【素直になった魔王(カスチェイ)と、優しい最適解】
【※IFルート・閲覧に関するご注意】
本エピソードは、本編では決して見ることのなかった健二の「弱さ」や「純粋な想い」に焦点を当て、真由子と再構築を図ろうとするIFストーリーです。
そのため、本編とは誠の立ち位置が大きく異なります。「誠さんとの絶対的なハッピーエンド」の余韻を大切にされたい方には少し切ない展開となりますので、閲覧の際はご注意ください。
傲慢な魔王だった健二が不器用に歩み寄る「もう一つの可能性」としてお楽しみいただける方のみ、この先へお進みください。
二〇〇九年、四月。
「ただいま」
健二が帰宅した家からは、今日も遥の泣き声が響き渡っている。
「よしよし、お腹すいたかな?」
玄関を抜けるなり、健二は不機嫌に顔を歪めた。
「おい真由子! 真由子!」
「……健二さん。いま遥の授乳をしているから、少し待っててくれる?」
リビングのソファで授乳中の真由子の目の下には濃いクマが張り付き、一目で終わりのない夜泣きに削られているのがわかる。しかし、健二にはそれが理解できなかった。
「俺の飯はまだか! 誰の金で生活できていると思っているんだ!」
疲労と空腹に任せて、健二は怒鳴り散らす。
真由子は一瞬ビクッと肩を揺らし怯えた目をしたが、今日の彼女はいつもと違っていた。授乳を終え、遥をベビーベッドに寝かしつけてから、健二をきっと睨みつける。
「いつもそうやって怒鳴る。今の健二さんなんて……大嫌い。毎日怒鳴られてばかりで、もう限界なの。こんな生活がつづくなら、貧乏のどん底でもいい。遥は私が一人で育てます。明日、区役所で離婚届をもらってきます」
「何バカなこと言ってんだ! お前は俺の飯さえ出せばいいんだよ!」
健二は苛立たしげに真由子を睨みつけると、クローゼットで新しいスーツに着替え、再び夜の街へと出かけていった。
翌日。健二が不貞腐れた足取りで帰宅すると、家は真っ暗で誰もいなかった。
真由子は宣言通り、記入済みの離婚届をテーブルに残して去っていた。
横には短い手紙が添えられている。
『松本の実家に身を寄せます。届を提出したら連絡下さい』
「ま、真由子……?」
静まり返った居間で、健二は膝から崩れ落ちた。
真由子がいなくなって一週間。
健二は昔のように夜の街で遊び回る気力すら起きず、家に帰っては一人で飲んだくれる毎日を送っていた。
(俺はどこで間違えたんだ。真由子を心から愛しているのに……)
その時、健二の携帯が鳴った。
「真由子!?」
「何言ってんだよ。浅野さんじゃない。僕だ」
「なんだ、誠か……な、何か用か?」
「今日はお前が花金だから飲みたいって、無理やり僕を誘ったんじゃないか。どこにいるんだ。しかも、呂律が回ってないぞ」
「へへ……家だよ」
「おい、すっぽかすな。家でそんなに飲んで、ご家族はいいのか?」
「うるせー。いねぇから飲むしかねぇんだよ」
「いない? ……どういうことだ。ちょっと待っててくれ、そっちに行く」
誠が花岡家に到着すると、ベロベロに酔っ払った健二が焦点の合わない目で迎え入れた。
「浅野さんと遥ちゃんはどうした。あんなに『幸せだ』と言っていたじゃないか」
「俺のこと、大嫌いだってよ。離婚するって。……俺はただ、子供ばっかりじゃなくて俺に飯を出せって言っただけなのに」
健二の説明は支離滅裂だった。
事態の異常性を察知した誠は、かつての吹奏楽団の団員名簿を頼りに、思い切って真由子に連絡を入れた。
「夜分にすみません。常念松本でホルンを吹いていました、佐藤です。差し出がましい事かもしれませんが……健二が泥酔して、浅野さんに離婚してくれと言われたと泣いているのですが、本当のことですか?」
電話に出た真由子は少し渋りながらも、これまでの経緯をポツリポツリと話した。
「……そうでしたか。大変だったね。健二が、本当に申し訳ない」
誠は深いため息を吐き、真由子に深く謝罪した。
「そんな、佐藤さんが謝ることでは……」
「……そうだね」
電話口の誠の声は、ひどく悔しそうに滲んでいた。
「僕に手伝える事があれば、いつでも頼ってください。では」
誠は電話を切り、床に転がる健二を見下ろした。
「僕はこれで帰る。健二、明日シラフの時に話そう。十一時にここに来る」
翌日。
一秒の狂いもなく、十一時ぴったりに誠はやってきた。
「健二。昨日のことについて、僕なりの最適解を出した。まず、お前は最低だ。浅野さんに毎日暴言を吐き続けているそうじゃないか。『本気だ、大切にする』んじゃなかったのか? ふざけるな!」
「誠……うるせー! 真由子は俺のものだ、どうしようが俺の勝手だろ! ……お前、俺が知らないとでも思ってんのか? お前がずっと真由子を狙ってたことくらい知ってんだよ! これにかこつけて、今度こそ奪おうってんだろ!」
「……ああ、そうするよ」
誠は氷のように冷たい声で断言した。
「浅野さんは、僕が、もらう。彼女には昨日連絡してその旨を伝えた。来週末に松本へ話に行く」
「ざけんな! 真由子は俺のもんだ!!」
「僕は、浅野さんに暴言を吐いたりしない。僕は、浅野さん自身の尊厳を守る。対等なパートナーとして尊重し、決して鳥籠に入れない。僕は、寂しいならば『寂しい』と言葉で正直に伝える」
「寂しいなら、『寂しい』と……言う?」
「ああ。正直な気持ちを相手に伝えて、話し合う。……そもそも、赤ちゃんのお世話だって僕もやる。日に日に変わっていく自分の子供と接する事ができる特権を、喜んで行使するよ。ただ一人の父親なんだから」
その言葉に、健二は殴られたような衝撃を受けた。自分が見向きもしなかった『父親としての特権』を、目の前の男はすべて拾い上げ、真由子ごと完璧に愛し抜こうとしている。このままでは本当に、永遠に彼女を失ってしまう——。
健二は虚を突かれたように黙り込み、深く考え込んだ後、静かに告げた。
「誠。俺はこれから出かけるから、もう帰れ」
「言われなくてもそうするよ。僕は研究で忙しいんだ。博士課程に入ってるんだから」
誠は二〇〇六年の秋から東京に戻り大学で研究を再開し、最速で修士から博士課程へと進んでいた。人間計算機は見事に再起動を果たしていた。
同日夕方、長野県松本市。
真由子の実家の前に、一台の車が滑り込んできた。
「真由子。話がある」
「健二さん……離婚届、持ってきてくれたの?」
真由子は目を合わせずに問う。
「いや、書いてない。真由子、格好悪い俺を見て、幻滅しないでくれ」
健二は顔を伏せ、震える声で絞り出すように言った。
「……寂しい。俺だけを見て欲しい。赤ん坊じゃなく、俺を優先して欲しい。お前は、俺が初めて本気で好きになった、ただ一人の女だから」
真由子が驚いた顔で健二を見上げる。
「……寂しかったの?」
「ああ。何度も言わせるな。俺は花岡健二なんだから、いつだってお前の王子様でいなきゃいけないんだ」
「なによそれ、ふふっ」
真由子から、久しぶりに小さな笑みが溢れた。
「……私も、言っていい? 健二さん、怒鳴るのはやめて欲しい。お休みの日は遥と接して欲しい。あと……『健二さんを優先』は今はできない。赤ちゃんは放置したら生きていけないから。もう少し、待って欲しい」
「待つ? この俺様が?」
「うん。できなければ一緒にはいられないよ。……そうだ! 待つんじゃなくて、一緒にお世話すればいいんじゃない?」
「こう……か?」
真由子は健二の横にピタリとくっつき、遥のおむつ替えを教え始めた。
「そう、こうやってするの。一緒にやろうよ。そうすれば、二人とも寂しくないじゃない」
健二は初めて、腕の中の遥の顔をまじまじと見つめた。
俺から真由子を盗った憎い娘……いや、違う。俺の愛するただ一人の女にそっくりな、俺たちの娘だ。可愛い。
「まだわかりづらいけどね、遥の手、健二さんにそっくりなのよ」
真由子が愛おしそうに遥の小さな手に触れる。
「サックスを吹く時の、健二さんのあの素敵な手を思い出して、ちょっぴりドキドキしちゃうんだ」
「……ドキドキする?」
「うん。だって、中一のときからの、私の憧れの君だからね」
「憧れって……真由子は俺が常念松本に入ってきたとき、無関心だったよな?」
「え? ……かつての松本吹奏楽界のアイドルが同じ団にいる!って周りはキャーキャー言ってたけど、確かに私は騒がなかったかも。だって、アイドルでもなんでも、入団したら同じ一人のプレイヤーじゃない。一人の人として尊重するべきだと思って。……でも、ほんとはちょっとドキドキしてたんだよ」
「真由子は……俺にドキドキするのか?」
「え? 好きだから結婚したんだから、ドキドキするに決まってるじゃない」
健二の顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。
松本吹奏楽界一のプレイボーイは、真由子のこととなると、途端に純情な一人の青年に戻ってしまうのだ。
「健二さん、せっかくだから遥をお母さんに預けて、二人だけでお出かけしない? 実家で休めたから、少し元気になったの」
「……真由子が疲れ切っていたのに、俺は、お前を気遣えなかった。これからも上手くできないかもしれない。それでもいいんだろうか」
「少しずつ歩み寄って、家族になろうよ。私も初めての育児でいっぱいいっぱいで、健二さんのこと全然気遣えなくてごめんね。家族のために一生懸命働いてくれているのに」
「俺は、好きで働いているからいいんだよ。……真由子」
健二は、壊れ物を扱うように真由子をぎゅっと抱きしめた。
「真由子がいないと、俺は何もできないんだ。ずっと隣にいて欲しい」
「東京に戻るよ。でも、もう、怒鳴らないでね」
「ああ、善処する」
「そういうときは『二度としない』って言うんじゃないの?」
「だって、真由子が俺のことを一番に見てくれなかったら……やっぱり嫌だ」
その夜。
「出かけるならおしゃれなレストランがいい」と言い張った健二が予約した店で、二人は久しぶりに穏やかな食事を取っていた。
「真由子。ところで誠は、なんて言ったんだ?」
「え……健二さんのことを聞かれたから正直に答えたら謝罪してくれて、最適解を考えたから次の土曜日に進展を教えてくれって言われたよ。『絶対零度の人間計算機』なんて呼ばれてたから冷たい人なんだと思っていたけど、前に課題曲の解釈について質問したときも丁寧に答えてくれたし、昨日もすごく優しかった。信頼できるいい人ね」
「……ああ。俺の親友だからな」
(誠のやつ……やっぱり本気で奪う気だったか)
一週間後。
東京に戻った真由子は、誠に経過の報告とお礼の電話を入れた。
「わかった。これからは僕も、健二の様子をちょくちょく見に行かせてもらってもいいかな」
「ありがとうございます。ぜひいらしてください」
誠は静かに電話を切った。
(浅野さん。君を好きな気持ちは変わらない。僕の隣に来てくれることがもちろん一番嬉しいが……君が健二を好きなら、健二の横で幸せいっぱいで笑っていてくれるのが、僕にとっても最適解なんだ。僕も、幸せな君を見ていたい)
二〇二六年。
花岡家のリビングでは、高校三年生になった遥と誠がテーブルに向かい合い、勉強をしていた。
「マコト、いつもありがとう! すごくわかりやすかった!」
「遥のためなら、いつでも来るよ」
「マコト、暇なの?」
「遥! 佐藤さんが暇なわけないじゃない。お偉いさんなのよ。……佐藤さん、あれから本当にちょくちょく様子を見に来てくださって、本当にありがとうございます」
「いや、いいんだ。真由子さんと遥の顔も見られるしね。……健二に挨拶してから帰るよ」
「お気をつけて。またいらしてくださいね」
書斎でサックスの手入れをしている健二に、誠は背中越しに声をかけた。
「健二、また来るよ」
そして、誠はスッと声を潜める。
「浅野さんに会いにね。お前が彼女を泣かせたら、今度こそ僕がもらうからな」
「ざけんな!二度とそんな隙は見せねぇよ!」
背後から飛んでくる健二の怒声に背を向け、誠は飄々と花岡家をあとにした。
滝丸です。
1話完結のIFストーリー二作、最後までお読みいただきありがとうございました。今回は二つの「もしも」の世界線をお届けしました。
まず、『一九九九年 冬』。
本編では、喪中はがきを受け取った真由子が想いを自覚するにとどまったあの冬。もし彼女が直接松本へ向かっていたら……というIFストーリーです。
完璧な計算機が限界を迎えて縋り付く切ない夜と、翌朝のスパダリ強制送還のギャップはいかがだったでしょうか。
そしておまけのエピソード!「計算機が崩壊したら最適解ならぬ最悪解になるのでは?」と思って書いてみました(笑)。
二作目の『素直になった魔王』。
一度目の人生で、己の幼稚な自己愛から豹変してしまった健二。もしあの時、真由子が彼に立ち向かえていたら。彼が素直に「寂しい」と言えていたら。そして、誠さんが自ら悪役を買って出て二人を繋ぎ止めていたら……。
「浅野さんが笑っていてくれるのが、僕にとっても最適解」。誠さんのこの決断に、どんな世界線でも変わらない彼の誠実な愛を感じていただけていたら嬉しいです。
【お知らせ】
本日22:20、先にお知らせしましたエピソード0.5のIFストーリーとなる短編、
『幻奏(シンクロニシティ・IFストーリー〜真由子一度目の人生〜) 一九九六年【受け継がれるくすりといのち】』を同時公開予定です。
交わるはずのなかった二人が最速で結ばれる、「人間計算機」の理性が決壊する甘い「もしも」の純愛ルートです。
お読みいただけると大変嬉しいです!
▼作品はこちらから
https://ncode.syosetu.com/N1186MP/
お読みいただけると大変嬉しいです。
【次回予告】
番外編:二〇〇三年の裏側。
披露宴で常念松本吹奏楽団が演奏!タイトな予定できまった披露宴なのに、なぜ演奏までこぎつけられたのか。
シリアスな本編には書けなかった披露宴のエピソードや、二人が入籍した時に話していた内容の裏側をしれっと回収していたりと、コメディ要素満載のエピソードとなっております。全四話でお送りいたします。
そして、シークレットトラック。
幻奏(IFストーリー)【ダ・カーポ・アル・フィーネ】
1995年10月28日、普門館から始まるIFストーリー。
全六話でお送りいたします。
どうぞお楽しみに!




