第二話【計算外の無茶振りと、計算機のファントム】
二〇〇三年、九月下旬。
常念松本吹奏楽団、夜間練習の後。
楽器の片付けが一段落した頃、副団長でクラリネットのパートリーダーである藤原が、ホルンケースを持って車へ向かおうとしていた誠に声をかけてきた。
「佐藤くん、式場決まったんだって? 秋のハイシーズンなのに、よく取れたねえ」
「ええ。兄の伝手で、たまたま空きがありまして」
誠は極めて冷静な、いつもの『絶対零度』の表情で淡々と答えた。
「ああ、徹くんの! どこに決まったの?」
藤原は、誠の兄・徹の同級生でもあり、実は誠とも面識があった。松本という街は、こういう繋がりにおいて恐ろしく狭い。
「……市内の、——です」
「えっ! あそこすごくいいところじゃない! あれ、あそこのメインバンケットって、広めのステージあったよね。じゃあ、うちの団で吹いていいの?」
目を輝かせる藤原に、誠は即座に理詰めの防衛線を張った。
「……いえ、式場を押さえただけで、余興等の詳細はまだ白紙です。それに、なにぶん日取りが近く、これから光の速さで準備を進めなければならないため、大掛かりな出し物は彼女の負担にもなりますし、難しいかと」
「えー、大丈夫大丈夫! 実は僕も、徹くんから『弟の式を頼む』って泣きつかれたスタッフの友人なんだよね! 式場の担当者に、ステージで吹奏楽の演奏できるか頼んでみるよ〜」
「……いえ、ですから僕は全く頼んでいませんが」
「またまたー。だいたいさ、上條さんと僕が、誠くんの『プロポーズと東京帰還の計画』、ずっと他の団員に黙っててあげたんだからさ」
その言葉に、誠はピタリと動きを止めた。
指揮者の先生と上條団長にだけは「今年度いっぱいで松本を離れる」と伝えていたが、副団長である藤原も当然その事実を共有していたのだ。
「今年のコンクールの自由曲が『第六の幸福をもたらす宿』に変更されたのだって、誠くんへのはなむけと、先生が『佐藤くんがいるうちに東海大会金賞を狙って本気で勝負したい』って決意したからでしょ?」
「……それは」
「僕と上條さんも水面下で動いてさ、フルートの神様とオーボエの彼に『今年のコンクールにはどうしても出てほしい』って打診して、木管ソリストの予定を押さえて演奏のクオリティを担保したんだ。まあ、クラリネットにはエースの真由子ちゃんと僕がいたから、そこは根回しが必要なくて助かったけどね」
藤原は得意げに笑って、誠の肩をバシッと叩いた。
「団長も先生も、僕も、誠くんと真由子ちゃんのために全力で環境を整えたんだ。だから……これくらいのお祝い、固いこと言わずにやらせてよー」
「……うっ」
裏側で動いていた彼らの熱い思いと配慮を突きつけられ、人間計算機の完璧な論理武装が一瞬で機能停止する。
論理で動く彼だからこそ、この「多大なる恩義と情」という変数に対しては、反論の余地がなかった。
「じゃあ、決まりね! 担当は丸山さんでしょ? 明日連絡しておくから!」
「……藤原さん、あの」
「どんな曲がいいかなー。佐藤くんの正体を暴くような、あっまーい曲がいいよね!」
嵐のように去っていく副団長の背中を見送りながら、誠は密かに深いため息をついた。
(……兄さんの友人は、どうしてこう全員が理不尽なまでに強引なんだ)
人間計算機の完璧なスケジュールに、『オペラ座の怪人』という最大級の祝福が強制的に組み込まれた瞬間だった。
そして迎えた披露宴当日。
主賓や恩師の宮坂からの温かい祝辞が終わり、いよいよ余興の時間がやってきた。
司会者のアナウンスに促され、ステージに上がった常念松本吹奏楽団の団長・上條が一礼し、マイクを握る。
「両家のご親族、ならびにご列席の皆様、本日は誠におめでとうございます。ただいまご紹介にあずかりました、新郎新婦が所属しております『常念松本吹奏楽団』団長の上條でございます。本日は二人の門出を祝し、我々からささやかな演奏を贈らせていただきます」
そこまで綺麗に挨拶をまとめた上條が、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべて新郎新婦のテーブルを見下ろした。
「ですが、演奏に先立ちまして新郎にお願いがございます。……新郎の佐藤くん、今日ちょっとホルンが足りないから、君も吹いてくださいね」
突然の指名に、会場がどっと沸く。
高砂に座る誠は、貼り付けていた『絶対零度の微笑み』をピキッと引きつらせた。
「……え。それは聞いていませんが。僕は今日は吹きませんよ」
「あー、時間押してるんで! 早くステージ来てくださいねー」
「……楽器を持ってきていません」
完璧な論理による、最強の物理的防衛線。
しかし上條は、ステージの端に置かれた見覚えのあるケースを指差した。
「ここにありますよ!」
「……っ!?」
真由子は、隣で目を見開いて固まった誠の顔を見て、たまらず吹き出した。
誠が信じられないという顔で真由子を見る。
(誠さん、ごめんなさい! ドレス姿で楽器と一緒の写真撮りたいって家から持ってきてたでしょ、このためもあったの)
(えっ……いつの間に会場に運んだの?)
(うん、徹お義兄さんにお願いしてこっそり運んでもらったの)
真由子が小声で種明かしをすると、親族席でグラスを傾けている兄・徹とバッチリ目が合った。徹は、してやったりという顔で弟に向かってニヤリと笑っている。
「……ううっ」
逃げ道を完全に塞がれた人間計算機は、ついに天を仰いで観念した。
ため息をつきながらも立ち上がり、フロックコート姿のままステージへと向かう新郎に、会場から大きな拍手と冷やかしの歓声が飛ぶ。
誠が諦めた顔でケースを開け、ウォームアップの準備をしている間、上條が再びマイクを構えた。
「新郎がスタンバイしている間に、私から少しだけご挨拶申し上げます。……新郎の誠くんは、手前味噌ではありますが、おそらく全国のアマチュアでも五本の指に入るのではないかという、圧倒的な実力を持つホルニストです。彼の包容力のある音は、誰もが穏やかで安心した気持ちになれる。一緒に吹かせてもらえることは、我々にとって何よりの幸せです。
そして新婦の真由子さんも、当団のクラリネットパートを牽引する絶対的なエースです。彼女のまっすぐで美しい高音の響きは、いつも我々団員の心を明るく照らしてくれています」
上條の真摯な言葉に、会場中が温かい空気に包まれる。
しかし、団長の目は笑っていた。
「さて、そんな二人のために本日演奏いたしますのは、『オペラ座の怪人』メドレーです。
……劇中に登場する怪人・ファントムのように、普段は『絶対零度の人間計算機』という完璧な仮面を被っている新郎ですが。実は真由子さんが佐藤さんに連れられて当団に見学にいらした時から、仮面の下では『佐藤』なだけに、砂糖より甘ーい目をして真由子さんを見つめていらっしゃいました」
「ちょっと、団長!」という誠の抗議は、マイクを通した上條の声と会場の爆笑にかき消される。
「ええ、一瞬で真由子さん以外の全団員が彼の気持ちを理解しました。しかし、奥手な彼はなかなか決定的な一歩が踏み出せなかったようで、全団員がヤキモキしながら彼の初々しい恋を見守っていたのです。
……しかし、いつだったか。急に佐藤くんの音が、信じられないくらい濃密な色気と、剥き出しの情愛がこもった音に変化した時期がありました」
その言葉に、真由子の顔がカッと熱くなる。
(そ、それって、誠さんとお付き合いし始めたときのことよね……そうなったこと、みんなにバレてたんだ。恥ずかしい……)
「その圧倒的な音の変化に、またもや全団員が『あ、これはついに恋が成就したな』と察することになりました。
晴れて恋人同士になった誠くんは、真由子さんに対し、それはもう過保護なほどの愛情を持って接していました。近づく悪い虫はすべて、彼が裏で完璧に排除していたそうです。……彼の重たい愛情と執念には、本家のファントムもびっくりでしょう。
本日は、そんなファントムのような重い愛情がめでたく成就したことを祝って、この曲を演奏したいと思います。皆様、どうぞお聞きください」
ドッと沸き起こった笑いと拍手が収まると同時に、会場の照明がふっと落ちた。
静寂の中、『神様』のフルートソロが、ミステリアスな旋律を奏で始める。
その圧倒的に美しくドラマチックな音色が一瞬で披露宴会場の空気を変え、これから始まる「怪人の愛の物語」へと、すべての観客を引き込んでいった。




