3-13.白髪の青年の物語 転(2)
がさがさと、夜の森に葉音が響く。鳴らしているのは僕の足。
昼間でさえ薄暗い森の中。夜になれば一層濃い闇がそこにある。僕は葉の間から漏れてくる月明かりだけを頼りに、奥へ奥へと獣道を進む。
「っ……」
そうして宛てなく歩くこと、数分。不意に大きな気配が目の前に生まれて、僕は息を呑みながら足を止めた。
「―――こんばんは」
『こんばんは、ヒトの雄よ』
暗闇の中、影が銀色の輪郭を帯びる―――本当に、どうやったらその巨体で音もたてずに来れるんだろうか。毎回不思議でしょうがない。
そんな彼は木々の屋根まである頭をのそりと下げ、伏せて視線を合わせてくれた。
『あなたがいらっしゃった理由には心当たりがございます。あの御方の記憶のことですね?』
「そうです」
さすが。何も言わずとも僕が来た理由を察してくる。きっとさっきイオと話していた内容も全て聞いていたに違いない。
さて、注意くらいで済むだろうか。それとも―――と警戒しながら彼の言葉を待つ。
『いえ、安心してください。あれは非常に良い兆候です』
「へ?」
意外にも、狼から返ってきたのは好意的な言葉だった。
「え、どうしてですか? ルイナに記憶を取り戻されるとあなたは困るのでは?」
『………』
思わず、反射的に聞いた質問だったが、狼から長い沈黙とため息を返された。
『あまり介入の条件に付いては言及しないようにお願いします』
「あっ……すみません」
失言だった。前にそのことは口にするなと言われていたじゃないか―――それを破った今、彼がどんな反応を示すか、恐る恐る様子を伺う。
だけど狼の方はまたため息を吐くだけで、取り立てて怒りの感情は示さなかった。
『―――まあ、よいでしょう。そちらの条件については今となっては開示しても構わないでしょう。確かに、私はあの御方に記憶を取り戻されると困る身です』
「そう、ですか…やっぱり……」
『ただ、口に出してのそれ以上の確認は不要です。お互いの為に』
「分かりました、気を付けます」
ひとまず、今回は不問にしてもらえるようだ。良かった―――ただ、ルイナの正体に関わる条件の方は口にしないよう、今後も気を付けよう。
『それで記憶のことですが。詳しくは説明できませんが、私にとって“思い出してほしくない記憶”と“そうでない記憶”の2種類があると認識頂ければ」
「思い出してほしくない記憶と、そうでない記憶……」
言葉を反芻する。記憶喪失の原因に繋がる記憶か、どうでもいい記憶かということだろうか?
「―――ちなみに、僕が記憶の内容をルイナから聞いたとして、それが思い出して欲しくない側の記憶であると判別することは出来るのでしょうか?」
『その質問は非常に答えにくいものです。あえて答えるのであれば、聞けば猛烈な違和感を覚える、とだけでしょうか』
「猛烈な違和感、ですか」
となると、そもそもルイナがもしそれを夢に見たとしても、単なる夢と思い込んで自分の記憶だと認識しない可能性がある。それだけだったら何の問題もないが……
でも、“思い出して欲しくない記憶”と“そうでない記憶”に全くの関係がないなんてことはないだろう。言ってもヒト1人分の記憶なんだ。1を思い出せば2を連鎖的に思い出し、ゆくゆくは全部を思い出してしまうことも考えられる。やっぱり、“どうでもいい記憶”であっても思い出されている現状を危惧した方がいいのでは?
『いえ、その心配はしなくても良いと思っています』
そんな懸念をぶつけてみたところ、狼は至って楽観的に答えてきた。
「えっと、それはどうしてでしょうか?」
『理由は2つあります。1つは申し上げられませんが、もう1つ。あの御方は自分で『そちら側の記憶』を封じ込めております。その封印の強さが如何ほどかは測れませんが、些細なきっかけでは思い出される様子はございませんでした』
「っ……ということは、思い出してほしくない記憶の方に関係する何かがこれまでに起こっていた、ということでしょうか?」
『その通りです。もちろん、その詳細はお教えできませんが』
聞こうとしていたことを予め封じられた。まあ、彼ならそう言うと思っていたけど。
―――じゃあ、そのきっかけっていうのはいったい何だったんだろうか。考えようにも一緒に過ごした1年間の記憶の中から探し出すのは無理だ。そもそも、僕の知らないところでの話かもしれない。
「……とにかく、ちょっとしたきっかけならルイナは記憶を取り戻さなさそうだということでいいんですね?」
『そうです。私の願望が入っていることは否めませんが、そう考えて頂いて構いません』
願望、か―――まあ確かにヒトの心の問題だ。確信を持って言えることではないのかもしれない。
多分、僕へ必要以上に神経質にならなくて良いって言ってくれたつもりなんだろう。
『今晩の話はそれだけですか?』
「あっ、えっと、はい。そうです。ありがとうございました」
頭を垂れる。あとは話は終わったとばかりに彼がのそりと立ち上がって、風のように去っていて終わり、とばかり思っていた。
だけど、またまた予想外にも、彼はその場に伏せ続けていた。
『―――あなたの周りに、最近ヒト族らしき子供が増えておりますね?』
「えっ? あ、えっと、周りで子供っていうとスメルとイリアのことでしょうか? はい、冒険者の後輩が2人出来ました」
びっくりした。世間話を振ってくるなんて、今までルイナ以外のことを話したことがなかったら驚いてしまった。
どんな風の吹き回しだろう? と思っていると、彼は一度重く息を吐いた。
『お気を付けください。ヒトの雄よ。あの子らは危険です』
「……え」
与えられたのは、警告の言葉だった。
……気を付ける? 何に? あの2人が、危険…?
「……あの……あの! スメルとイリアが危険って、どういう意味でしょうか?」
『私は前にも言った通り、あの村程度の範囲、起こっていることを全て見聞き出来ます。意識を向ければ村の外遠くからでもヒト族の寝息を聞き、壁を伝う蟻の数を数えられる。それだけの目と耳を持っております』
改めて聞かされると現実離れした知覚能力だ。世にいる普通の狼と彼では性質がまるで違うのが分かる。
だけど、そんな彼が諦めるように首を振る。
『そんな私でも、あの子らの動きだけ見えなくなる時があります。何らかの術なのか、加護なのか、魔道具の類なのかは分かりません。ただ、あの子らには私でも知覚できない空白の時間が確かに存在するのです。それに―――』
「……それに?」
まだ、何かあるのか。十分に今までの内容も受け止め切るのが難しい話だったけど、狼は更に逡巡するように瞳を揺らして、それから口を開いた。
『…申し上げましたでしょう。ヒト族らしき子だと。遠くから見ても確信しかねますが、ヒト族と思えない匂いを感じて仕方がないのです』
「……そんな…」
いったい、それは、どう受け止めたらいい?
考えられない。考えたくない。
信じたくもない。
でも、動揺で体が震えてしまう。狼はそんな僕を見て、やがて首を振った。
『申し訳ございません。余計な心配を生んでしまっただけなのかもしれません。ただ、あの村でのことを全て見聞きできる私からすると、あの子らは異質。あの御方の平穏を脅かす火種になるのではないかと心配しているのです』
「……いえ」
僕は何とか首を振れた。動揺と動悸は今もなお胸の奥を掻き毟っている。
だけど、彼の心配は僕にとっても共有できるもののはずだ。
「謝らないでください。ルイナを守りたいのは僕も同じです。教えてくださって、ありがとうございます」
『こちらこそ感謝します。優しきヒトの雄よ』
そうして語りたかったことを終えたらしく、狼は僕の前から風のように去っていった。
「………」
―――放心、と胸の痛み。その場に残された僕は、しばらく虚空を眺めた。
……スメルとイリアがルイナの平穏を脅かす火種?
あの、周りのひとをよく見て意外にも気を遣えるスメルが。
あの、僕の話を聞いて涙を流してくれたイリアが。
一緒に笑って、一緒に過ごして、一緒にこれからを歩んでいくはずの―――家族が。
危険? 危険、だって? いったい、なんの冗談なんだよ…!
「っ~~~!!」
頭を掻き毟る。苛立ちに似た感情が、心を乱して落ち着かない。
ただ狼が嘘をつくとも思えない。この件に関して僕を騙す利は彼にないはずだ。
―――“お気を付けください。ヒトの雄よ。あの子らは危険です”―――
彼が残した言葉は、しばらく頭の中で響いて離れてくれなかった。
「……っ」
狼と話した帰り道、村まで戻ると門のところに、今は会いたくない顔があった。
「あれ、ジャック先輩! こんな夜遅くにどこ行ってたっすか?」
「…スメル」
短槍を持って素振りをしていたジャックが、僕の姿を見て目を皿のように丸める。
「あ~、分かったっす! 先輩もあれっすね? みんなに隠れて秘密の特訓! くぅ~やっぱり先輩も男っすね! そういうの憧れるっす!!」
「………」
「…ん~? どうしたっすか、ジャック先輩?」
何か言わなくちゃ、と思った。いつもなら彼のやんちゃに対して何かを言っていたはずだった。
―――それがどんな感情から来ていたものなのか、一瞬思い出せなかった。
「……いや、そう、ちょっと山の中で自主訓練しててね。それはともかくスメル。夜遅いんだから少しは静かに話そうよ」
「おっと、そうっすね、了解っす! 気を付けるっす!」
「………」
おかしい、なんでだ、話しているだけで動悸がする。思った以上に狼に言われたことが響いているみたいだ。
―――スメルの顔を、まともに見れない。
「……ジャック先輩?」
「ごめん、スメル。僕は先に帰るよ」
足早にスメルの脇を通り抜け、門をくぐる。振り返れば、きょとんとした顔のスメルがいるだろう。それでも今はとにかくこの場を早く去りたい。
歩いているだけなのに息切れがした。いつもの帰り道がやけに遠く感じる。
それでもようやく家に辿り着いた。扉を開け、暗い廊下に出る。みんなはそれぞれ自室に籠っているのだろう。音がしない。
僕は一度息を吸い、階段を上って自分の部屋へ―――ノブに手をかけ、部屋に入ろうとした時。
「………」
気配を感じた。いつからそこにいたのか、廊下の少し向こう、いつもは額に巻いている鉢金を外した灰色髪の女の子が、うす暗い廊下の端に立っていた。
彼女はじっと、僕のことを見つめている。
「……ど、どうしたの、イリア。そんなところで?」
「………」
イリアは答えない。いつもの如く無言で、ゆっくりと僕の方へ歩いてくる。
「お、驚いたよ。こんな夜にそんなところにいるんだから―――あ、もしかしてトイレ? トイレなら一階の廊下の付きあたりにあるよ?」
言って、自分の挙動不審さにますます動揺してしまう。自分でも、自分の様子がおかしいって分かる。
こんなの、相手に何かあるって疑われてしまう……
「……ん?」
「………」
だけど、イリアはそのまま僕の横を通り過ぎた。と思ったけれど、すれ違いざまに顔を背けられたまま手を引かれた。
「トイレ、一緒に」
「……あ、ああ、いいよ。ついていって、あげるね…」
小さな手のひらに頼まれて、僕はトイレへ行く―――なんだ、本当にトイレに行きたかっただけなのか?
「……着いたね。もう大丈夫かな?」
「………」
トイレの前につくと、イリアは手を繋いだままぺこりとお辞儀をしてくる。そのまま、頭を上げずに礼を言う。
「ここまでで大丈夫です。……まで、ありがとうございました」
「え? あ、うん。お安い御用だよ」
「……なさい」
「うん、おやすみなさい」
そうして夜だからか、いつも以上にぼそぼそと話してからイリアは頭を上げ、手を離してトイレへ入っていった。
「………」
僕はそれを見送って―――大人しく部屋に戻った。
暗い部屋、僕はランタンに火も灯さずベッドに倒れ込む……いったい、どういうことなんだ。何が正しくて、何を信じればいいんだ―――分からなくて、そのまま目を閉じる。
―――つらい。つらいよ、ルイナ。こんなこと、君にだけは相談できない。そう思えば思うほどつらくなる。
……イオ。
……ワンクス。
……アレス、ニーナ―――コレット……
僕は、今度こそ家族を守れるかな……? 自信がないよ……




