第十九話「当主の戯れ」3
第三章 泥の中の炎
レオンハルトが霧の彼方へと消えた後、森には再び重苦しい静寂が舞い戻っていた。風が止み、虫の音さえ絶えた真夜中の森。残されたのは、圧倒的な暴力の爪痕と、地に伏した敗北者たちだけだった。
久遠灯は、冷たい泥の中で拳を握りしめていた。爪が皮膚を突き破り、滲んだ血が泥と混ざり合う。 だが、その痛みすら感じないほど、彼女の心は悔しさで煮え滾っていた。
無力感。1000年の時を生き、幾多の修羅場をくぐり抜け、仲間を得て、強くなったつもりでいた。神も悪魔も退けてきたという自負があった。 だが、あの男の背中は、まだ遥か彼方にある。指一本、触れることすらできなかった。
「……クソッ」
灯が、呻くように吐き捨てる。 その声に呼応するように、周囲で倒れていた仲間たちが身じろぎをした。
「……あり得ないわ」
白雪美流愛が、切断されたワイヤーの残骸を呆然と見つめていた。 彼女の絶対的な武器。どんな硬度を持つ装甲さえも切り裂いてきた鋼鉄の糸が、たった一人の男の「視線」と「指先」だけで、蜘蛛の巣のように払いのけられたのだ。 ドレスは汚れ、肌には擦過傷が走っているが、それ以上にプライドが切り裂かれていた。
「お姉様の攻撃が……通じないなんて……」
「あの男……化け物です……」
双子のアリアとカルアが、震えながら身を寄せ合う。 殺戮人形として育てられた彼女たちの本能が、生物としての格の違いを痛感し、恐怖している。
「計測不能。……数値が、桁あふれを起こしている」
鉄鏡花が、明滅する義眼を押さえていた。ガトリングガンを掃射したはずの弾丸は、すべて空間歪曲によって弾かれ、自身の足元に転がっている。科学の理屈が通じない相手。 論理の及ばない、絶対的な「個」の暴力。
「……アタシの雷もだ」
辰巳響が、焦げた地面を殴りつけた。 龍神としての全力を込めた雷撃。 それを、あいつは「眩しい」とでも言うように、手で払いのけた。神の力さえも、吸血鬼の前では子供の火遊びに過ぎないのか。
「大丈夫ですか……皆さん……」
天羽祈が、杖を支えにして立ち上がり、治癒魔法をかけようとする。 だが、彼女の手も震えていた。かつて対峙した天使王や魔王とは違う。 あの男からは、底知れない「虚無」と、そして灯さんと同じ「哀しみ」の匂いがしたからだ。
「……やれやれ。とんだバケモノがお出ましだな」
運転席から様子を窺っていたチャーリー・Sが、サングラスを外してため息をついた。 彼は車から降り、灯のそばに歩み寄った。
「俺も還暦過ぎたジジイ(数千歳)だがよ……。あいつは年季が違う。存在の『密度』が桁違いだ。……ありゃあ、神とか悪魔とかいうカテゴリじゃねぇ。歩く災厄だぜ」
大陸を守護する四神の一角である彼でさえ、レオンハルトの底知れなさには舌を巻いていた。勝てない。今の戦力では、束になっても、あいつの暇つぶし相手にもならない。その冷徹な事実が、重い霧のように一行を包み込む。
「……灯さん」
その時、怯えたような声がした。エミル・ノスフェラトゥだった。 彼は、輸送車の荷台から這い出し、おずおずと灯に近づいてきた。 その瞳には、兄に無視された悲しみよりも、灯が傷ついたことへの心配と、同じ「弱き者」としての共感が揺れている。
「……勝てません。兄さんは、強すぎます」
エミルの言葉は、残酷なまでの真実だった。レオンハルトは、吸血鬼という種の頂点に立つ存在。 対して灯は、彼に作られた眷属に過ぎない。 その格差は、努力や覚悟だけで埋められるものではない。 血の濃さ。過ごした時間。積み上げた罪の数。 すべてにおいて、次元が違う。
「……ああ。わかってるよ」
灯は、泥にまみれた手を膝につき、ふらつく足で立ち上がった。ボロボロのコートが夜風に揺れる。 彼女は血に濡れた顔を上げ、月を見上げた。 その瞳は、絶望には染まっていなかった。 むしろ、飢えた獣のようにギラギラと輝き始めている。
「強えな。……腹が立つくらい、完璧だ」
灯は、口の中に溜まった血を吐き捨てた。
「だが、殺す。……絶対にだ」
敗北を知り、己の未熟さを知り、それでもなお牙を研ぐ獣の瞳。 諦めという言葉は、彼女の辞書にはない。1000年前、死ぬことさえ許されなかったあの日から、彼女はずっと「生」に執着し続けてきたのだから。
「……灯さん」
エミルは息を呑んだ。 この人は、折れていない。絶対的な力の差を見せつけられてなお、その闘志は消えるどころか、より激しく燃え上がっている。自分とは違う。 捨てられ、諦め、森の陰で震えていた自分とは違う。 この人は、運命に噛みつこうとしている。
「……なら」
エミルは、意を決したように口を開いた。 その声は震えていたが、確かな熱を帯びていた。
「方法なら……あります」
「なに?」
灯が視線を向ける。 美流愛たちも、エミルに注目する。
「真祖ヴィクトル様の血です。……兄さんたちさえ凌駕する、原初の血」
エミルは、闇の向こう、断崖の上にそびえる城の方角を指差した。黒い尖塔が、月を突き刺すように立っている。
「あの方の血には、吸血鬼の全ての力の源泉が宿っています。……もし、貴女がその血を取り込み、器が耐えきることができれば……レオンハルト兄さんを超える力を得られるかもしれません」
「真祖の……血……?」
祈が不安げに呟く。
「でも、それって……大丈夫なんですか?」
「……賭けになります」
エミルは、俯きながら答えた。
「真祖の血は、眷属にとっては劇薬です。……適合しなければ、細胞レベルで崩壊し、魂ごと消滅します。生存確率は……限りなくゼロに近い」
禁断の秘術。 それは、強大な力を得るための唯一の希望であり、同時に破滅への片道切符でもあった。 即死の猛毒が入った杯を、自ら飲み干すようなものだ。
「やめなさい、灯!」
美流愛が叫んだ。 彼女は灯の胸倉を掴み、必死の形相で詰め寄る。
「死ぬわよ!? あんた、さっき言ったじゃない! 『借りなんて作らねえ』って! ここで死んだら、誰が私に不味いコーヒーを淹れるのよ!」
「そうだぞ、灯!」
響も駆け寄る。
「アタシらは、一緒に生きて帰るんだろ!? なのに、なんで一人で死ぬような真似……!」
鏡花も、冷静さを欠いた声で告げる。
「非合理的だ。……成功率0.001%未満の賭けになど、乗るべきではない。別の手段を模索すべきだ」
仲間たちの声。 心配、怒り、そして愛情。 それが、灯の心に温かく染み渡る。 だが、だからこそ。
「……悪いな」
灯は、美流愛の手を優しく解いた。
「このままじゃ、勝てねえんだよ」
灯は、レオンハルトが消えた闇を見つめた。あの男は、遊び半分で私たちを殺せる。 今は見逃されただけだ。次に会う時、もし私が成長していなければ、彼は容赦なく私の「家族」を壊すだろう。 退屈しのぎに、玩具を壊すように。
「あいつは、私の『親』だ。……私の運命をねじ曲げた元凶だ」
灯は、自分の胸――動かない心臓がある場所を強く叩いた。
「この落とし前は、私がつけなきゃならねえ。……そのためなら、悪魔の血だろうが、真祖の毒だろうが、飲み干してやる」
灯は、ニヤリと笑った。 凶悪なまでに、楽しげに。
「上等だ。……毒を食らうのは得意でね」
「灯……」
美流愛が言葉を失う。 止められないことを悟ったのだ。 この吸血鬼は、一度決めたらテコでも動かない。
「……わかったわよ」
美流愛は、深いため息をついた。
「その代わり、死んだら許さないから。……地獄の底まで追いかけて、ファンサしてやるんだから」
「へっ。そいつは怖えな」
灯はエミルに向き直った。
「案内しろ、エミル。……親父殿に、酒盛り(血の盃)を申し込みに行くぞ」
「は、はい……!」
エミルが頷く。彼もまた、灯の覚悟に感化され、その瞳に微かな勇気を宿していた。
霧の向こうで、ノスフェラトゥ城が、挑戦者を待ち受けるように黒く聳え立っていた。 その頂で眠る王は、新たな来訪者を歓迎するのか、それとも拒絶するのか。
「行くぞ、野郎ども。……最後のダンジョン攻略だ」
灯が歩き出す。 より深く、より暗いニルヴァーナの底へ。7人の魔女と、一人の落ちこぼれ吸血鬼、そして一匹の老いた神獣。奇妙な一行は、死の匂いが充満する古城へと足を踏み入れた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




