞いた美穂は、大きなため息をついて天を仰いだ。
「……はぁー。真由子、あんたって本当に無自覚よね」
「えっ?」
「あの佐藤誠に向かって『他の女に見せるのが妬ける』なんて……そんな殺し文句言われたら、そりゃあ計算機もショートして、喜んでファントムになりきるに決まってるじゃないの」
「えっ、そういうことなの!?」
「そういうことよ。ファントムよりタチが悪いのは、あんたの方ね」
呆れ果てたように笑う美穂と、自分の何気ない言葉が夫を暴走させていたと今更気づいて顔から火が出る真由子。
冬の柔らかな日差しが差し込む部屋には、温かく平和な笑い声がいつまでも響いていた。
お読みいただきありがとうございました。
番外編 二〇〇三年の裏側、いかがでしたか?
披露宴の回はすでにお読みいただいた本編も削った状態で5000字を超える大ボリュームになっておりまして……第一原稿でシリアスな本編と毛色の違うコミカルなやりとりや『無茶ぶり』などを泣く泣く削ってしまいました。
ただ、どうしても心残りだったので今回番外編という形で書くことができてホッとしています。
計画的な誠さんが奏ができたことによって披露宴の予定を変え急遽会場を抑えたことで藤原さんに押し切られてしまう。普段の誠さんなら絶対に有り得ない、でも愛おしいバグなのかなと思います。
そして当日の無茶振り——断片・徹で腰を抜かした誠さんに、真由子が『写真撮影用に持ってきた楽器で緊張をほぐすために音出しでもしたら?』と促してウォームアップをさせておいた、なんて裏設定も実はあったりします。
本編の披露宴の雰囲気とはまた少し違うことで温かい気持ちになったり、クスリと笑っていただけたら幸いです。
さて、最後にお知らせがあります。
① 本編『カーテンコール』掲載!
明日10月28日は、1995年の普門館で誠さんが恋に落ちた「運命の日」です。この日にちなんで、明日18:40、本編に『カーテンコール』として誠さんの独白を特別掲載いたします! どうぞお楽しみに。
② シークレットトラック
『ダ・カーポ・アル・フィーネ』開幕!
IFストーリとしては最後のお話、いよいよ明日22:20からスタートします。
こちらもぜひご期待ください。




