第二十五話「長い旅の終わり、始まりのコーヒー」1
第一章 聖地のパンと葡萄酒
ノクタルニアでの決戦を終えた翌朝。霧が晴れ渡り、珍しく澄んだ青空が広がる山岳地帯の麓。 そこに、一台の無骨な鉄塊が停まっていた。
『鉄の馬車・マークIII』。
H.L.O.H.(聖槍異端監察庁)から奪取した大型軍用輸送車をベースに、鉄鏡花が虹海のジャンクパーツとアストエルの技術、そして執念を注ぎ込んで改造した移動要塞だ。塗装は剥げ落ち、装甲板には無数の爪痕や弾痕が刻まれているが、そのエンジン音は猛獣の寝息のように深く、力強く響いている。
「……で? どっちに行くんだ、リーダー」
運転席に座るチャーリー・Sが、サングラス越しにバックミラーを見た。助手席には鏡花が座り、システムの最終チェックを行っている。後部の荷台スペースには、久遠灯をはじめとするリコリス・バロックのメンバーが乗り込んでいた。
灯は、開け放たれた後部ハッチの縁に腰掛け、吸い終わった「わかば」のフィルターを指先で弄んでいた。帰るべき家――東帝都は、遥か東の彼方にある。 常識的に考えれば、ハンドルを東へ切るべきだ。
だが、灯は反対方向である西の空を指差した。
「アストエルだ」
灯の声には、迷いはなかった。
「……借りっぱなしじゃ、寝覚めが悪いからな。車の礼も言わなきゃならねえし、あっちに忘れ物もある」
「へっ。律儀なこった」
チャーリーはニヤリと笑い、シフトレバーを叩き込んだ。
「魔女ってのは、もっと気まぐれで薄情な生き物だと思ってたぜ」
「うるせえよ。……亀は黙って運転しろ」
「特急で飛ばすぜ!」
アクセルが踏み込まれる。巨大なタイヤが泥を噛み、砂利を蹴立てて車体が躍り出た。 車は東ではなく、西へ。 一度来た道を逆走し、聖地を目指してひた走る。
車内は、戦いの後の独特な気だるさと、安堵感に包まれていた。
「……あー、揺れるなぁ」
辰巳響が、長椅子に寝転がりながら呻く。彼女の腹の上には、空になったスナック菓子の袋が乗っている。 真祖ヴィクトルとの戦い、そしてレオンハルトとの激闘。神としての力を使い果たした彼女は、今はただの腹ペコな女子高生に戻っていた。
「文句言わないの。……寝てれば着くわよ」
白雪美流愛が、響の足元に座り、自身の髪を梳かしている。 彼女の純白のドレスはボロボロで、血と泥のシミが落ちない。 だが、その横顔は晴れやかだった。 1000年の呪縛から解き放たれた灯を見て、彼女自身もまた、何か重い荷物を下ろしたような表情をしていた。
「お姉様、お髪が乱れております。整えさせてください」
「お肌のケアも必要です! ノクタルニアの乾燥は美容の大敵!」
双子の亞莉愛と華琉愛が、甲斐甲斐しく美流愛の世話を焼く。 この騒がしさこそが、リコリス・バロックの日常だ。
「……灯さん」
天羽祈が、灯の隣に座った。 彼女は、自分の膝の上で組んだ手を見つめている。 その手は、魔天子として覚醒した時の禍々しい爪ではなく、小さく、温かい少女の手だった。
「……本当に、終わったんですね」
「ああ。終わったよ」
灯は、祈の頭に手を置いた。 クシャクシャと撫でる。
「もう、誰も『鍵』だなんて言わねえ。……お前は、ただの祈だ」
「……はい」
祈が、はにかむように笑った。 窓の外を流れる荒野の景色。 かつては絶望と共に眺めたその風景が、今は希望への道程に見えた。
数日後。 『鉄の馬車』は、再び聖地アストエルの城門をくぐった。
かつてハルマゲドンの戦場となり、神と悪魔の激突によって半壊した街は、驚異的な速度で復興を遂げていた。崩れ落ちた城壁の瓦礫は撤去され、代わりに仮設のテント市場が並び、活気に満ちている。 そこには、人間も亜人も区別なく、共に汗を流し、資材を運び、笑い合う姿があった。天使の威光も、悪魔の恐怖もない。ただ、明日を生きようとする人々の熱気だけがある。
「……すげぇな。人間ってのは、しぶといぜ」
灯が感嘆の声を漏らす。 広場の一角に車を停め、彼女たちは降り立った。
「お待ちしておりました」
瓦礫の山の向こうから、穏やかな声が響いた。黒い修道服を纏い、両目を包帯で覆った女性。 シスター・ノアだ。 彼女は盲目でありながら、確かな足取りでこちらへ歩み寄ってくる。
そして、その隣には、大男がいた。かつては白銀の法衣と漆黒のコートを纏い、最強の処刑人として恐れられた男。 ルシウス・クロウリー。
だが、今の彼は法衣を脱ぎ捨て、泥だらけの作業着に身を包んでいた。背中に背負っていた巨大な対魔兵装『ゴルゴダ』の十字架は、今は武器としてではなく、巨大な石材を持ち上げるためのクレーン代わりに使われている。
「……わざわざ戻ってくるとはな。物好きな魔女たちだ」
ルシウスは、汗を袖で拭いながら呆れたように言った。だが、その表情は穏やかで、かつての刺々しい殺気は消え失せていた。
「車を返しに来ただけだ。……借りパクする趣味はねえんでな」
灯が『マークIII』のボディをバンと叩く。 虹海のジャンクパーツで魔改造され、対人外兵器が増設され、原型を留めないほど変貌した車両を見て、ルシウスは苦笑した。
「……これを『返す』と言うのか? 私には、新種の攻城兵器にしか見えんが」
「あ? 性能は上がってるぞ。感謝しろよ」
「鏡花式チューニングだ。出力は300%向上している」
助手席から降りてきた鏡花が、胸を張る。 ルシウスは、やれやれと首を振った。
「いい。……これはもう、私の管轄外だ。持って行け」
彼は、十字架を地面に置いた。ズン、と重い音が響く。
「餞別だ。……東までの道のりは長い。足が無くては困るだろう」
「へっ。ありがとよ、神父様」
灯はニヤリと笑った。
「神父ではない。……今はただの、瓦礫運びだ」
ルシウスは、再建中の大聖堂を見上げた。 そこにはもう、狂信的な枢機卿も、冷酷な天使王もいない。ただ、祈りを捧げる場所としての教会が、人々の手によって再び築かれようとしていた。
「……祈さん」
ノアが、祈の手を取った。 その手は優しく、温かかった。
「本当に行ってしまうのですか? ……貴女はこの街を救った英雄です。ここに残れば、平穏な暮らしが約束されています」
ノアの言葉には、心からの親愛と、少しの寂しさが込められていた。聖女として崇められ、守られ、愛される日々。 それは、かつて孤独だった祈が、喉から手が出るほど欲していた「居場所」の提示だった。
「皆、貴女に感謝しています。……貴女の銅像を建てようという話も出ているくらいですよ」
「ど、銅像!?」
祈が目を丸くする。 響が横から茶々を入れる。
「いいじゃん、祈。一生食いっぱぐれねぇぞ?」
「お姉様の銅像なら、私たちが毎日磨き上げますわ!」
だが、祈は首を横に振った。 迷いのない、きっぱりとした動作で。
「……ありがとうございます、ノア様。そのお気持ちだけで、十分です」
祈は、ノアの手を握り返した。
「でも、私……帰らなきゃいけないんです」
「帰る? ……あの、泥だらけの東の国へですか?」
「はい」
祈は、真剣な眼差しで言った。 そのオッドアイには、聖女の慈愛ではなく、一人の「店長」としての責任感が宿っていた。
「あっちには……私の命の水があるんです」
「命の水……? 聖水のことですか?」
ノアが首を傾げる。 祈は、うっとりとした表情で、遠い東の空を思い浮かべた。
「いいえ。……『ストロングゼロ』です」
「……はい?」
「ダブルレモン味の、ロング缶です。……あれがないと、私、干からびて死んじゃいますから」
ノアは目を丸くし、口をぽかんと開けた。 ルシウスが、堪えきれずに吹き出した。
「ブッ……! ククッ、ハハハハハ!」
最強のエクソシストが、腹を抱えて笑っている。 聖女の口から出るには、あまりに俗っぽく、不健康で、そして人間臭い理由。 それが、この少女の本質なのだ。
「……そうか。それは重要だな。生命維持に関わる」
ルシウスは涙を拭い、笑い収めた。その顔は、憑き物が落ちたように清々しかった。
「わかった。……引き止めはしない」
ルシウスは、灯に向かって拳を突き出した。
「行け、魔女たちよ。……だが、二度とここを戦場にするなよ。次に来るときは、観光客として来い」
「ああ。……神に祈っときな」
灯もまた、拳を突き出した。ゴツゴツとした男の拳と、華奢だが力強い女の拳。二つの拳が、軽くぶつかり合った。
コツン。
それは、敵対者から友人へと変わった、確かな証だった。 血塗られた因縁も、立場の違いも超えて。ただ「同じ地獄を生き抜いた」という一点で結ばれた、奇妙な友情。
「……達者でな、ルシウス。ノア」
「貴女たちも。……神のご加護を」
灯たちは、再び『鉄の馬車』に乗り込んだ。 エンジンがかかる。マフラーから黒煙が上がり、車体が震える。
「出発進行!」
チャーリーがハンドルを切る。装甲車は、大きくUターンし、東へと向かう街道を走り出した。
バックミラーの中で、ルシウスとノアが手を振っているのが見えた。 遠ざかる聖地アストエル。 そこはもう、死の街ではない。再生と希望の街として、歴史を刻み始めていた。
灯は、窓から入ってくる風を吸い込んだ。 乾いた土の匂いと、微かな花の香り。
「……さて」
灯は、シートに深く身を沈めた。
「長い帰り道の始まりだ」
西の果てから、東の果てへ。 大陸を横断する、数千キロの旅路。だが、行きのような悲壮感はない。 帰るべき場所があり、待っている日常がある。 それだけで、旅はこんなにも楽しいものになる。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




