【最後の講義と、交わらなかった世界】
一九九六年、夏。 S大学経済学部、大講義室。
この年に経済学部に入学し、前日に初めての前期末試験を終えたばかりの真由子は、友人たちと共にその場所にいた。
事の発端は試験の二週間前。掲示板に張り出された『経済学部の教授による特別講義』のお知らせだった。受講は必須とされ、学籍番号の下一桁で厳密に時間が割り振られていた。
担当教授の名前も記されていたが、入学したての真由子にはピンとこない。ただ上級生の噂から、どうやらマクロ経済学の権威らしい、ということだけは伝わってきていた。
指定された時間より少し早めに大講義室へ向かうと、そこはすでにたくさんの上級生たちでごった返していた。開け放たれた扉からは松本の涼やかな風が吹き込んでいるはずなのに、学生たちが発する異様な熱気で、部屋の中はむせ返るような暑さになっている。
最前列を含めた前方の席はすでに上級生たちに占拠されており、真由子たち一、二年生は熱に押されるようにして、後方の席へちょこんと腰を下ろした。
ざわめきの中、周囲の会話が断片的に耳に飛び込んでくる。 話を総合すると、その教授は一昨年の冬に学内で倒れて医学部附属病院に運ばれて以来、一度も教壇に立っていなかったらしい。
――こんな時期に、わざわざ講義を開くなんて。 これが「最後の講義」になるのではないか。そんな不吉な予測を囁き合い、顔を曇らせている学生もいた。
開始時間ぴったりに、一人の教授が登壇した。 教壇のすぐ近くには、付き添いなのだろう、スーツ姿の二十代後半くらいの青年が心配そうに控えている。
「佐藤です。一、二年の学生諸君は初めまして。三年生以上の皆さんは久しぶり。だいぶご無沙汰してしまい、申し訳ない」
マイクを通して響く声は、静かだが、深い包容力とあたたかい人柄を思わせるものだった。
佐藤教授は還暦手前。のちに真由子が共に歩むことになる彼の五十代の頃と面差しはそっくりなのだが、当然、この時の真由子にそれを知る由もない。 倒れる前を知る上級生が息を呑むほど、教授の体は痛々しいほどに痩せ細っていた。しかし、その奥にある知性を隠しきれない瞳の光だけは、決して失われてはいなかった。
「だいぶ体調が回復したので、大学側とも話し合って、この時期に講義を開くことにしました」
きっと、心から学生に慕われていたのだろう。前列の上級生たちは、一言も聞き漏らすまいと食い入るように教授を見つめている。
学者の授業は難解で独りよがりなものも多い中、佐藤教授は「教師」として学生と同じ目線に立ってくれる数少ない先生だった。語られる内容は、不思議なほどすっと頭に入ってきた。
ふと、真由子は大講義室の一番後ろ、壁際に静かに佇む一人の青年に目を止めた。
大学院生くらいだろうか。教壇の横に控えているスーツの青年と面差しがよく似ているから、きっともう一人の息子さんなのだろう。眼鏡の奥の切れ長な瞳には、冷徹なほどの知性が溢れている。
しかし、その視線は学生たちには一切向けられず、ただ、教壇で話す痩せてしまった教授の背中だけを、祈るように、そしてひどく哀しそうに見つめていた。
どこか孤独な影を纏うその青年がなんとなく気になったが、引っ込み思案の真由子は、遠くから視線を送る以上のことはできなかった。
やがて、講義は核心へと入っていく。
「現在、日本の景気は一時的な回復基調にあると言われていますが、私はこの見方に強い危機感を持っています。これからの日本は、資産価格の下落が実体経済を蝕む、深刻なデフレスパイラルに陥るでしょう。それは諸君が思っているよりも、ずっと長く続きます」
静まり返る教室に、教授の静かで重い声が響く。
「主流の経済学者は市場の回復力を信じていますが、市場には『情報の非対称性』が存在します。つまり、売り手である銀行側は都合の悪い真実を知っているが、買い手である世間はそれを知らないということです。今の金融機関が内部に隠し持っている不良債権の本当の恐ろしさに気づいている学者は、極めて少ない。遠からず、誰もが知るような大規模な金融機関の破綻が、数社にわたり立て続けに起こるはずです」
まだバブルの余韻がうっすらと残り、景気はすぐに回復すると思い込んでいる一年生の真由子たちにとって、それはあまりにも現実離れした、恐ろしい予言だった。
「それに伴い、君たちの就職環境は年を追うごとに過酷なものになると推測します。特に、女子学生の皆さん。残念ながら、能力において性別で判断されないのは、このキャンパスの中だけという特権的な事実がまだ根強く残っています。企業は不況になれば、真っ先に女性の採用枠から削るでしょう。 だからこそ、今後のキャリアを今のうちから真剣に考え、自分の一生をより充実したものにするにはどんな勉強が必要なのか、どんな『資格』や『専門性』を持たなければならないのか。……よく考えて、この学生時代を有意義に過ごしてほしい」
講義が終わると、大講義室は大きく、心のこもった温かい拍手に包まれた。 佐藤教授が降壇したあと、上級生の中には堪えきれずに涙ぐむ者もいた。一年生たちは事の重大さを完全に理解しきれないまま、それでもその荘厳な空気に当てられ、神妙に拍手を送っていた。
ふと気になり、真由子は再び後ろを振り向いた。 しかし、先ほどまであの眼鏡の青年が立っていた壁際には、もう誰もいなかった。 ただ、開け放たれた入り口のドアから、松本の夏の涼やかな風が吹き込んでくるだけだった。
このときはあんなに気になったのに、その後、彼のことは完全に忘れてしまった。
後から聞いた話によると、経済学部の大講義室は一番大きい部屋ながら全員を収容しきれないため、佐藤教授の講義は三回に分けて行われ、すべて内容は違うものだったそうだ。 学生たちはそれぞれ必死にノートを取り、友人やゼミ仲間と講義内容を共有し合った。それほどまでに慕われ、惜しまれた偉大な教授だった。
――しかし、まだ一年生で世間の恐ろしさを知らなかった真由子には、この時の教授の真意を深く理解することができなかった。
ところがその後の日本は、あの教授が予言した通り、金融機関の連鎖破綻と地獄のような就職氷河期へと突入していくことになる。 資格も専門性も持たず、ただ社会の濁流に飲まれ、トップ証券マンである傲慢な夫の庇護下で心をすり減らしていくことになる未来の真由子は、この時の講義を思い出しては、心から後悔することになるのだった。
『大学のうちに、もっと自分の将来に真剣に向き合っておけばよかった』と。
そして、あの時壁際に立っていた哀しそうな青年が、自分を狂おしいほどに愛し、救い出してくれるはずだった「運命の人」であったことなど、知る由もなかったのだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
このエピソード0.5も、エピソードゼロと同じく、誠のキャラクターを練り上げている時に裏設定として存在していたものでした。
ですが、いざ改めて文章にしてみると、書いている私自身が切なくなってしまい……「どうしても二人を救済したい!」という思いが爆発してしまいました。
というわけで、ただいまIFストーリーを執筆中です!
今回は特別に短編に挑戦し、初めて本作に触れる読者様にもお楽しみいただける内容にするつもりです。ですが、ここまで追いかけてくださった誠さんファンの皆様には、感謝を込めて先に予告させてください。
——今回のIFルートでは、健二の登場を待たず、誠さんにはさっさと理性を決壊してもらいます(笑)
……と、意気込んで書き始めたものの、これが意外と難航しまして……すみません! 本日の同時公開には間に合いませんでした。
現在、10月23日(金)22:20の公開に向けて全力で執筆しております。
前日または当日の後書き等で改めてお知らせいたしますので、最短ハッピーエンドを楽しみにお待ちくださいませ!
【次回予告】
次回は舞台を二度目の人生に戻してお届けします。
◎番外編【絶対零度と、四十九歳の余裕】
(2002年、誠さんに新人薬剤師がアプローチ!?)
お楽しみに!




