【絶対零度と、四十九歳の余裕】
二〇〇二年。
S大学医学部附属病院薬剤部のスタッフルームは、少しだけ浮ついた空気に包まれていた。
原因は、この春から入職したばかりの新人薬剤師・百瀬だ。
「先輩方、さっきのカンファレンス聞きました? 佐藤先生、教授の厳しい質問にも完璧なロジックで答えてて……もうめちゃくちゃ素敵ですよね! 彼女とかいるのかなぁ。私、狙っちゃおうかな〜」
熱っぽく語る彼女に、中堅の先輩薬剤師が呆れたように苦笑する。
「そっちの意味で? やめときなさい。あの人は『絶対零度』すぎて隙がないから。そのうち無理だってわかるわよ」
「そんなことないですよ! 浅野先輩はどう思いますか? 一昨年、指導してもらってたんですよね?」
話を振られた真由子は、ゆっくりとコーヒーカップを置き、大人の余裕をたたえた微笑みを浮かべた。
「あ、うん。とっても素敵な先輩だと思うわよ」
「ですよね〜! やっぱり素敵ですよね!」
無邪気に喜ぶ百瀬を前に、真由子は内心でそっと呟いた。
(ごめんなさい、彼はたぶんあなたのことは一ミリも見ていないと思う。……だって、先週末も夜中じゅう……)
そんな会話を少し離れた席で聞きながら、先輩薬剤師の市川はカルテの裏で一人、口角を引きつらせていた。
(佐藤先生が絶対零度……? いやいや。去年の十月、私が熱を出して急遽日直を代わってもらった時、『もう一人の日直は誰?』って聞かれて『浅野さんです』って答えた途端、あの人あからさまに声が裏返ってウキウキしてたじゃない。多分、ずっと浅野さんに片想いしてたのよね。……それに、あの後からなんとなく、二人の間の空気が甘く変わったような気がするし)
そこへ、噂の当人である佐藤誠が入ってきた。
百瀬が熱っぽい視線を送るが、誠は完全なノイズとしてスルーし、業務連絡だけを淡々と済ませる。しかし、用事を終えて部屋を出る直前——ほんの一秒だけ、真由子へ向けて甘く、それでいて重たい独占欲を孕んだ視線を送り、去っていった。
市川は閉まったドアを見つめ、心の中で名探偵のように頷いた。
(ほら、絶対零度どころかドロドロに溶けてるじゃない。……やっぱりあの二人、怪しいんだよね)
金曜日の夕方。スタッフルームにはたまたま誠と百瀬が残り、真由子は隣の調剤室で薬の最終チェックを行っていた。
「佐藤先生って、お休みの日は何をされてるんですか?」
百瀬が甘えた声で距離を詰める。
「南松本に新しいレストランができたんです。もしよかったら、今度ご一緒しませんか?」
誠は手元のカルテから一切視線を上げず、キーボードを叩く手も止めない。
「申し訳ないが、休日は研究と家での用事で忙しいんだ。他人に割くリソースはない」
(愛する真由子ちゃんと過ごすという僕の人生における最優先事項が詰まっているのだから)
「じゃあ今日とか、他の日でも! 仕事帰りにどこか行きませんか?」
食い下がる百瀬に、誠はようやく手を止め、初めて彼女へ視線を向けた。その瞳は、まさに先輩が言っていた通りの『絶対零度』だった。
「悪いが、その希望は未来永劫、叶えられない。仕事の後はラボに戻るし……それに」
誠の声の温度が、スッと下がる。
「僕には、一九九四年からずっと、他の誰も目に入らないくらい忘れられない好きな人がいる」
「し、失礼しましたっ!」
凍りついた百瀬は、逃げるようにスタッフルームを後にした。
薄い壁を隔てた隣の部屋。会話のすべてを聞いていた真由子は、伝票を握りしめたまま、自身の頬が熱くなるのを感じていた。
(一九九四年って……私が高校二年生で、初めて誠さんに会った時から、ってことだよね。『ずっと好きだった。多分、君と初めて会った時から、好きだったんだと思う』——やまびこ公園で言ってくれたあの言葉、本当に、本当だったんだ……)
その夜、誠の実家。
クイーンサイズのベッドに深く沈み込みながら、真由子がふと口を開いた。
「ねぇ、誠さん。若くて可愛い子に真っ直ぐアプローチされて、ちょっとは心が動いたりしないの?」
誠は本から顔を上げ、不思議そうな顔をした。
「……君以外に割くリソースも計算式も、僕の脳内には残っていないからね。正直、業務の妨げになるノイズは面倒でしかないよ」
「そう。私は誰もアプローチしてくる人がいないから、そういう意味では楽でいいな」
真由子がくすっと笑うと、誠は呆れたように優しく微笑み、彼女の頬に触れた。
「そりゃあね」
誠はそれ以上口には出さなかった。
(君の魅力に気づいた男が現れたら、僕がすべて合法的に、かつ完全に排除しているからね。君が知る必要のない防衛線だよ)
そのまま、誠は真由子の唇を甘く塞いだ。
後日、スタッフルームにて。
市川が、書類を探すふりをしてそっと真由子に耳打ちした。
「ねえ浅野さん、百瀬さん、まだ少し佐藤先生に未練があるみたいでウロウロしてるわよ。そろそろ一言、牽制しなくていいの?」
真由子は処方箋から目を離し、ふふっと穏やかに微笑んだ。
「え? いいんじゃないですか。若いっていいですね、真っ直ぐで」
まるで孫を見守るような慈愛に満ちたその笑顔に、市川は密かにドン引きした。
(いやいや、あの超高学歴で仕事もできるイケメンを狙われてるのに、なんでそんなにおばあちゃんみたいな余裕があるのよ。……浅野さんも佐藤先生も、いったい精神年齢いくつなの? 若い時のドロドロした嫉妬とか、この人たちには無縁なのかしら……)
「……あ、そういえば浅野さん。これ、佐藤先生から預かったよ、調剤室の鍵」
「あ、ありがとうございます、市川さん」
真由子が受け取った私物のキーケースには、小さな真鍮製の『ぐるぐると巻かれた金色のラッパ』のようなキーホルダーが揺れていた。それは誠の奏でる「魂を癒やすように包み込む音」の楽器、ホルンだ。
その日の夕方。
市川は、白衣を脱いで帰りの支度をしている佐藤誠の背中をたまたま見かけていた。
誠がポケットから取り出した上質な革のキーケース。その金具の端で、小さな黒と銀の『縦笛』のようなチャームが、スタッフルームの蛍光灯に反射してキラリと光った。
市川はそれを見つめながら、ぽつりと内心で呟く。
(……あれ? 佐藤先生のキーケースにも、何か笛みたいな飾りがついてたな。そういえば浅野さんの鍵にも、金色のラッパみたいなのがついてたっけ。……まあでも、二人とも吹奏楽団に入ってるらしいし、楽器のグッズくらい持ってて普通か)
市川の推理は、そこで止まる。
一般人である彼女の目には、それがただの「笛」と「ラッパ」にしか見えない。お互いの担当楽器である「クラリネット」と「ホルン」を、わざわざ交換して持ち歩いているという『甘い執着』が込められていることなど、知る由もないのだ。
絶対零度の氷の裏で、誰にも解読されない完璧な暗号を身につけ、今日も松本の澄んだ空気の中で二人だけの調和を響かせている佐藤誠と浅野真由子であった。
いかがでしたか?
『絶対零度と、四十九歳の余裕』。
2000年のバーではあんなに嫉妬していた真由子ですが、ここでは誠さんに愛されているという安心感と、中身が49歳だからこそ動じない余裕を書きました。
個人的には、お互いの担当楽器であるホルンとクラリネットのチャームをこっそり交換して持ち歩くという、大人二人の密かな独占欲がお気に入りです。お楽しみいただけたら幸いです。
【次回予告】
次回は二夜連続で単話のIFストーリーをお送りいたします。
◎幻奏(IFストーリー) 一九九九年 冬 【雪解けの夜と、計算外のぬくもり】
(1999年。喪中はがきを受け取った真由子が、もし積極的に動いていたら……?+おまけエピソードありです)
◎幻奏(IFストーリー〜真由子一度目の人生〜) 二〇〇九年【素直になった魔王と、優しい最適解】
(2009年。モラハラ化し始めた健二に、もし違う未来があったなら……?)
ぜひ、お楽しみください。




