第七話 解き放たれる心
辺境伯領の朝は早い。アンジェリカは辺境伯家の屋敷にまで響いてくる鍛錬の掛け声で目を覚ました。
(ああ、懐かしい)
ベッドから下りて、窓の外をレースのカーテン越しに眺める。兵士たちが鍛錬に励む姿が、遠くに小さく見えた。ミニチュアのように見える鍛錬風景に、口元が緩むのをアンジェリカは感じた。アンジェリカは辺境伯家へ遊びに来ていた幼い頃と変わらない朝の風景がそこにはある。
(小さな頃には、わたしも鍛錬に参加していたのよね。でもリッキーが嫌がったから……)
元婚約者の美しい姿を思い描いて、アンジェリカは溜息を吐いた。重苦しい気分が彼女を襲う。婚約者の頼みで止めてしまった好きなことの数々がアンジェリカの脳裏をよぎっていく。その我慢は、婚約者としての義務だと思っていた。だがリッキーは、婚約者としての最低限の義務すら守らなかったのだ。自分が律儀に義務を守っていたあの時間は、いったい何だったのだろう。後悔しても時間は取り戻せない。
「ん。こんな辛気臭い状態は健康によくない。わたしも鍛錬に参加しましょう」
まだアンジェリカは若い。失った時間は取り戻せないが、この先の時間まで失う必要はないのだ。さっそくアンジェリカは身支度を始めた。辺境伯の孫であるが、アンジェリカは男爵令嬢だ。身の回りのことは一通り自分で出来る。女性なので鍛錬着はさすがに持っていないが、乗馬服なら持ってきていた。
「そもそも辺境伯は国境を守るために戦わなきゃいけないから。わたしだって体を鍛えておいたほうがいい」
アンジェリカは自分に言い聞かせるようにつぶやくと、部屋をあとにした。
鍛錬場の場所は変わっていなかったが、顔ぶれは変わっていた。とはいえ、見知った顔もある。
「おはようございます」
アンジェリカが鍛錬場に入っていくと、騎士たちが一斉に彼女を見た。そんな彼らに笑顔を向けると、騎士団長がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「おはようございます、アンジェリカさま」
「おはよう。鍛錬に参加してもいいかしら?」
「はい。どうぞこちらへ」
騎士たちが模造刀で打ち合いをしているのを横目で眺めながら、騎士団長の後へついていく。貴族令嬢にとって顔は命なので、鍛錬に参加するといっても彼らと同じようにはできない。安全そうな場所へと案内されたアンジェリカは、体を軽くほぐし始めた。
「今日はどのようにされますか?」
「どうしましょう。かなり久しぶりだから、軽く……」
そこへ短い黒髪に黒い瞳の、よく日に焼けた大男が駆け寄ってきた。アンジェリカの心臓がドクンと大きく跳ねた。ときめきと懐かしさの両方がアンジェリカの胸の中に広がっていく。
(あら、この人どこかで……)
アンジェリカがそう思ってマジマジと青年を眺めていると、相手が名乗った。
「オレはラッセルです。小さな頃に遊んだのですが、覚えていらっしゃるでしょうか」
「ああ、覚えてるわ。ラッセル! 久しぶりね、懐かしいわね。元気だった?」
「はい。今は騎士としてここで働いています」
アンジェリカが興奮気味に話しかけると、ラッセルは黒い瞳をキラキラと輝かせて近況報告をした。騎士団長が一瞬だけ意外そうな表情を浮かべ、次の瞬間には合点がいったという様子で手を叩いた。
「そうか。ラッセルは知り合いだったか。あの頃は騎士が何人か子ども連れで来ていたから、誰がアンジェリカさまと知り合いか覚えてなかったけど。知り合いならちょうどいい。お前、アンジェリカさまの相手をしてさしあげろ」
「はい」
こうしてアンジェリカはラッセルと楽しくお喋りをしながら、鍛錬といっていいかどうか悩む程度の軽い運動をしたのだった。




