Scene3. 学校テスト
次の朝。しつこく鳴り響く目覚ましを止め、前日の疲れがだるく圧し掛かる身体を無理矢理起こした俺は、今日学校にテストに出される教科書やファイル、ノート、提出物等を素早く鞄に詰め込んで一階のリビングへと下りた。リビングへ行くと既に母がサラダやトースト等の朝食を用意してくれていた。
「黒兎、今日テストなんでしょ? 通常授業なら良いかもしれないけれど、またあんた時間ギリギリよ。余裕を持ちなさいって」
学校は8時30分にSHRが始まる。自転車通学の俺は家から学校までだいたい25分かかる。今日はテストだから早めに行こうと思ったが、いつもと同じ、寝たいという欲求に負けてしまった。目覚ましを8回ぐらい止めてようやく起きられた。
母の言葉で壁にかかった丸時計を見た。8時。身支度をしていたらちょっとギリギリな時間。ソファやら椅子やらに掛かった制服類を急いで来て焼きたてのパンを口にくわえる。
「わかってるって。学校には間に合うから大丈夫だって」
幾分鬱陶しそうに言う俺を見て母は溜息を吐いた。
「どうせ、昨日も夜遅くまで起きて余計な事をやっていたんでしょ。カタカタカタカタずっと色んな音がして、聞こえなくなったと思えば大声で長電話。おかげで、お母さん昨日あまり寝れなかったわよ」
「……ゴメンゴメン」
毎度同じようなことはしているからそれ程罪悪感もなく母に詫びた後、俺は急いで口に咥えたパンを平らげ、少し冷めて飲み頃になった珈琲ミルクを一気に飲み干し、カバンを肩に掛け、慌てて玄関に向かい、扉を勢いよく開いて飛び出した。
「行ってきまーすッ」
ガレージに停めてある自転車の鍵を外して乗り、力一杯ペダルを漕いで道路へ飛び出した。友人達からはよく競輪選手みたいで危ないと善く笑われているが、今はそんな事は無視する。母が「いってらっしゃい」と軽い声で言ったが、俺は既に遠く離れた場所へ突っ走っていたからあまりちゃんとその言葉は聞こえなかった。
「ヤバイ。テスト勉強どころかSHRに遅刻しそう」
身支度していたら時間なんて簡単に過ぎてしまうものだ。いつも心の中では生活リズムを改善しないと、と思っているものの、そう簡単にいくものではない。俺は頬を撫でる風の感触を感じながら、何時か交通事故にでもなるんじゃないかとヒヤヒヤするスピードで、何とかギリギリ校門へと滑りこんだ。が、自転車は自転車置き場に留めないといけないから、その停めに行く時間の所為でSHRが始まってからの10分後、結局俺は遅刻してしまった。
「犬良黒兎、久しぶりに遅刻っと」
テストに備え内職中の生徒達。本を捲る音。静かな教室に太い声が響く。SHRをしていた担任の先生……坤田亮( りょう)一郎が出席表にチェックを付ける。格闘技系の体育会系で大柄で背の高い坤田は一見似合わないが国語の先生である。本人は古典が得意だと前に言っていたが、俺を含め彼の授業を受けている生徒等は坤田先生の板書は非道く汚く、説明の仕方もかなり下手で解らないと批判されている。そんなことは知らない坤田は俺にどうしようもない奴だなとでも言いたげに俺を見ると言葉を続けた。
「犬良、一週間ぶり遅刻だな。最近、以前より遅刻が多いぞ。どうした? それにな、今日はテストだろ。グズグズしないでさっさと早く席に着け」
「はい」
俺はダルそうにぼそっと小さく返事をした。そしてその言葉に促され、窓側から2列目後ろより3番目の自分の席に着いた。
坤田は「まったく最近の若者は返事も碌に出来ないのか。全くテストの日なのに。そもそも日頃からの私生活が問題だからいけないんだよ。いいか、みんなも最近たるんでいるぞ。分かっているのか」などと古臭い台詞をぼやいた。最後の言葉に殆ど返事はなかった。そんな話はどうでもいいのだ。そんなことを余所に坤田はまた今日のSHRの話題に戻った。
(鬱陶しい)
ぼそっと意中で呟いた。教室中がそう思っているのだろう。さっさとSHRを終わらせてくれ、最後の足掻きに集中できない、最後のポイント稼ぎなんだからと。無論、中には俺みたいに頭の悪いヤツとは正反対に好成績のヤツもいる。雲泥の差。何時の時代も頭の良いヤツと悪い奴ははっきりしているらしい。俺は席について短く「はぁー」と溜息を吐いた。それを見た俺の席から人一人が通れる通路を隔てた右斜め後ろのショートカットでやや癖毛の女子が、手に教科書を口許に充てて隠すようにしてクスクス笑って来る。
「なんだよ」
俺は首を右に捻るようにして僅かに振り向いた。
「朝から遅刻して坤田に怒られるなんてツイてないね、く・ろ・と」
「別に。深く考えてないし」
「よく言うよ。不機嫌そうな顔してたクセに」染めてはいないものの茶色掛かった彼女の髪と瞳が俺の目の端でチラつく。ソフトボール部の緒方理和は、見た目はちゃんと女の子らしいクセに割とヅカヅカと遠慮なしに喋りかけて来る。
「だってさー、坤田先生って無駄に暑苦しいし。なんか古い感じじゃん。アタシあれが嫌いで……。黒兎だってそうでしょ。バブルでハジケまくった人って感じでさ。しかも、あれで自分が金八先生みたいでかなりイケてるって思ってるからこっちは余計に疲れるんだよねー。ねえ?」
「本人に聞こえたらどォするんだよ」
俺はチラリと坤田を見た。坤田は咳払いをして、人が喋っている時にボソボソ煩い奴らだなという目で此方をジッと話しながら見ていた。
「アイツに捕まって職員室に呼び出されたら話が長いんだよ。テストの2コマ終わったら今日は授業ないんだから」
「中学二年からの付き合いなのにつれないね~」
「あの時お前があんな事をしたからだろ! ただクラスが一緒になって接点なんてなかったのに。あの時も今みたいにお前が面白そうに俺にベラベラと話しかけて来たから。そりゃ印象に残るって」
中学二年の体育祭一週間前の放課後。それまでは理和とは話す機会もその気もなかったのだが、あの時、俺は体育委員で体育祭に使う道具がぎっしり詰め込まれた段ボールを運んでいた。その時、俺がちょうどグランドに背を向けた瞬間、グランドからソフトボールの三号球(野球ボールの4倍くらい大きい球)が物凄い勢いで俺の背骨に直撃した。その衝撃で一瞬気を失いかけ、地に膝を着いた。箱から布やペンキなどが飛び出した。荷物なんてどうでもいいと思ってしまう。暫くすると心配そうに一人のソフトボール部の少女が駆け寄ってきた。「大丈夫ですか!?」と心配するや否や呼吸に苦しむ俺を余所に、救急車を呼ぶべきかどうかとか、AEDと心肺蘇生法が必要かな? など言い出し、それまではまだ良かったが、呼吸が苦しくなる俺を背に、何故か最終的に、今度は俺の家庭の事やら趣味や部活の事やらを好奇心旺盛に訊き始めた。早く先生を呼んでくれとうまく言葉が出せない俺を余所に話は脱線して行った。そう、それが緒方理和だった。後から聞いたがセンターから彼女が投げた暴投球だったらしい。
「……大きな事故にならなくて良かったけど。それとあのなぁ、誤解を生むような言い回しやめろよ。それに坤田こっち見てるし」
「うわー、ホントだ。やばい、最後の足掻きに集中しなきゃ」
「俺も」
俺たちは慌てて自分の机に向き直った。緒方は急いで一度閉じた数学のノートや教科書を開き、テスト範囲を見返す。俺も急いで机に置いた鞄から勉強道具を取り出し最後の足掻きを始めた。それを見てか担任の坤田は業とらしく一度大きく溜息を吐き、「え~、では朝のHRを終了する。挨拶はしなくていい。みんな、テスト最後まで頑張れよ。諦めるな。それと、犬良黒兎、放課後職員室に来るように。では」とSHRを切り上げ、教室から出て行った。
「チッ」俺は短く舌打ちをした。いつも通り、隣で緒方理和がクスクス笑っていたが相
手にはしなかった。
彼が出て行った後、教室にはテスト前独特の静寂が更に訪れた。が、『キーンコーンカーンコーン――』と余鐘が響いたため、教室内がざわめき出しその静けさはすぐに失せた。と同時に次のテストのクラスの試験監督が入って来る。一限目、数学科の若い女教師、市川卯津希だった。
「おはよう。それじゃあ、全員筆記用具以外の私物は廊下に出して。テスト開始までまだ時間はあるけれど、5分前にはみんな席に着くように。分かってるだろうけれどケータイは持ち込み厳禁。勿論、電源は切りなさいよ」
彼女に言われるまでもなく既にクラスの生徒たちはその作業に入っていた。生徒の何人かは彼女に返事をしたが、大半の生徒はまるでサウンドのようにただ言葉を聞き流した。生徒たちは鞄などの余計な荷物は廊下の端へ寄せて並べる。ケータイもそうだがこれらは言うまでもないがカンニング防止の為である。しかし、先生にそう言われていても中にはマナーモードとはいえ平気で電源ONのままケータイを持ち込む奴が普通にいる。実際それでカンニングを行っているかどうかは俺には判らない。過去に他の生徒で廊下にケータイを置き忘れたらしく、試験中にバイブと、ホラー映画の『着信アリ』の着メロが鳴り響いた事があった。あの時は本人だけでなく教室中が色んな意味で凍りついた。それにしても何であんな着信音にしていたんだ……? しかも、運が悪い事にその時の試験監督はあの坤田だった。可哀想なことにその女の子は後でこっ酷く怒られて泣かされていた。「よく問題にならなかったな」と俺は思っていた。
それはともかく、俺も荷物を廊下に出そうと教室の扉を歩いている時だった。
「おはよ~、黒兎!」
背後から肩をポンッと叩かれた。振り向くと友人の艮川孝俊がそこに居た。そしてあとから俺を取り巻くかのようにして他にも2人、こちらへ寄って来てそれぞれ「おはよう」と言った。俺は眠そうにおはようと言った。
「どうした黒兎また遅刻か?」
へらへらしながら俺の首に右腕を巻きつけるようにして艮川が言った。剣道部独特の絞まった筋肉質な腕は苦しかった。
「またとか言うなよ……」俺は軽く振り払うようにようにして彼の腕から逃れた。
「そうだぜ。黒兎、あれほど『遅刻とか提出物遅れたりすると内申点が……』どうたらこうたら言っていたのにさ。今学期入ってこれで5回目だぜ」キツネを連想させるような顔つきの不破明はチャラけるようにしてが言った。高校生なのだが彼の少し目立つ金髪は度々先生たちから目を付けられているのだが、何度何を言われようと、どれだけ反省文を書かされようと本人は黒にする気がないらしい(反省文を実際提出しているかは不明だが……)。というのも、欠点取るようになってから部活に行けなくなったのが理由の一つらしい。空手部に復帰する気は今はもう無いのだろうか。俺は廊下に移動しながら話す。
「ちょっとなー。最近友人の影響もあって生活リズムが狂ってしまって。テスト勉強の所為もあるけれど」友人と言うのはも勿論、猫柳のことだ。そして後半は5割、嘘だ。テスト勉強ではなくネットゲームのバグらしいものに震えていた。
艮川が話を続ける。
「おれら、これでも、もうすぐで受験生だしな。俺と不破の場合、欠点でマズイから最近部活に参加するの先生に停められているし、黒兎も最近行ってないんだろ、合気道部に」
「まぁな。2人ほどじゃあないけれど成績危ないし。一応、弐段は取ったからさ。やりたいけれど、今は休憩」
「おっ、言ってくれるなー」はぐらかす様にして艮川らが言った。
「でも、今日は久々に行くんだろ? 部活」口数の少ない烏原時雄が相変わらずのクールな顔立ちをして、澄んだ声で言った。さすが軽音部のボーカル担当。知的でよく通るその声は誰もが聞き入ってしまう性質がある――などと顔や声に出さずに彼を評価しつつも俺は話す。
「あぁ。今日も稽古には参加しないけど。顔出すのと、道着と袴とそれから自前の木刀と杖、道場に置いてあるから取りに行くつもり」
「なんで、そんなに置いてるんだ?」烏原が床に鞄を下ろしながら言った。
「以前、演劇部が文化祭か大会か何かで使いたいって言うからさ……。緒方が演劇部のヤツの代わりに俺にしつこく頼んできたから貸してやったんだ。使った後、道場に置いておくように伝えておいたんだ」
「あ~、なるほど……」
「それより黒兎、今日のテスト終わったら一緒に『Espejo』協力プレーでやらない?」呑気に不破が言った。
「いいよなー。ボクもやりたいけどインターネット、家の繋がらねぇーし……。そういやぁ、烏原、お前もやってたっけ?」艮川が訊いた。
「……やってない。興味無い」烏原は僅かに考えるようにして否定した。でも、恐らく彼もゲームしてそうだと俺は思った。
「という事は、『Espejo』やってんのおれと黒兎だけか。で、黒兎やる? おれ今結構ガンバってレベル上げて、『荒廃の館』の依頼で『悪魔の森』の近くの街で今終わっているけれど」
「テストの点気になるからアレだけど……俺もその辺りだけど、不破より進んでいるから、まず自分のクエスト終わってからでイイか?」俺は鞄を下に置いた後、あらかじめ鞄に戻さずに手に持っていたテスト勉強のノート類を開きながら少し考えてから淡々と言った。
「OK! じゃあ、終わったらメールしてくれ」
「判った」俺は短く返事をした。
「というか、今回のテスト自信あるのか?」相変わらずだなと言いたげに烏原が言った。
「烏原ぁ、そんなことボク達に訊かなくても判るだろ?」キツネ目の不破がはぐらかすようして言った。
「黒兎はともかく、ボクと艮川は今回の数学Ⅱのテスト滑ったら確実に欠点&居残り補習なんだって。だからヤバいんだよ」
「不破らの数学ⅡのBクラスっていつも平均点30~40点だから、楽勝じゃあ……」ポーカーフェイストで烏原が呟いた。
「烏原、楽勝とか言うなよ」艮川が言った。因みに俺もその基礎基本コースのBクラスである。成績順位で先生が勝手にクラス分けしているのだ。
「おれら、課題すらまともにやってないし」
朗々と話す二人に俺と烏原は小さく溜息を吐いた。
「おっと、ヤバイ! もう10分も時間がないや。艮川、最後の足掻き、頑張ろうぜ!」
「おう!」
慌ててテスト勉強に取り組む二人。それを見た俺は、心の中であまり意味無いだろうな……と思いながら烏原に「俺達もしようか」と言って、静かにテスト勉強を始めた。
――……ふと、廊下を見回した。テスト前なのにやたら騒がしい俺の階の廊下……。俺のクラスと隣のクラスの間で緒方理和とその友人らがペチャクチャと喋っていた。お嬢様みたいな雰囲気のコーラス部の申辺愛未。緒方と同じくソフトボール部の巳波千夏。放送部の森笑子。申辺とは小学校の頃、俺が合気道をやり始めた頃に彼女も同じくしてやり始めたが、たった3カ月ですぐに辞めた。理由は「マイナーで地味!」とかなんとか生意気なコトを言っていた。どうやら彼女等はミーハーな話で盛り上がっているらしくボーウィッシュの巳波千夏以外は耳に響く高い声で笑ったり大声を出したりして盛り上がっていた。
(五月蝿い)
かなり迷惑だった。
別に騒いでいるのは彼女等だけではないのだが、テスト前の緊張感の無さに流石の俺でも苛立ちを覚えた。何より真面目にやろうとしている人達にとっては非常に煩わしい事である。
静寂さ……その雰囲気を無意識に求めて反対側の棟へ視線を送った。一番右側、端のクラス――理工学科。一目で真面目な雰囲気が漂っているのが判った。……と、ちょうどその時、猫柳が女子生徒とその教室から出て来た。見ると廊下で猫柳よりも長身で細身の男子生徒が猫柳に話しかけた。
(あれは確か、生徒会の宮元隼都だったっけ? 3年で元サッカー部のエース……)
そんな彼が猫柳に何の用なのかは少し気になったが、ここからではその内容を聞く術はなかった。
予鐘が鳴る。校舎全体を駆け巡るようにして聞き慣れたメロディーが響き渡る。
―――テストなんてどうでもいい……。
昨夜、俺が零した言葉。テストや順位、内申点。人の能力や才能、仁徳、価値……。他人が決め付けた価値観や考えで全て数字に置き換えられ評価されるシステム。基準値を満たさなければ人はその人を「不良」だの「人間のクズ」だの「バカ」だのとレッテルを貼り自らを正当化し、他人を嘲笑う。
たかがテスト。たかが勉強、たかが規則……。
こんな事で熱く言う俺を他人は「腐っている」だとか「負け犬の遠吠え」だとか言うのだろう。しかしそれでも構わなかった。実際、学校のルールは何れにせよ、会社や社会の在り方やルール等といったものの延長線上にあることは事実なのだ。それは何を意味するのかは――場所によっては変わるのかもしれないけれど……。バカで何が悪い。好きなことに夢中になって何が悪い? 「学校」・「教室」という閉鎖的な空間の中で当たり前のように物事を押しつけられ、ランク分けにされるこの場所でありきたりな毎日と退屈な連鎖に置かれるだけで、俺自身はそういうものを好む事ができない。
程なくして試験監督の声が聞こえて来た。筆記用具を持って急いで席に座る。全員が座ると再び静寂が訪れた。聞こえるのはペンと紙の音。テストプリントが次々と配布される。俺はペンを握って、一度深呼吸をする。試験監督の声とチャイムの合図と同時に、生徒たちは机に伏せたプリントを翻した。
数学は「三角関数」の問題だった。定義さえ覚えれば割と楽に解けるのだが……。
(あーどうしよう。解らない……)
俺は何度も何度も意中で呟きつつ、問題を解いていった。空欄解答は殆どない。もしこれがノーミスならほぼ満点である。が、ケアレスミスがいつも甚だしい俺はしょうもない所で何回も点を落とす。大半はケアレスミスで20~30点近く点を落としてしまう。
50点にも満たないかもしれない。それでも俺は解いた答を余白の余す事なく埋めていく。
「点数取れないなら無駄に書く必要なんて無いんじゃねーの?」と友人か誰かに言われた事があった。でも、書かなければポイントは稼げない。
(やばい、またミスがあった。……欠点取りそう)
あれも判らない、これも判らないとタイムロスして行くうちに俺は段々焦り始めた。
3コマ目の国語が終了し、坤田先生の古くさいSHRも終わって放課後。4コマ目からは授業はなかった。
雑多な音たちが校舎内という空間を埋め尽くしていた。
荷物をまとめ教室から出ようとした時、面倒な事に緒方理和たちに足止めされた。
「ねぇ~、黒兎くーん。ちょっと私たちの話きいてくれなぁい?」
「緒方、キショクワルイからその言い方止めろって。あと変に『くん』付けやめろ。鳥肌が立つから」
「イイじゃん冗談じゃない。 まあ、そう言わずにさ。私の話聞いてって」
「……聞くだけな」
「サンキュー。あのさ、森ちゃん放送部の部長だからさ、学校のPV作る事になったんでメンバー集めているんだって」
「放送部、部員少ないから困っているの」
「ポスター貼ってても、殆ど効果がなくて困っているですって」
「ね、だから協力してくれない? 黒兎ォ。私も愛未も千夏も手伝うことになったからさ、ねぇ~え?」
緒方のキャラクターに合わない猫撫で声が背中をゾクッとさせる。
「断る」
「ちぇっ、ケチだなあ~。というか何でダメなのよ?」
「いや、だって面倒臭いし。俺、写真とか動画とか撮られるんあまり好きじゃないから」
俺がそういうと女子たちは「へえ~意外!」と騒ぎだした。
「ホント意外。黒兎君、スポーツやってるから案外人に見られるようなもの平気だと思ってたんだけど」千夏が言った。
「それとこれとは話が違うって。スポーツはスポーツ。武道の合気道もな」
「確か、弐段持ってるんだっけ? すごいよね」
「持ってないよ。まだ……弐段」
「やっぱりそうなんだ。うち理和から初段だったはず、詳しくは本人に聞いてと言われたんだけど」
俺は緒方にまた余計な事を言いやがって、というような視線を送った――のにも関わらず緒方は相変わらず豪放に笑って、
「まあ、細かい事はどうでもいいじゃん。それよりもPV作り、黒兎やってよ」
何の気にも留めず、俺の肩をポンポンと叩きながらしつこく誘ってくる。
(お前は太刀の悪い押し売り業者かよ)俺は心の中で笑いながらも、その手を軽く振り払った。
「残念だな~。因みに、軽音部の烏原時雄くんはPV作りのOKしてくれたよ?」
「えっ!? 烏原が?」
「しかも案外即答だったよ」
拍子抜けした。クールな烏原がこうも協力的なのは少し意外だった。確かに、軽音部はエンターテイメント系だから魅せるという意味では妥当かもしれないけど。
ちょうどその時、烏原が通りがかった。烏原は僅かに口許を緩めて「じゃあな」と挨拶して俺達の前を通り過ぎようとした。俺は彼を呼びとめた。
「あ、烏原。放送部のPV制作、参加するんだって?」
「ん、あぁ。主題歌がいるから曲作って歌ってくれって言われたから。オレこれでもヴォーカル兼作詞作曲担当だから。PVのエンディングに使うんだと」
「そうなんだ……」
烏原は「またな」と言って帰って行った。
それにしても、学校のPVにしては本格的過ぎな気もするのだが。
烏原をいいことに付け入るかのようにして女子たちが迫る様にしてまた俺に頼んで来る。
「ね! PV作り一緒にやろう、お願い!」
「ゴメン、これから用事があるんだ。じゃあな!」
「あ、ちょっと!」
俺は彼女等の隙間を素早く抜けて逃げるようにしてその場を去った。
「流石、合気道。長年やっているだけあって、素早い身のこなし」
そんな誰かの呟きが聞こえた気がしたが、既に遠くの方に居た俺ははっきりとは聞こえなかった。
俺の教室から屋外へ出るには職員室の前を通るのが最も早い。途中、あの担任の坤田や化学の土部先生に捕まりそうになったが巧く誤魔化してその場をやり過ごした。
さっき、緒方らに行った言葉は本当だった。
俺の辿り着いた先は格技場だ。敷地がそれなりに広いこの学校の格技場の2階の一面で合気道部の部員たちは稽古の準備をしていた。まだ全員は集まっていないらしく部員は五人しかいなかった。
俺は靴と靴下を脱ぎ、久しぶりに活動場所に入って行った。
「久しぶりー」俺は軽く手を挙げて言った。
「あっ! 久しぶりです先輩!」女子部員の子門陵子は一瞬静止してから驚いていつもの愛想の良い笑みを返した。その声に気付いて他の部員達もそれぞれ返事を返す。
「俺がいない間もちゃんとやってる?」
俺は右の手のひらで頭をさすりながら言った。
「犬良先輩、はやくまた復帰してくださいよ~。3年生はもう引退で時々しか練習手伝いに来られないし、先輩がいないとやっぱり賑やかさに欠けるんですよ~」
奥の小さな収納庫で木刀や杖を整理している一年の男子部員・須鹿羽賢佐が言った。
「ハハハ、武術の稽古場で賑やかになるのも如何なものとは思うけどなあ」
と思っていると何時横に来ていたのか先輩の黒梢咲駿が、
「そうだぞ、黒兎」と真顔で言いながら俺の頭を何かでぽんっと叩いた。
「痛テっ」
よく見ると彼が持っていたのは木でできた短刀だった。
割と堅くて丈夫で少し当たったくらいでも十分痛い。稽古で使う物だ。
「練習道具を粗末にしないでくださいよォ。【元】副部長ー」
「わりぃわりぃ」彼は今度ははにかみながら申し訳なさそうに言った。
「と言うかな、黒兎、粗末にしているのはお前の方だぞ!」
「ん? 何が……??」
「有段者はな、チョー(・・・)貴重なんだから」咲駿はやたら「チョー」を力強く強調して言った。
「……なんか、珍獣扱いされてるようで妙な気持」
それを受け彼は「あはは――」咲駿は気が弱そうに笑いながら頭を掻きながら話しを続けた。
「黒兎以外にずっと小さい頃から合気道やっててまともに段持ってて教えられる奴、ウチじゃもう殆どいないから。僕も受験だしね」
「あの、受験大丈夫なんですか? あっいや変な意味じゃなくてこう稽古に来てばかりで」
「ん、まあ僕は大丈夫。不思議に推薦も貰えたし。それに身体が鈍ってちゃ、逆に勉強に飲み込めないんだよねー」
「そ、そうですか」
「なあ? 黒兎、もうそろそろ戻って来いよ? 大丈夫だって欠点の2つや3つ」
「いや、それはまずいでしょ」
「大丈夫だって。現に毎回5つ以上落としても学年上がれた奴がいるんだ。0(まん)点取っても平気だったらしいよ?」
「先輩、下を見ないでくださいって。というか俺、欠点取った事ないですよ」
俺は断言するように言った。
「本当にィ……?」咲駿は俺の目を覗き込むようにして語尾を上げて言った。
「本当ですッ」はっきり言い返す。
「本当は――?」
「……一度だけありますけど。一学期の数Ⅱで運悪く満月取って……」
「やっぱそうだよな!!」とノリ良く無邪気に笑った。俺はその反応に対して
「子供かよぉ……」
と俺は呆れる様にして言った。0(まん)点取っておいてそんな冗談を言う俺もオカシイのだけど。
「やっぱりこの空気感、いいですよね~」俺より一つ年下の男子部員・陽後孝也がうんうんと頷きながら言った。
「悪ノリする咲駿先輩に、キレのある黒兎先輩のツッコミ。ビシッて来る♪」
「あの~俺で遊ばないで下さいよ…」
「ハハハ。まあ、合気道部はいつでもお前を待ってるからさ。いつでも来いよ。冬休み明けに演武大会もあるしさ。有段者がいないと覇気に欠けるしね」
「はい」俺は首を摩りながら言った。
因みに、俺らの言う『演武大会』というのは、色んな学校の合気道部らが年に2度集まって練習の成果を見せ合う大会のことだ。俺らが練習している合気道の流派は空手や柔道のように試合は無く、シンプルに言えばカタを魅せるものだ。勿論、合気道も流派によっては試合もある。が、合気道には関節技・投げ技を多用する故に危険である為、試合を基本的にはしないのが理由に挙げられるらしい。昔俺が習ってた先生から聞いた話だけど。
ついでに説明すると、合気道には3つの神器――武器がある。【元】副部長が持っていた木製の短刀もその一つだし、他に木刀(長柄刀)とそして杖という肩幅よりも少し大きい木で出来た細い如意棒みたいな武器だ。
武器は弐段へ昇段するために必ず覚えないといけない。個人的に杖は木刀より扱いが難しいから俺は一番苦手だ(理由はカタの数多いから)。
「ところで黒兎、演劇部の人が『本人が不在だから』って道場の更衣室に道着や袴とか置いったぞ」
演劇部の人というのは猫柳の友人の事だ。
「あ、はい。ありがとうございます。それ取りに来たんです」
「そうか。じゃあ、ついでに稽古もやってく?」咲駿は少し気が弱そうに笑って言った。
「いや、今日もやめておきます」俺もはにかみながら言った。
「そっか……。じゃ、今、集まってるメンバーが少ないからさ、ちょっと掃除手伝ってくれる? 急いでるならいいけど」
俺は少しだけ考えてから快く「良いですよ」と応えた。
それに特に急いでいる訳でもないから。
咲駿はサンキューと言って俺に手伝って欲しい所を指示した。
割と広い道場は少人数だと片付けるのは中々大変だ。
俺は他の部員よりも少し念入りに掃除した。
結構、学校の通常掃除は手が抜かれているようで、床下の沢山ある窓ガラスを覗くと小石の砂利の上に何時誰が捨てたかも判らない酸化し茶色くなった何かの鍵や釘、反対側を見るとほんの少し茂みになっている所為かスナック菓子の袋のポイ捨て、4~5年くらいに発売したであろうプラスティック製のオモチャやシャベル・バケツなどが点々と転がっていた。……窓の桟は蜘蛛や弱い蜘蛛の死骸とそいつの食べカス諸々が非道かった。
掃除を終える頃には俺を含め道場には十人程集まっていた。俺はそろそろと思い黒梢咲駿や他の部員らと幾つか言葉を交わし挨拶した後、届け物を取りに行き格技場を出て行った。
学校の門を出て自転車で少し走った後、今日は珍しく自転車を降り、街を歩いた。 テストが終わった後は何故か道草したくなる。一旦縛られていたものから解放されると、何か新鮮さを取り入れる為に身体を動かしたくなるからかもしれない。
街の中心部を通ると帰りのルートが遠回りになるがそれでもよかった。
周りを見回す。スーパーマーケット、ファッションショップ、アクセサリーショップ、文具店やトイショップにあらゆる専門店。ここ「イーグル通り」は東京や大阪の都心のようにごちゃごちゃした感じではなく、イメージとしてはむしろ少し都心を外れた、整頓された街のような感覚に近い。
俺は時折自転車を止め、それほど興味は無かったが普段あまり行かないアート用品専門店や少し高めの洋服やなどに足を運んでみたりもした。と、丁度帰ろうかなと思った時だった。正面からすれ違った大柄の男と肩と肩が幾分強くぶつかった。
「オイ! 何してくれてんだテメー!?」
いきなり重低音で叫ばれ一瞬ビクッとした。俺は男の顔を見た。身体付きは坤川程ではないが、大きいサルのように大きく、髪型はV系バンドがしてそうなツンツンとした成りで、眼は鋭く、眉間に皺を寄せている。一言で言えば厳つくてヘンな男だった。服装も平成風で且つ半世紀ズレたファッションを混ぜた感じだった。正直、ちょっと笑いそうになった。
「ああん!? 何ジロジロ見てんだよ。フザケテいるんじゃねぇーぞ」
「いや、別にフザケテはいませんよ」
―――フザケテいるのはあんたのファッションセンスだって。
厄介な奴とぶつかってしまったなあと俺は内心最悪だと思った。
「何だ!? その口の訊き方は? オレを誰だと思っているんだ! 加巻高の獅子島だぞ! 知らねぇーとは言わせねぇーぞゴラッ!」
そう言われて、すぐには気が付かなかったが、俺は「あっ!」と言って思い出した。
西町の不良高で有名な加巻高の不良グループの一つのリーダーだったけ。
「……もしかして、獅子島剛士だったっけ?」
「だったっけじゃねぇーよ! 何呼び捨てしてんだよ、え?」
「というか、俺、あんたのことをよく知らないし、それに用がないなら、俺これから用事あるし、それに俺に何のメリットもないと思うんだけど……。帰らせてくれないですか?」
余計なことに絡まれたくない。とっととここから逃げたい。
「テメェー、調子に乗ってんじゃねぇ―よ。何エリートぶってんだよ。ああ!? オレ、テメェーの所為で更にむしゃくしゃしてんだよ。オラッ!」
「くっ」
不意に胸座を掴まれ、襟で首を締められ息が苦しくなった。
「ちょっと来いや」
このままだと一通りの少ない路地へと引き込まれてしまう。多分、その先には仲間がいるだろう。
(俺の力じゃ運が良くて二~三人が限界だ……)
俺は相手の目を見ながら、「やりたくはなかったんだけど……」
と呟いた。
獅子島は「ああ?」と言った。
(チャンス)
俺は渾身の力で彼の足の甲を踏みつけた。
「痛ッてぇ―――!!」
街角で悲鳴が響く。更に、俺はその隙にまだ俺の胸座を掴む獅子島の右手を捻り返し、その手を襟から剥がし、俺はその手を自分の左肩につけ素早く足を運びながら姿勢を低く落とし、その手に思いっきり負荷をかけた。
「ギャアアー!! 痛ッテェ!」
合気道の技二教の裏を決め、俺は自転車に跨り(またが)急いで逃げ去った。
買うつもりは無かったが自販機に『新発売キャラメルぶどうサワー(果肉入り)』という珍しくも美しいかどうか判らないそのジュースに何故か俺は惹かれてついつい買ってしまった。……小遣いは少ないのに。
「なんでか俺、こーゆー変なヤツに惹かれてしまうんだよなぁ」
過去に大型スーパーの雑貨店でマトン味のキャラメルやらクマ肉風味のキャラメルなどを見かけて普通に高いし不味いと判っていても買ってしまったことがある。一つ試しに食べてみた所非道く不味く、俺が猫柳の家に遊びに行った時、猫柳に無理やり食べさせたことがある。その後、箱ごと全部猫柳にあげた。ヤナギ曰く、実の父にそのまま全部そのキャラメルをあげると喜んで全て完食したらしい。
家に着いて誰も居ないと判っていたが、「ただいま」と言った。母は昼は仕事で居ないのだ。
今日は疲れたと「はぁー」と溜め息を吐き、手洗い、嗽をした後、リビングには行かず、そのまま荷物を持って二階の自分の部屋へ入って行った。荷物を投げるようにして置き、そのままベッドに大の字なって寝そべった。
「このまま眠りたい……」
暫く横になった後、何かが動かすようにして、俺はノートパソコンの電源を入れた。と同時に昨夜のあのバグらしい出来事を思い出す。けれど、あの後それ以外何も異常は起きなかったし、それでも尚まだやりたいから、ノートパソコンを立ち上がるのを待った。
ちょうどその時、タイミング良く俺のスマホの着信音が鳴り響いた。画面上を見るとメールの着信ありのアイコンが出ていたが、気にせず、電話に出た。
「はい?」
「もしもし、兄貴?」
妹の瑠乃からだった。
「もしもし、瑠乃? どうした?」
「いやさ、最近兄貴から電話に来ないからどうしているのかなって」
俺の妹瑠乃は二つ年下。中学三年生だ。仕事の都合上家を離れている父と隣町の中学校に通う瑠乃は隣町で2人で暮らししている。中学は進学校・お受験校だ。
「なんだそりゃ」俺ははにかんで言った。
「兄貴、今ヒマ?」
「ん、まあ、ヒマだけど。テストも今日で終わったから」
「そうなんだ。あたしは明日で終わりなんだ」
「そっか。というか、瑠乃、今学校じゃないの?」
「うん。今日、あたしもテストは三コマで、放課後は部活に用事があったからそれを済ませた所。あと今日特に用事ないし、それで今帰り道」
「そうなんだ。……で、ホントは何か用事があるんじゃないの?」俺は笑うようにして言った。
「バレタた?」瑠乃は舌を出してテヘっと笑って言った。実際は見えないけど。
「何? お金貸して欲しいとか、料理に困っているとか、勉強判らないからとか、料理に困っているとか、新しい服買ってほしいとかか。あっでも勉強のことは訊くなよ。親父に訊けよ」
「違う違う。そんなんじゃないって」
「珍しいな~」
「いつもそうしてるように言わないでよ」
「そうか?」
俺は電話越しに笑い合った。
瑠乃とこんなふうに話して笑うのはいつ振りだろうか。
「じゃあなに?」
そう俺が言うと、瑠乃は俺の予想に反して「それが……」口籠った。
「それが……ちょっと父さんと暮らすのが……」
「えっ? 父さんと何て?」
俺ははっきりと聞き取れなかった。
もう一度瑠乃に訊き返した。
瑠乃は何かを跳ね飛ばすように「やっぱり何でもない」と笑って言った。
「……本当に?」俺は再度訊き返した。気になってちゃんと訊こうとしたが、瑠乃は「それより」と言って話題を切り変えた。
「兄貴ってノーパソとか何か持ってたよね」
「持ってるよ」
「それじゃあさ、PCオンラインゲーム『Espejo』って知ってる? あたしも今嵌まっているんだけどさ。兄貴も良かったら一緒にやらない。良かったら一緒にやらない?」
「あ、俺それ今からやろうと思っていたんだ。でも今日は学校のヤツと一応一緒にゲームやるって約束してしまったけど……別にいいよ」
「やったあ! 兄貴もしかして昨日も『Espejo』していたの?」
「まあな」
「テストだったのに」
「まあな……」
「ダメじゃん」
「ま、まあな」
妹は大笑いした。
「それじゃ、一緒にできる日があったら、あたしにメールして」
「ん、判った」
「じゃあね」
俺らは電話を切った。
俺は親父と妹がうまくやれてないのではと気に掛かった。
別に俺はそれほど妹想いではないし、最近会ってないし、兄妹仲がものすごく良いということもないが、やはり実の妹だ。少しは心配する。
俺は溜め息を吐いた。そしてメールが来ていることも忘れ、ベッドにケータイを放った。ノートパソコンは既に電源が入っていて使い手に次の指示を待っている。
俺はパスワードを入力し、早々と操作しゲームを起動させた。




