奏の演奏会【鳳凰(ひのとり)の歌と、僕たちの定理】
二〇二八年、春。
東京の佐藤家のリビング。コーヒーを飲んでくつろいでいた誠に、大学院で物理学を専攻している修士二年の息子・奏が、ふと真剣な顔つきで話しかけた。
背丈は誠より少し高くなり、理知的な顔立ちは父親譲りであるものの、醸し出す雰囲気には真由子の柔らかさも併せ持つ青年に成長した奏は、真っ直ぐに誠の目を見つめた。
「父さん。実は、高校の吹奏楽部のリベンジ演奏会をやろうって、みんなで話してて。大学が夏休みになる八月末に、ホールが借りられればと思ってるんだ。そこで、元トレーナーとしての父さんの力を貸してほしい」
「わかった。協力する」
誠は、コーヒーカップを置いて即答で頷いた。
かつて自分の時間を一秒の狂いもなく管理していた『人間計算機』は、愛する家族からの頼み事となると、いつだって自分の計算式をあっさりと書き換えてしまうのだ。
「それで……」
奏は少し言いにくそうに、けれど期待を込めた目で続けた。
「トレーナーとしてもだけど……プレイヤーとしても、協力してほしいんだ」
「……トラ(エキストラ)もやってほしいってことかい?」
「うん。メンバーの総意なんだ。お願いします」
誠は少しだけ目を丸くした後、ふっと口元を緩め、我が子を見る慈愛に満ちた目で微笑んだ。
「……仕方ないな。君たちの晴れ舞台だ。ひと肌脱ぐとしよう」
◆ ◆ ◆
そして迎えた、八月末の演奏会当日。
客席には真由子と、すっかり大人びた大学生の娘・遥、そしてなぜか松本から呼びつけられた義兄の徹が並んで座っていた。
「徹おじさん、大好きなんだけどさ。お父さんと同じ顔でボケられると、ちょっと鳥肌立つんだよね」
「ひどいなぁ、遥。そんなこと言う子には、次のお正月にお年玉あげないぞ」
「えー! すみませんです、徹おじさま!」
ケラケラと笑う遥の横で、真由子がプログラムを開くと、今日に至るまでの経緯が綴られていた。
コロナ禍で十分に練習ができず、歯痒い思いをした世代が全員大学生になったこと。あの頃の悔しさを晴らすため、ずっと水面下で企画していた演奏会をようやく執り行うことにしたこと。
そしてページの最後には、悪戯っぽい文字でこう記されていた。
『二〇一七年より長年トレーナーとして僕たちの音を鍛えてくれた佐藤誠さんへの感謝を込めて、この演奏会ではゲストとして合奏に加わってもらうことを決め、ご快諾頂きました。ひとりだけおじさんが混ざっていますが、圧倒的なホルンをお楽しみ?ください』
一方その頃。二階席の一角では、もう一人の『おじさん』が苦虫を噛み潰したような顔で客席を見下ろしていた。
「うわ、よりによって徹がいる……。俺、あいつの『ハロオゥ〜健二』ってノリ、昔から蕁麻疹出るんだよ。誠のやつ、俺が今日来るのを完全に計算して、真由子ちゃんに近づけないように『絶対防壁』として松本から兄貴を召喚しやがったな……。ちっ、相変わらず妻のことになると容赦ねえ」
舌打ちをしながらも、花岡健二の視線はステージの中央へと向けられる。
「……にしても、奏のやつ。普段は相変わらず俺とジャズを吹いてるくせに、今日のためにきっちり『端正な吹奏楽の音』に擬態してきやがった。あいつ、俺の家にまで押しかけて『吹奏楽の音への戻し方』を聞いて、俺にお手本まで吹かせるとは。あの図々しさ、誰に似たんだ? ……しかし、俺が昔やった手口を、友人と父親のために使うとはな……生意気な『友達』だ」
ステージの照明が一段と明るくなり、奏たち学生の間に混ざって、少し白髪の混じった愛しい夫がホルンを構える姿が現れた。
吹奏楽の超有名曲、コロナ禍の頃の課題曲、よく演奏されるポップスまで。多彩な曲目が織り交ぜられながら、演奏会は心地よい熱を帯びて進んでいく。
そして――いよいよ、演奏会のメインプログラムが始まった。
鳴り響いたのは、ストラヴィンスキーの『火の鳥』。
(あ……!)
事前に草稿版のプログラムは見ていたものの、その最初のモチーフが響いた瞬間、真由子の胸の奥に熱いものが一気に込み上げてきた。
私たちの、始まりの曲。
私が高校三年生で、誠さんがOBのトレーナーとして、一緒に東海大会を目指して駆け抜けたあの思い出の曲だ。カスチェイの呪縛から逃れ、自らの翼で羽ばたく「火の鳥」になりたいと、あの頃の私が切に願った音楽。
ステージの上では、誠さんの奏でる深く美しく、豊かで大人の艶を帯びたホルンの音が、バンド全体を根底からしっかりと支え、その上で奏たちの若い音が生き生きと自由に舞い踊っている。
誰も傷つけない、誰も支配しない。
ただひたすらに、愛する者たちを輝かせるための、誠実な土台の音。
そしてそこへ、今日だけは普段のジャズの野性を完全に封印し、純粋で端正な「吹奏楽の音」――誠さんの音――に戻してきた奏のサックスが、そっと寄り添うように重なっていく。
そうして迎えた終曲。静寂に包まれたホールに、厳かで美しいホルンのソロが響き渡る。
私が高校三年生だったあの頃、誠さんが音楽室でホルンの後輩にお手本として吹いていた、あの懐かしいフレーズ。ただあの音に耳を傾けているだけで、一度目の人生で磨り減らされ、傷ついていた私の魂は、少しずつ救われていったのだ。
「お父さん、やっぱりすっごくいい音だね」
隣で聴いていた遥が、誇らしげに目を細めて囁いた。
「ええ。本当に……世界で一番、かっこいい音よ」
私は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、ステージの上で誇らしげにホルンを吹く夫と、その横で立派に音を奏でる息子の姿を、ただ眩しく見つめ続けた。
アンコール。
『ウエスト・サイド・ストーリーより サムウェア(Somewhere)』
(あれ? これは草稿には書いてなかった曲だ)
不思議に思う真由子の耳に、司会者からのメッセージが届く。
『会場においでの全てのお客様と、家族と、親友のために、ソロを吹かせてもらいます』
「「えっ?」」
一階席の真由子。二階席の健二。
「私に?」
「俺に?」
ステージに響く、奏のサックスソロ。
今日だけ、クラシックに戻してきた『誠さんルーツの音』。
誠さんの包容力のある音を土台にしつつ、健二さんの圧倒的な華やかさを確実に盗みとっている。まだまだ進化していこうとしている若くまっすぐな音。
(そうか、奏は二十四歳、誠さんと『火の鳥』を作り上げたあの夏より少しだけお兄さんになったのね……)
そう考えると、あの若さで完成された音楽を作っていた健二さんと誠さんは、規格外の天才だったのだと思い知らされる。
そのあとに続く、誠さんのホルンソロ。
深く、温かく、そしてあふれる情愛を込めた艶のある音。
彼の、すべてを浄化するような音に抱きしめられる。
何も言わなくても、あなたの心が伝わってくる。
真由子は涙が溢れて止まらなくなった。
二階席の健二は、彼らしからぬ優しい顔をして、ステージの上の『親友』と『友達』を見つめている。
(この曲の意味――今は楽器だけだから鳴らない歌詞の意味も含めて――このミュージカルの悲劇的な結末でなくて、純粋な歌詞の意味ってことだろ。……みんなの居場所はきちんとあるってことか。ちゃんと、受け取ったぜ、奏)
健二は誰よりも大きな拍手を贈った。
終演。
「こりゃー、お父さんが帰ってきたら、佐藤家名物の『イチャつきタイム』突入だわ。お腹いっぱいになる前に、徹おじさん、二人で甘いもの食べに行こうよ〜」
「おじちゃんは遥には甘いからな〜。甘いだけに、甘いもの食べるってか! ハハハ!」
「うっ……やっぱり鳥肌がっ……!」
私の人生は、一度は絶望の不協和音の中で終わったはずだった。
けれど今、私の目の前には、愛おしい娘と息子、そして、私に二度目の人生とすべての愛を上書きしてくれた『彼』がいる。
誠さんのホルンが導く、完璧で、甘美で、どこまでも温かい『調和』が、永遠にこの場所で鳴り響いていた。




