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シンクロニシティ ―黒の変奏曲(ヴァリアシオン)―  作者: 滝丸
番外編 二〇〇三年の裏側 〜計算機のファントムと、無自覚なクリスティーヌ〜

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22/31

第三話【計算機の独奏と、絶対零度の重い愛】

そしてメドレーは『夜の音楽(Music of the Night)』へと変わった。

ファントムが、愛するヒロインを己の地下迷宮へと誘い、甘く口説き落とす劇中屈指の愛の歌。


伴奏の楽器が静かに流れる中、一番の盛り上がりである主旋律がホルンパートへ受け渡された瞬間——誠以外のホルンメンバーが、示し合わせたように一斉に楽器を下ろし、彼一人を残した。


(……っ!)


ステージ上でただ一人、旋律を吹かされる形になった誠の目が、一瞬だけ見開かれる。


(今年の定期演奏会で披露した曲とはいえ、ほぼぶっつけ本番のソロとは理不尽すぎる……! だが。要するにこれは、今日のヒロインである真由子ちゃんを、僕の音で口説き落とせということか。……ならば)


理不尽な状況を前にしても、人間計算機の思考回路は一瞬で最適解を弾き出した。

腹を括った誠は、目を閉じ、深く息を吸い込む。


——次の瞬間、会場の空気が震えた。

穏やかで紳士的な旋律の仮面の下に、真由子への剥き出しの独占欲と、狂おしいほどの激しい思慕を忍ばせて。

会場にいる観客全員の肌が粟立ち、聴く者すべてが彼に恋をしてしまいそうなほど、深く、甘く、艶のある極上のホルンの音が鳴り響いた。


暗く落とされた照明の中、高砂に一人残された真由子の顔は、文字通り真っ赤に染まっていた。


(……っ、会場の照明が落ちていて本当によかった。今の私の顔、誰にもお見せできない……!)


夫の音からダダ漏れになっている『重たい愛情』を全身に浴びて、真由子は胸元をきゅっと押さえた。



その後もメドレーは様々な名曲へと移り変わり、最後は怪人の切ない愛の余韻を残すように、一人、また一人と楽器が減っていき……静寂の中へ溶けるように終わっていく。

一瞬の静寂の後、会場は割れんばかりの拍手とブラボーの歓声に包まれた。


ステージ上で息を整えながら楽器を下ろした誠に、団長の上條がニヤニヤと笑いながらマイクを向けた。


「さあ、見事なソロを披露してくれた新郎の佐藤くんに、ひとこといただきましょう!」


突然の指名にもかかわらず、誠は一切動じることなくマイクを受け取った。そして、先ほどまでの熱情を帯びた演奏が嘘のように、職場で見せるいつもの『絶対零度』の冷徹な顔に戻り、淡々と、しかしよく通る声で言い放った。


「……劇中のファントムは、最終的に愛するヒロインを手放しますが。僕は、僕のヒロインを決して手放すつもりはありません」


どよめく会場の中、誠は高砂で顔を真っ赤にして俯いている真由子をまっすぐに見つめ、口角だけを完璧な角度で上げて微笑んだ。


「僕は一生、彼女の『夫』という仮面を被り続けます。皆様、今後とも妻に近づく不審者には目を光らせておいてください」


――重っ!!!


美しく感動的な音楽の余韻をすべて吹き飛ばすほどの、筋金入りの「重たい溺愛宣言」。

その場にいた吹奏楽団の全団員と、病院のスタッフ全員が、心の中で(一部は声に出して)同時に強烈なツッコミを入れたのだった。



一方、その頃。

S大学医学部附属病院のスタッフたちが集まるテーブルでは、先ほどの余興の熱冷めやらぬまま、女子職員たちが身を乗り出してヒソヒソと盛り上がっていた。


「ちょっと、見た!? いつも氷みたいに冷静な佐藤先生の顔に、あんなに表情があったなんて!」

「うん、あんなに焦った顔、初めて見た! しかもあのホルン?だっけ?……よくわからないけど、なんだかドキドキするっていうか、妙な色気があって凄かったよね」

「演奏聞いたら佐藤先生がすごくカッコよく見えてきた。来週一緒に仕事した途端、前言撤回してると思うけどね」

「あんなに素敵だったら浅野さんが落ちたのも納得ねー」


「ねえねえ、それより私、あの曲がった楽器吹いてた男性、すごくカッコいいと思う! 座席表を見ると『新郎親友』って書いてある。あんなイケメンが友達にいるなら、佐藤先生に紹介して貰えばよかったー!」

「わかる、すごいイケメン! 身長高いし、仕事もできそうだよね。おしゃれで華やかだからきっと証券マンとかじゃない?」

「キャーー!」


「ねえ、今日なら佐藤先生のこと、思いっきり揶揄っても許されるんじゃない? ヤジ飛ばしちゃおうか!」

「えっ、でも明日からの業務で、あの視線で殺されないかな……? いや、今日くらいお祭りだし、いっちゃおう!」

「よーし!」


ステージを降り、フロックコート姿の誠が一人で高砂へと戻っていくところだった。その無防備な背中をめがけて、病院テーブルから容赦のない野次が飛ぶ。


「佐藤先生ー! ホルン吹く姿イケメンでしたよー!」

「デキちゃった婚、おめでとー!!」

「『真由子ちゃん』とお腹の赤ちゃん、大事にねー!!」


その声に、会場中からどっと温かい笑いが起こる。

しかし——野次を浴びた新郎は、ピタリと足を止めて、ゆっくりと振り返った。

そして、薬剤部で教授からの無茶振りを切り捨てる時に見せる、あの『絶対零度の瞳』のまま。口角だけを完璧な角度で上げて、にっこりと微笑んだ。


(……ひっ)


テーブル周辺の温度が、物理的に五度ほど下がった気がした。


「うっ。こ、怖い……」

「絶対怒ってる。あれ、目が全然笑ってない。月曜日の病棟業務で、合法的に抹殺される……」

「帰れないかも。疑義照会で全部弾かれる……誰か、月曜のシフト代わって……」


調子に乗って地雷を踏み抜いた同僚たちは、真っ青な顔で一斉にグラスのビールをあおった。




その後、真由子がお色直しのために中座している間のこと。


恩師である宮坂が、新郎親友席に座る健二の元へ歩み寄り、懐かしそうに言葉を交わしていた。

その様子を遠巻きに伺っていた病院の女子職員たちは、「よし、今だ!」と一念発起し、宮坂が離れた絶好のタイミングを見計らって、その圧倒的イケメンの元へと特攻をかけた。


「あの、佐藤先生の親友の花岡さん……ですよね?」

「いつから仲良くされてらっしゃるんですか?」

「お仕事は、何をされているんですか?」


健二を間近で見た独身女子たちは、彼から漂うジャズ研仕込みの色気と、トップ証券マン特有の自信に満ちたオーラに完全に当てられ、頬を赤らめて群がった。

突然女性たちに囲まれた健二だが、そこは圧倒的な営業成績を誇る男である。驚く素振りも見せず、完璧に洗練された愛想の良い笑顔を向けた。


「誠とは、中学からの腐れ縁でね。仕事は証券会社で、少しばかり相場を張らせてもらってますよ。……君たちこそ、うちの堅物な親友の同僚? 普段、あいつが迷惑かけてないかな」


スマートな返しと大人の余裕に、女子たちは「キャーッ!」と黄色い声を上げる。


(……やっぱり、俺はこうでなくっちゃな)


健二は内心ですっかり気を良くして、グラスを傾けた。


(悪いな、誠。新郎より注目されてしまって)



高砂に一人残っていた誠は、健二が女子職員たちに囲まれ、上機嫌で談笑している光景をチラッと視界の隅に捉えていた。表情は一切変えず、他の招待客と『絶対零度の微笑み』で和やかに歓談を続けているものの、その頭の中では人間計算機が高速で状況を分析している。


(健二の意識と自己顕示欲が、他の女性に向いている方が俺も安心だ)


あの男の気まぐれな情熱と執着から、何としてでも真由子を守らなければならない。


(彼女たちには悪いが……自分から火の中に飛び込んでいったのだから仕方ない。すべては、真由子ちゃんと、お腹の子の安全が第一だ)


一切の躊躇なく同僚たちを『優秀な囮』として切り捨て、健二の毒牙から妻を隔離する。それはまさに、愛する者以外には微塵も情を挟まない、ファントムばりの冷酷な最適解であった。



そんな誠の元へ、式場のスタッフが小走りで近づいてきた。


「新郎様。新婦様のお色直しが完了いたしましたので、控室までお迎えをお願いいたします」

「……わかりました。すぐ行きます」


立ち上がった誠は、賑やかな会場に背を向けた。

歩みを進めるごとに、その顔から『完璧な新郎』の仮面がスッと剥がれ落ちていく。 重厚な扉を開け、彼自身のたった一人のヒロインが待つ控室へと向かうその足取りは、隠しきれないほどの深い熱と、ひたすら甘い愛情に満ちていた。

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