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アトンメント・プロジェクト~後編

 意識が途切れた事を自覚した。それは瞬きに近い、ほんの一瞬の黒い世界。


 目を開けると、世界は白く染まっていた。地平線にまで続くような永遠の白。けれど手を伸ばせば壁に触れてしまいそうな、そういう不確かな世界。


 死んだのかと思った。ここが地獄なのだとしでも納得はいく。あれほどの猛攻を喰らって、最後には雛子の攻撃が命中したのだ。生きているほうが不自然だろう。万が一あれで生きていたとしても、気を失っている内に雛子か智樹から追撃されて終わりだ。


 けれど、どうやらここは、まだ地獄では無いようだ。辺りを見回そうと振り向いた先に、この世のものとは思えないほど美しい女性が立っていた。


 不死の神、プシュケ。僕の一時的な命を与え、代償に破綻したプロジェクトの片棒を担がせた張本人。


「嫌な役目を背負わせてしまいましたね」


 と、プシュケは微笑む。苦笑にも近い、それでも、感情の読みにくい声音だった。


「このエロス&プシュケ・プロジェクトが真実の愛となる事は、難しいと解っていました。いつか、それであなたの心が折れる日が来る事も、解っていました」


 真っ直ぐな立ち姿。下腹部の辺りで重ねられた掌の形。作りこまれたような笑み。その全てが美しくて、どこか白々しいプシュケ。


「プロジェクトが滞れば貴方も死ぬ。それも残酷な話ですが、これは仕方ないのです。貴方は既に死んでいるはずの人間。私は不死の神ではありますが、人を不死身にする事が出来るわけではないのです。貴方は今、愛の力で生きています。貴方のプロジェクトで生まれた愛の一部を貴方が吸収する事で、生き長らえているのです。だから、プロジェクトを辞めた貴方の死を止める事は、申し訳ないですが、私には出来ないのです」


 彼女は何も答えない僕に対して、語りを続けた。


「ユリア・マリアベルさんがアプロディテ様の遣いだった事も見抜けませんでした。やはりお義母様は、私よりもずっと上手うわてですね」


 ふ、っと伏せられる視線。私と旦那が結婚しようとしている時は、もっと露骨に邪魔してきたんですよ、と、彼女はすぐに笑みを作ってみせた。


「アプロディテ様は私の事を心底嫌っているようなので、いつか邪魔は入るだろうなとは思っていたのです。警戒していたのに見抜けなかったのは、ひとえにユリア・マリアベルさんとアプロディテ様が直接会ったわけでは無かったためでしょう」


「直接会わずに指令を出して、力を与えたという事?」


 ようやく口を開くと、プシュケは頷いた。


「ユリア・マリアベルさんの家系は代々、広義の神を崇めてくださっておりました。日課として神へ祈りを捧げているユリア・マリアベルさんに、アプロディテ様は神の導きとして、囁いたのでしょう。信仰心の強かったユリア・マリアベルさんはその声に導かれるまま従った。ユリア・マリアベルさんは殆ど操り人形のようになっていたという事です。だから、私は彼女の本質を見抜けなかったのでしょう」


 言い訳がましいなぁ、と思った。けれど、言い訳をするのも仕方の無い事だ。一応僕はこれでも、プシュケやエロスの唯一の直接的な手駒だった。その手駒にろくな支援も出来ずに、プロジェクトが終わったのだから。


「悪い事をしたなとは思っております。けれど、このエロス&プシュケ・プロジェクトは、今の世界には必要だと思ったのです」


 綺麗な立ち姿のまま、笑みを消し去り、真剣な表情で顔を上げるプシュケ。


「世界から愛が枯渇している。それは大袈裟な表現ではありません。運命の相手と出会うためには、自分を押し殺し、何かを犠牲にし、自分は何かを我慢して相手を思いやって、その代償として相手からも愛される。そんな関係にならなければいけない」


 思いつめたような口調で彼女は続ける。


「ありのままの自分の全てを受け入れてくれる。そんな都合の良い異性などこの世には居ない。そういう相手と出会うのは創作の物語の中だけで、現実はそうではない。どこかしらで妥協をしなければならない。それが現実だという考えが、今の世界に増えてきています。定着し、常識となり、諦めるのではなくそれが自然な事なのだと勘違いしてしまっている方に溢れているのです」


 立ち姿を解き、プシュケは胸に手を当て、一歩近付いてくる。


「世界中のどこかで、時間軸のいつかで時折発生する、結婚の不自由が世界中から殆ど淘汰されました。結婚相手を周りに決められる事が無くなった今が好機なのです。真実の愛の素晴らしさを甘んじて享受する事が出来るのは今だけなのかもしれないのです。だというのに、人々の多くは妥協してしまっている」


 さらに一歩、プシュケは僕に近付く。もう一歩、もう一歩と、言葉を紡ぎながら距離が縮まっていく。


「離婚する事は仕方がない? そんなはずがありません。初恋の相手とは結婚には至れない? そんな道理はありません。結ばれてはいけない関係もある? そんなものはありえません。伸ばしても手の届かない相手も居る? そんな壁はどこにも存在しえません。アプロディテ様の妨害で森羅万象を敵に回してなおもエロスと結ばれる事の出来た私が言うのですから、間違いありません」


 それは奇麗事だ。と、きっと誰しもが思うだろう。そうであったら世界は美しいけれど、この世界は決して美しくないから、そうではないのだと。そう思う人間も少なくないはずだ。


「それを証明するために施行したのが、エロス&プシュケ・プロジェクトでした」


 僕とプシュケの距離は目と鼻の先だ。しかし、その声がやけに遠く感じた。


「作り物の感情は、真実とは言えないと思う」


 僕が答えると、プシュケは凍りつくように止まった。


 そして数秒黙って、一歩身を引く。


「エロスの矢の力を、神の導きとは思ってくれないのですか?」


 その問いに、僕は首を横に振る。


「導いているのが僕だと考えると、そうは思えない。僕は、ただの人間だからね」


 異能の力を使いこなそうと、例えば好きになる人がちょっと病んでる子であっても、僕はしがないただの一般人だ。そんな僕に、神の代弁は勤まらない。


「死ぬおつもりですか」


 その問いには、答えなかった。


「このプロジェクトを、続けてはくれないのですか」


 その問いにも、僕は答えない。答えられなかったのだ。


 死ぬつもりです。プロジェクトは辞めます。そう言う事に、今更ながら抵抗を感じた。


 だから、見当違いの返答をした。


「そもそも、僕はもう死ぬよ。雛子と智樹との戦いに敗れて、撤退も出来ない状態だ。目が覚めたら、そこは地獄さ。それが現実だよ」


 生きたいか死にたいかの話ではない。僕は死んだのだ。そこに選択肢は無い。もう一度戦う事は、もう出来ない。


 僕は負けたのだ。負けた僕は死ぬ。雛子はかなりの確率で後を追ってくるだろう。そして智樹が残されて、僕という親友と好きな人が同時に死んだ事に失意する。


 そんなのは嫌だ。けれど止められない。止められなかった。僕に出来る事は、雛子の後追い自殺を誰かが必死こいて止めてくれるように祈るだけ。これが現実だ。敗者の宿命だ。


「……解りました」


 プシュケはさらに僕から遠ざかり、そして最初と同じ立ち姿をした。


「もうこの場で問う事はやめます。代わりにお願いです」


 言葉と共に、視界が揺れた。


 じわじわと、全身に痛みが走る。


「っつ!?」


 あまりの痛さに膝を着く。


 寒い。


 そう感じるほどの感覚は徐々に大きくなっていった。


「現実を語るのは、現実を見てからにして下さい」


 そんなプシュケの嫌味と共に、白の世界が輝いた。若干の黒味を帯びた事で、世界は銀へと姿を変える。


 柔らかい感触が頬を撫でた。無数の糸細工が優しく触れている。そんな感触。


 匂いがした。爽やかで、少し甘い、シャンプーのような香りだ。


 銀の世界に隙間が生じた。ひとつまたひとつと隙間は増える。


 いつの間にかプシュケは消えていた。白の世界は原型を無くしている。いや、ここはもう既に白の世界ではないと、おぼろげながらも思った。


 髪だ。


 視界を覆うほどの距離に、銀色の髪があった。さらさらと揺れている。それが揺れるたびに僕の身体も刺激されて、激しい痛みに襲われた。


「づぅっ!」


 あまりの苦痛に悶えて身を捩ろうとしたけれど、身体が動かなかった。どうやら何かと密着しているらしい。


「目が、覚めたか」


 すぐ近くから声がした。耳元で囁かれたかのような距離だ。


「……ユリ、ア……?」


 そこまで来てようやく、今、ユリアが僕をおぶって走っているのだと気付く。


 視線を動かして周りを見る。そこは確かに、僕が作り出した絵画世界だった。


「どう、して……」


 どうして僕がまだ生きているのか。そしてどうしてユリアが僕を背負っているのか。解らない。


 ユリアは答えた。


「すまないが、横入りさせて貰った。今は、あの心達から逃げている最中だ」


 息を切らしながら答えるユリア。そこでようやく、助けられたのだと自覚出来た。


「どう、して」


 ならばどうして、ユリアが僕を助けるのか。それも解らない。


「さぁな」


 簡単に答えて、ユリアは止まった。


「逃げ切ったか」


 呟いて、ユリアは僕を降ろす。


「確実に致命傷だな。早く元の世界に戻れ。さもなくば失血で死ぬぞ」


 確かに、頭がぼーっとしている。視界も暗いし、さっきまで激しかった痛みも着々と薄れていく。


 仰向けに倒れた僕の横に、ユリアは腰を降ろした。


「早くしろ」


 世界を元に戻せと急かすユリア。けれど僕はそれに従わなかった。


「僕は、負けたんだね」


「ああ、惨敗だった」


 冷徹に、故に冷静に事実を述べるユリア。


「だが、惜しかった」


 惨敗であり惜しかった。ユリアの言ったその矛盾の真意を、僕は自分では見抜けなかった。


 ただ、負けた。


 その事実が、この上なく悔しくって、やるせなかった。


「ち、たかった……」


 呟くと、全身は寒いのに、目頭が熱くなる。


「ああ、勝ちたかったなぁ……」


 それは震えた声だった。多分、怪我のせいでちゃんと声が出ないのだろう。


「なら、また挑めばいいだろう」


 簡単そうにユリアは言った。


「強くなって、また挑めばいい。それまでプロジェクトを続けて、生き長らえればいいんじゃないのか」


 ユリアは僕をからかっているのだろうか。さっきまで、あのプロジェクトを散々けなしていたというのに。僕が目を逸らしてきた事実を叩きつけて来たくせに。どうして今更、そんな事を言うのだろうか。


「確かに作り物の愛を蔓延らせる事を美しいとは思わない。だが、貴様のさっきの戦いは、どこか美しいと思えた。おそらく、貴様があの二人の事を本気で考えていたからだ。貴様が真摯に相手を思いやり、死力を尽くしていたからだ」


 だから。と、ユリアは続ける。


「その力を本気で必要としている者と本気で向き合って、そしてどういう形に収まる事が良いのかを本気で考えて、本気で迷って戦ってやれば良いんじゃないのか。誰に言って聞かせても美談となるような、そういう本気の恋物語にしてやれば、私も、そして貴様自身も、納得出来るだろう」


 その通りだと思う。それが理想だと思う。


 でも。


「……難しいよ。僕には、その人が何を求めているのかを、本当の意味で知る事は出来ない。それなのにちゃんと、その人が求めているものを見極めて、毎回毎回命を賭けて戦うなんて、きっと難しい。僕には、僕が思う理想と、理屈的な結末に収める事しか出来ない」


 今までがそうだった。そうやって全ての恋愛を定型に当てはめて、それに従って、流れ作業みたいに淡々とプロジェクトをこなしてきた。それがいっぱいいっぱいだったのだ。


「難しい事は解っている。ノルマもあると貴様も言っていたしな。だが貴様は、効率化を計って生徒会長にまでなって、さらに私という協力者を得た。一人一人とちゃんと向き合う程度の余裕は生じるだろう」


 当たり前のように紡がれたユリアの言葉に、僕は思考は一瞬止まりかけた。


「協力、してくれるの……?」


「しても良いと思えた」


 即答するユリアに、僕は問いを重ねる。


「でも、それだとユリアは、アプロディテを裏切る事になるよ」


 ユリアは「くどい」と悪態を吐いて頭を掻いた。


「私はアプロディテ様の操り人形ではない。今までは私の意志をもって従っていたが、これからは私の意志をもって逆らおう。アプロディテ様の加護は受けられなくなるだろうが、構わん」


 それに、と、ユリアは一拍置いて、頭を掻いていた手を、僕の額に乗せた。


「頼まれたからな。貴様があの二人とちゃんと決着を付けられるその時まで、見届ける事にするよ」


 乗せられた掌は火傷しそうなくらいに熱くって、だから少しだけ心地よかった。


「……出来るだろうか。今まで散々、偽物の愛を、流れ作業で作り上げてきた僕に。自分の感情を押し殺してきた僕に、今更」


 吐息と共に零す弱音。涙だけは流すまいと必至に堪える。


「それは貴様次第だろう」


 ふ、っと、ユリアは微笑む。


「まずは、このプロジェクトを流れ作業だと言うのを辞めるところから始めたらどうだ?」


 それに僕がなんと答えたのか解らない。少なくとも何かを言ったはずなのに、その言葉を自覚するよりも先に、世界が色を変えた。

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