【雪解けの夜と、計算外のぬくもり】
一九九九年、冬。
薬学部四年生にとって、卒業と「薬剤師国家試験」を控えた、一年で最も切羽詰まった時期だ。
そんな私の元に、松本の佐藤先輩から、いつもの便箋ではなく一枚の葉書が届いた。
『喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます』
お父様が、亡くなったのだ。
彼は、私の勉強の邪魔にならないよう、あえて電話ではなく、事後報告の葉書一枚で自分の深い悲しみを完結させたのだ。
(……佐藤先輩は今、何を思っているのだろう。一人で、辛くないかな。私でよければ、寄り添ってあげたい)
会いに行こうか。でも、会いに行ったら「今は国試が優先だ。僕の計算を狂わせるな」って、あの涼しい顔で怒られちゃうか。
冬の自室で、私の目からホロリと涙が零れ落ちた。 薬剤師としての自分の使命を改めて肌に感じるのと同時に、一人で最後まで父親に寄り添い抜いた彼の孤独と、遠く離れた私への不器用な優しさを想い、静かに泣いた。
今すぐ松本へ帰る特急に飛び乗りたい。 ——どうしても、背中をさすってあげたかった。彼が今まで私にしてくれたように、今度は私が、彼の冷え切った手を温めてあげたかった。
(……だって、私は先輩にたくさん恩があるのだから。人として、恩人を心配するのは当然のことじゃない)
そう自分に言い訳をして、私は参考書を放り出し、松本行きの特急に飛び乗っていた。
すっかり夜の帳が下りた、底冷えする松本。
便箋の住所を頼りにたどり着いた佐藤家の門前に立ち、震える手でインターホンを押す。やがて玄関の扉が開き、部屋着姿の佐藤先輩が顔を出した。
私の姿を捉えた瞬間、常に冷静沈着な『人間計算機』の目が、あり得ないものを見るように大きく見開かれた。
「真由子ちゃん……? どうして。君は今、国試の追い込みで……」
「そう言われると思ってました。……でも」
私は冷たい空気を吸い込み、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私でよければ、佐藤先輩に胸を貸したかった。どうしても、寄り添いたかったんです」
「……」
「……それに、今日の最終電車には、もう間に合いません。だから、今晩だけは……私を頼ってください」
その言葉を聞いた瞬間。
「……っ!」
佐藤先輩は、凍りついていた何かが決壊したように、すがるような力強さで私の腕を掴み、そのまま家の中へと引きずり込んだ。
案内されたのは、佐藤家の仏間だった。 塵一つなく綺麗に手入れされ、凛とした線香の香りが静かに満ちている。彼がどれほど丁寧に、そして誠実にお父様を見送ったのかが、その空間の空気だけで痛いほど伝わってきた。
私はお線香をあげ、静かに手を合わせた。遺影の中で微笑む、凛として上品そうなお母様。そして、その隣に並ぶ佐藤先輩にそっくりなお父様。 祈りを捧げた後、私は仏壇から向き直り、佐藤先輩に深く一礼した。
お線香の煙が消えるのを二人無言で見つめる空間。 それが消えかけた頃。
「……真由子ちゃん。来てくれて、ありがとう」
不意に彼の身体が傾き、まるで倒れ込むようにして、私の肩にすっぽりと顔を埋めた。
いつもはどんな時も揺るぎなく、私をすっぽり包み込んでくれる広くて大きな背中が、今は子供のように小さく震えている。
決して声は上げず、ただ静かに、静かに。
彼は、たった一人で耐え抜いてきた過酷な日々と、張り詰めていた孤独の糸を溶かすように泣いていた。
私は何も言わず、ただ彼の背中に腕を回し、その不器用で優しい人を丸ごと温めるように抱きしめ返した。大丈夫。私がいます。あなたはもう、一人じゃない。
ひとしきり、涙を流した後。 佐藤先輩はゆっくりと顔を上げ、少し赤くなった目で私を見つめた。大きな手のひらが、私の冷えた頬をそっと包み込む。
「……ありがとう」
優しく、ひどく切なげな顔でそう呟き——そのまま、熱を持った唇が私の唇に重なった。
雪が溶けるような、静かで、どこまでも甘くて深いキス。
その感触を受けた瞬間、私の細胞のすべてが、はっきりと一つの答えを自覚した。
(ああ……私は、この人が好きなんだ)
けれど、それと同時に冷たい現実が突き刺さる。 この人と結ばれたら、健二さんとの間に生まれたあの『遥』は消えてしまう。
ダメだ。愛してはいけない。
でも……でも! もう、この優しくて絶対的な温もりから離れられない……。
葛藤で胸を張り裂かせながら、私は微かに唇を離し、彼の胸元をぎゅっと握りしめた。
「佐藤先輩……」
「ん?」
「そのうち、私の心の整理がついたら……私の話、聞いてくれますか?」
私が抱える、狂気のような秘密と未来の罪。
佐藤先輩は何も聞かず、ただ愛おしそうに微笑んで私の髪を撫でた。
「うん。いつでも聞くよ」
その声の底知れない温かさに背中を押されるように、私はずっと胸に秘めていた決意を口にした。
「……私、S大病院の採用試験、挑戦してみます。また、あなたと同じ目標に向かってみたいから」
「うん、待ってる。ちゃんと教えてあげるから」
その夜は、ただお互いの体温を確かめ合うように抱き合ったまま、何もせず、朝まで静かに寄り添い続けた。
翌朝。
「真由子ちゃん、起床予定時刻を五分オーバーしているよ。急いで起きなさい」
パンパン、と規則正しいリズムで肩を叩かれ、私は目を覚ました。視線を上げると、そこには昨晩の切なく孤独な顔など微塵も残っていない、完全なる『人間計算機(通常運転)』の佐藤誠が立っていた。
「えっ……ちょ、佐藤先輩?」
「ほら、早く着替えて。国家試験の直前にこんなタイムロス、僕の管理下なら本来絶対に許されないんだからね。帰りの特急の中での学習スケジュールは分単位で組み直しておいたから」
「えええええ!?」
昨晩のあのエモーショナルな時間は幻だったのかと思うほどの、見事なスパダリ強制送還である。あっという間に身支度をさせられ、私は彼の車に押し込まれた。
松本駅のロータリーに車が滑り込む。発車時刻が迫っており、彼が車を降りて見送る余裕すらない。急いで助手席のドアを開けようとした私の手に、ずっしりと重い包みが押し付けられた。
「これは?」
「僕特製の『完全栄養バランス・集中力絶対向上弁当』だ。車内で食べなさい。それから……」
シートベルトを外した私に、佐藤先輩がすっと身を乗り出してきた。 理知的な眼鏡の奥でふっと甘く笑ったかと思うと、ちゅっ、と不意に唇が重なった。
「っ……!?」
車内の狭い空間での突然の出来事に、私の顔は一瞬で茹でダコのように真っ赤に染まった。驚いて声も出せない私をよそに、彼はしてやったりの顔で微笑んでいる。
「昨日は、本当に嬉しかった。国試、頑張れ。ほら、早く行かないと乗り遅れるよ」
促されるままに車を降り、駅へと走り出しながら、私は熱くなった頬を両手で持った包みで押さえた。
あの完璧に計算された不意打ちと、笑顔の破壊力たるや。
電車の中でそのお弁当(やけに私の好物ばかりが入っている)を食べながら、私は確信した。
これは絶対に、集中力が上がるだけでなく『佐藤誠のことがもっと好きになる呪い』がかけられていると。
二人の少しもどかしい遠距離恋愛は、真由子がS大病院へ入職するまで続くのだった。




