おまけ【いちご味のドロップ】
二〇〇二年、某日。
S大病院薬剤部、スタッフルーム。
仕事が終わり、帰り支度をしている先輩薬剤師が真由子に話しかける。
「浅野さんは、どうして薬剤師になったの?」
「え……色々理由はあるんですが、最近ふと思い出したことがあって」
真由子は少し照れくさそうに笑いながら、ロッカーを閉めた。
「小学校の高学年のとき、すごく嫌なことがあって泣きながら家に帰ったんです。そうしたら母が『心が軽くなるくすりよ』って言って、いちご味のドロップ飴を三個くれたんですよね」
「へえ、優しいお母さん」
「もったいなくて、『こころ』の近くの胸ポケットに入れて遊びに出かけたんです。そしたら、公園のベンチで、高校生くらいの優しそうなお兄さんが泣きそうな顔をして座ってて。……なんだか放っておけなくて、そのお兄さんに『心が軽くなるくすりです』って、ドロップを一つあげたんです」
「えー! すごい行動力!」
「そうしたら、そのお兄さん、すごく嬉しそうな目をして『ありがとう』って言ってくれて。……それがなんだか私も嬉しくて。その時から、漠然と『薬剤師もいいな』って思い始めたんですよね」
「えー、何それかわいいね〜!」
「でしょう?」
二人で笑い合って盛り上がっている横で。
大学院の研究に向かう前、デスクで書類の決裁をしていた誠のペンの動きが、ピタリと止まっていた。
その瞳は、信じられないものを見るかのように見開かれ、やがて、静かに底知れぬ熱を帯びた鋭い光へと変わっていく。
「……浅野さん」
不意に低く通る声で呼ばれ、真由子は肩を揺らした。
「はい。佐藤先生」
「君が先ほど確認してくれた薬品庫内の在庫データについて、少し確認したいことがある。帰りがけに悪いが、付き合ってくれるかな」
「あ……わかりました。すみません、私の書き方、わかりづらかったですか?」
「いや、そんなことはないんだが……どうしても、今すぐ確認しておきたい」
「わかりました」
真由子は慌ててカバンをロッカーに戻し、誠の後を追って薬品庫へと向かった。
ガチャリ、と分厚い扉が閉まり、二人は薬品の匂いが漂う薄暗い密室に閉じ込められる。
「あの、佐藤先生、確認したいデータというのは……っ!?」
言葉を言い終わるより早く、真由子の体は、強い力で引き寄せられていた。
薬品庫に入った途端、誠が理性を手放したように、真由子をその腕の中にきつく抱きしめたのだ。白衣越しに、彼の体が微かに震えているのが伝わってくる。
「誠さん……? どうしたの、急に」
驚いて見上げる真由子の耳元で、誠は息を吐き出すように低く囁いた。
「……いや。少しだけ、抱きしめたくなってね」
ギュッと、さらに腕の力が強くなる。
「……ありがとう」
その一言に、どれほどの年月と、どれほどの救済の想いが込められているのか。
真由子は知る由もなかったが、誠のその不器用で温かい腕の力に、そっと自分の腕を背中に回して応えた。
滝丸です。
『エピソードゼロ』、最後までお付き合いいただきありがとうございました!
実はこのお話、本編の大まかなプロットを作り、誠というキャラクターを練り上げていくかなり初期の段階から、裏設定として存在していました。
本編を執筆する中で、「健二が誠を救った」という過去の絆を描かなければ、どうしても二人の関係性が浮いてしまうと感じ、どう言う形で表現しようか非常に悩みました。本編に組み込もうかとも散々迷ったのですが、結局、番外編のひとつという形にし、本編に事前告知を行うことでより多くの読者様に読んでいただけるようにしました。
少し吹奏楽のマニアックな話をさせていただきますと……このエピソードゼロを書くと決める前から——いえ、誠をヒーローに据え、二人が中高の同級生で親友と設定したときから、二人が輝く曲として、中学のコンクールは『春の猟犬』、高校の定期演奏会は『エル・カミーノ・レアル』、そして高校のコンクールは『ガイーヌ(剣の舞・収穫祭)』と決めていました。
本編の後書きでも触れましたが、『ガイーヌ』は時代考証の結果、ちょうどその年に該当の吹奏楽版が初演だったため泣く泣く諦めることに。それでも、才能があり努力も厭わない二人が最高に輝ける曲をあれこれと考えるのは、とても楽しい時間でした!
さて、話を少し軌道修正しますと。
本作で私が一番書きたかったのは、「あの最悪のモラハラ夫である健二が、本来はこんなにも熱い男だった」ということです。
真由子への愛が強すぎるあまり、幼稚な自己愛と執着へと歪んでいってしまった健二。本編で彼が真由子にしたことは決して許されることではありませんが、彼にも親友を救う素晴らしい人間だった過去があることを描きたかったのです。
生まれた時から100%の悪人なんていない、と私は思っています。
ただ——健二がモラハラ夫にならなければ、真由子がタイムリープをすることもなく、誠が再起動して運命を完璧に上書きすること、つまり「誠の人生が最高の形になること」もなかったということになります。
『シンクロニシティ』の深い裏側の物語、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
【次回予告】
次回は、シークレットトラック、
シンクロニシティ・エピソード0.5〜真由子一度目の人生〜 一九九六年 【最後の講義と、交わらなかった世界】
をお送りいたします。
本編の始まるずっと前、真由子が経済学部に入学した年の夏のお話です。
どうぞお楽しみに!




