第一話 【計算機の密やかな計画と、第六の幸福への幕開け】
二〇〇三年、初頭。
常念松本吹奏楽団の夜間練習後。松本駅近くの居酒屋にて。
「いやあ、佐藤くんが練習後の飲みに来てくれるなんて珍しいね! 今日は、君がどうやってあの深い音に辿り着いたのか、じっくり聞かせてもらおうと思ってね」
指揮者が上機嫌でビールのジョッキを掲げた。
「努力の結果です」
誠は手元のジョッキを見つめ、極めてシンプルに答えた。
「僕も同じ金管奏者として気になるなぁ」
団長の上條も興味津々で身を乗り出す。
「特別なことは何もしていません。ただ、学生の頃までは家族の勧めで月に一度、東京でプロのレッスンを受けていました。主に基礎練を見てもらい、自分で練習メニューを組めるように指導していただいたんです。今の楽器も、その先生に選定していただいたものです」
淡々と語る誠を見ながら、上條は副団長の藤原から密かに聞いていた話を思い出していた。
(藤原くんの話だと……佐藤くんのお母様は音楽家だったが、彼が高校生の頃に若くして亡くなったんだったな。だから彼にとって、母親の話題はタブーだと)
藤原は、誠の兄の友人で、誠の複雑な家庭事情を知る数少ない——団内では恐らく唯一の——人物だ。
藤原の家は松本で手広くやっている大きな楽器店であり、友人関係を除いても地元の事情にすこぶる明るい。誠と真由子が高校の先輩後輩であり、誠が彼女のトレーナーを務めていた過去も、藤原から共有されていた。
彼が副団長として団の潤滑油になってくれているのは、上條にとっても本当にありがたいことだった。
「なるほど。才能だけでなく、佐藤くん自身もストイックに努力されてきたんだね」
上條はそれ以上プライベートには踏み込まないことにした。
「佐藤くんがいてくれると、団として演奏できる曲の幅が格段に広がって本当にありがたいよ。曲のグレードが上がれば上がるほど、ホルンの安定感が生命線になるからね」
「いえ、僕は大したことは……」
「そうだね、上條くんの言う通りだ。僕も今までかなりの数のバンドを指導してきたけれど、ホルンの心配を一切しなくていいバンドなんて、数えるほどしかなかったよ」
手放しで絶賛する二人に、誠はふっと真面目な顔になり、居住まいを正した。
「そう言っていただけると、光栄です。……ですが。僕はこの団を、来年度で退団することになると思います」
「えっ? 何で?」
「まだお二人だけの胸に留めておいていただきたいのですが。今年の秋に大学へ博士論文を提出し、来年の春には、東京の研究室に戻ろうと計画しています。……本日は、そのことを事前にお伝えに参りました」
上條がジョッキをコトンと置き、目を泳がせながら呟いた。
「そうか……それは、佐藤くんにとっては本来の道に戻るおめでたいことなんだろうけど。うちの団にとっては最大の痛手だな。……浅野さんには?」
「彼女には、まだ何も」
「そう……連れて行くんだよね?」
「はい。彼女が、頷いてくれればですが」
穏やかな口調とは裏腹に、その瞳の奥には「絶対に連れて行く」という揺るぎない執念が静かに燃えているように見えた。
「じゃあ、彼女に話すまではなおさら他の人には言えないね。僕たちの胸に留めておくよ」
「ありがとうございます」
沈黙していた指揮者が、静かに口を開いた。
「……佐藤くんみたいな圧倒的なホルン吹きがいるうちに、今年のコンクール、本気で勝負してみたい。上條くん、今年の自由曲、今から変えてもいいかな?」
「えっ……藤原くんが元の曲の楽譜を手配しようとしているところですから、まだ間に合いますよ。団員にも周知していませんし」
「ありがとう。ちょっと電話してくる」
指揮者が立ち上がり、足早に席を外す。
「佐藤くん。今年のコンクールが最後になるなら、なおさら浅野さんには早く言うべきじゃないの?」
上條の問いに、誠は少しだけ眉間を寄せた。
「……僕の博士論文が形にならなければ、東京に戻るという前提そのものが崩れます。不確定な状態で彼女の心を乱したくないので、論文の目処が立ったところで伝えるのが『最適解』だと思っていますが……。プレイヤーとしての彼女のモチベーションを考えると、早く伝えたほうがいいのかもしれません。彼女に対してどちらがより誠実なのか、よく計算し直してみます」
「そうか。僕はこれ以上は言わないし、執行部のごく一部以外には他言しないよ」
「ご配慮、感謝します」
「僕も頑張らないとなぁ。佐藤さんほどの年季じゃないけど、そろそろ長年の片想いに決着をつけないとな。佐藤さん、今度一肌脱いでくれよ〜」
「えっ……!」
誠が珍しく狼狽えたところに、指揮者が興奮した面持ちで戻ってきた。
「友人に連絡がついて、急ぎでアレンジを引き受けてもらえることになりそうだよ。今年の自由曲は、『第六の幸福をもたらす宿』に変更しようと思う」
「ああー! 今流行りのあの曲ですか。アレンジを変えると?」
「うん、主に第二楽章だ。詳細はまた連絡するよ」
「わかりました。楽しみにお待ちしております」
「よし、目処がついた。佐藤くんの門出だ、東海大会で金賞目指して、本気で頑張るぞー!」
「ええーっ、それはなかなか高い目標ですね」
「ハハハ! 乾杯だ!」
三人はその後も酒を酌み交わし、音楽の話に明け暮れた。
この夜の密かな決意が、数ヶ月後の夏のコンクールでの激闘と、秋の披露宴での「無茶振り」へと繋がっていくことを、この時の人間計算機はまだ知る由もなかった。




