エピローグ
拝啓、霧音様。
まばゆい一月の曙光が、今再びわたしの小さな胸を締めつけているようです。
考えてみれば、あの日、新宿の路地裏で、霧音さんにお会いした時からずっと、わたしの心は、あなたのおそばを離れることができませんでした。それはわたしの数奇な前世の因果に由来するものかもしれませんし、そうでもないのかもしれません。わたしには自分の心を観察することができませんが、いずれにしても、心というものは一度とらわれてしまうとどうすることもできないものです。
わたしが、天海和尚の祈祷の末に、カタコンベに馳せ参じ、僧兵の格好で、あの大蛇の業火からおふたりをお助けした時、あたかも死を免れたように語りましたが、わたしはあの時すでに肉体と魂とが完全に分離した状態、すなわち霊体であったということであります。霊体というのはとらえどころなく、自由闊達なものであります。そして浄化された霊体というものは、目に見えるものすべてが不思議と明るく、澄んでいるように感じられて、とてもふわふわと浮き立つようで、心地がよいものです。今、わたしの魂は、生前の業、苦しみに満ちた輪廻転生から解き放たれて、水中を泳ぐ鯉のようにこの地平を、そして果てしない青空をさまよい続けているのです。
ただ、そんなわたしにたったひとつの心残りがございます。それは霧音様、あなたのことです。あの日、あの時、あの駐車場で、わたしがあなたに約束したことを今でも覚えていますか。六道輪廻のどこまでも、それこそ地獄の果てでも、お供いたしましょう、とわたしは申し上げました。これからもわたしは変わらず、あなたをお守りしたい。そのために、探偵として励むあなたの後ろ姿を西の彼方からじっと見つめております。
遠い昔、あなたと紅蓮の炎に包まれたあの夜に、たとえあなたが望んでなくても、あなたをお守りすると誓ったこのわたくしなのですから……。
南無阿弥陀仏。南無観世音菩薩。そして南無霧音様……。(合掌。そして般若心経)
悠玄
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思い返せば、とても奇妙で摩訶不思議としか言いようのない出来事だった。
そもそも、俺が一連の事件に巻き込まれたのはどこからなのだろう。おそらく――もとを辿れば、失踪した恋人・辻八重子の行方を内密に追っていたときからなのだろうが、本格的に足を突っ込むことになったのはおそらく彼がきっかけだ。
「君が望むものを提供しよう。だから、エスとしてある人物の下についてほしいのです」
エス――すなわちSPY。敵地にひっそり紛れ込み、秘密裏に情報収集を行なう者。諜報活動員。そのエスに、なってほしいのだという。
だが、どうして俺に?
「君が追いかけているものも、私たち特別公安課が追いかけているものも、案外近いところにあるかもしれません。目的が近しいのであれば、手を組んだほうが早いでしょう」
眼鏡を指で持ち上げる気障な仕草をして、彼はそう持ちかけた。もちろん、その餌にすぐ飛びつくほど俺も単純ではない。曲がりなりにも刑事なのだから。
「何か、企んでいるのではないですか。自分は仮にも刑事です。組織を裏切ることはできない」
「言葉は正確に使うべきです。私は、仲間を裏切れと言っているのではありません。ただ、我々が追いかけているヤマは少々厄介でしてね。安易に仲間を増やして調査をするには危険なのです。一方で、警視庁の協力なしには解決できない案件であることもまた事実。あなたには、警察を代表する秘密の協力者になってほしいのです」
「それで、用済みになったら口封じをするのではないですか。たまたま目的が同じだから誘いやすいと踏んだのかもしれませんが、事件が解決すれば自分は単なる厄介者。どこから情報が洩れるかわかりませんからね。公安は何より情報の機密保持が第一なのでしょう」
「あなたは、勘違いをしているようだ」
彼は、一歩後ろに引く俺に薄く笑いかける。
「秘密を洩らす恐れのある者なら、そもそもエスの話を持ちかけません。私は、あなたの能力や性格その他さまざまな要素を考慮した上で、適任と判断したまで。それに」
片足を一歩踏み出し、彼――特別公安課の倉敷氏は告げた。
「余計な殺生をして周囲の注目を浴びるほど、私は馬鹿ではない。公安は、何よりも秘密主義なのですから」
こうして、俺は所轄署の前橋篤郎警部の下にエスとして張り付くことになった。ちょうど正月の三が日、管轄内のアパートで変異死体が発見された頃からだ。
前橋警部や所轄の動向を倉敷氏に報告する一方で、俺は恋人の辻八重子に関する情報を彼から内密に受け取っていた。各務一家惨殺事件のことを詳しく知ったのはそのときだ。倉敷氏が属する特別公安課は、各務一家の事件について調査をしていたのである。どうやら彼らは、各務一家の件に宗教あるいは秘密結社などのきな臭いものを感じ取り内々に調べを進めていたらしい。公安警察は、テロや政治犯罪といった国内の治安を揺るがす事案を扱う組織なのだ。
まさか、各務一家の件があのような悍ましい結果を引き起こすことになるとは。さしもの公安も想像できなかっただろう。
驚くべきことは、今回の一連の出来事の中心にいた、志乃河霧音という少年――いや、少女といったほうがいいのか? 二つの人格を有する、謎めいた人物。各務一家の事件の核を握っていた存在。
思えば、志乃河霧音に関わり始めてから事件は急展開の様相を呈した。美形の坊主や金髪の麻薬取締官の出現、警察署内で起きたゾンビ騒ぎ、そしてカタコンベと呼ばれる洞窟での光景……すべてが現実ではなく、虚構の世界で起きていることのように思えた。自分の頭がおかしくなってしまったのかと、何度も疑ってしまうほどに。
だが。それでもやはり、俺の目の前で起きていることは虚構などではなかった。
愛する者との、再会――長年追い続けていた恋人と、生きて再び会うことができたのだから。たとえ目前で死体が起き上がろうとも、巨大な蛇の化け物が暴れまわろうとも、彼女の肌に触れたあの瞬間だけは現実だと認識できた。夢でも、空想でもなく。
八辻栄子、各務瑛菜、辻八重子――彼女には名前が多すぎて、正直どの呼び名で呼べばいいか最初は迷った。彼女に限らず、今回の出来事に関わった人物たちは複数の“名前と顔”を持っていた。それは、霧音をはじめとする各務一家の者に限らない。
特別公安課として陰ながら暗躍した、倉敷氏。倉敷という名は偽名で、本名はおそらく生涯知ることはないだろう。
実はかつて倉敷氏と同じ特別公安課に所属していた前橋警部。この事実を俺が知ったのは、エスとして張り付いてからしばらく経ったときだ。どうやら彼は、俺や倉敷氏より何枚も上手だったようである。
各務一家の関係者でありながら麻薬取締官としても活動していた、各務柚菜。後に聞くところによると、「楪」という名で巫女としてもすばしっこく動き回っていたようだ。
『ストレンジテイル』の店主という肩書きの裏で目に見えぬ敵から霧音を守っていた、志乃河創一郎氏。彼もまた、各務柚菜同様に神に仕える者として特別な力を有しているらしいが、細かいことは詮索しないでおこう。世の中には、白黒はっきりつけられないこともあるのだ。
そして、この俺ですら所轄の刑事という顔の裏に、スパイというもう一つの顔を有することになった。まるで、仮面舞踏会だ。誰もが真の自分を隠し、仮面をかぶって動き回っていたのだから。
各務一家の件を経て、学んだことがある。人は生きている限り、何かしらの仮面でその顔を覆いながら過ごしているものだ。時には、その仮面をはぎ取り真実を見てみたい衝動に駆られるかもしれない。けれど、真実を暴くことだけが正義とは限らない。真実に固執するばかり、とんでもない災厄の箱を開きかねないことだってある。誰かの仮面を剥ぐときは、その覚悟を持つことが大事なのだ。箱を開けば、ともすると自身の命さえ脅かすことになるかもしれないのだと。
それでも、その真実を知ることで守りたい存在があるのなら――意を決して、開けばいい。俺は、パンドラの箱を開いたおかげで彼女の手を再び握ることができたのだから。
「小田切くん」
夢うつつの意識から、はっと目を覚ます。長い髪を肩から垂らした女が、こちらをじっとのぞきこんでいる。
「ようやく着いたみたいよ。小田切くん、バスなんて久しぶりって言ってたから、眠りこけてたのね」
おかしそうに含み笑いをする。そうだ、俺はこの笑顔をずっと前から知っている。笑ったとき片頬にえくぼができるのも変わっていない。
「なあ、そろそろ呼び方、変えてくれないか」
「え?」
「小田切くん、なんてよそよそしいじゃないか。俺たち、恋人同士なんだから」
彼女はちょっと恥ずかしそうに俯くと、
「そうね……貴士」
「それでよろしい――さあ、行こうか。栄子」
たとえ名前や顔が多少変わってしまったとしても。記憶の一部が欠落してしまったとしても。彼女の仮面が、まだ完全にはぎ取られていないとしても。
彼女が俺の大切な存在であることは、今も昔も変わらない。
小田切貴士
*
捜査報告書 ××警察署刑事課 前橋篤郎
志乃河霧音の自宅アパートで起こった鷹野橋智也惨殺事件の捜査は、当初の見込みを大きく外れて、現実と虚構の枠を超えた大事件へと発展してしまった。正直な所、俺自身も今回の事件の全てを把握しきれているわけではなく、全てを明らかにするにはさらなる捜査が必要なのは自明である。しかし、もはやそれはかなわないだろう。すでに事態は収束し、上はこの一件についての再捜査を認めていない。俺も無理をしてまでこれ以上あの事件を追いかけるつもりはない。世の中、そっとしておいた方がいい事っていうのもあるという事だ。多分、公安や朧月大臣辺りが色々頑張っているんだろうが、その情報はもう俺には回ってこない。まぁ、そっちの方が気が楽なのは確かだ。
事件後、俺はまた再建された所轄署の刑事課に戻って、退屈な事件捜査の日々を送っている。世の中は探偵が増えているようだが、そんなの知ったこっちゃない。正直、あの事件に関わった人間の中で一番何も変わっていないのは俺だろう。何だかんだあったが、俺はあの事件の主役とはいえない。だが、世の中脇にいるからこそ見えてくるものだってある。バイプレイヤーっていうのもなかなか悪くないと思うね。
まぁ、それはいい。最近、管轄内で麻薬絡みの殺しがあったが、そこで柚菜の嬢ちゃんと再会した。嬢ちゃんも相変わらずの様子で、殺された男は嬢ちゃんがずっと追っていた麻薬絡みの組織に関わっていたって事だ。というわけで、今度はまともな事件でしばらく嬢ちゃんと合同捜査をする事になった。久々の相棒復活って事だ。少なくとも、その辺の探偵連中に負ける気はしないな。
事件の後、俺はあの時カタコンベにいた人間とは誰一人会っていない。小田切も事件の後すぐに警察を辞めてどこかへ行ってしまった。少し心配だが、風の噂だと元気にやっているらしい。結婚したのどうのという噂も聞いたが、まぁ、本人が幸せなら俺が何か言う事もない。
あくまで俺の直感だが、おそらく柚菜の嬢ちゃんを除いて、俺があいつらと会う事はもう二度とないんだろうと思う。あの事件を軸につながった関係だ。逆に言えば事件が終われば繋がりは切れるし、その方が絶対にいい。繋がりが切れるって事は、事件が終わったって証拠になるからな。繋がりが切れないのは腐れ縁の柚菜の嬢ちゃんだけで充分だ。
それでも一応、柚菜の嬢ちゃんに姉妹たちの事を聞いたが、それぞれが自分の人生を生きている、とだけしか言わなかった。まぁ、彼女たちの中で最初から自分の人生をしっかり生きていたのは柚菜の嬢ちゃんだ。その嬢ちゃんが言うんだから間違いないんだろう。
長々と思いつくままに雑文を書いたが、ひとまず、この場で書けることはこのくらいだ。何しろ事件の渦中にいながらわからない事も多いし、そもそもわかっていたとしても書けない部分も多い。俺もあとどれくらい刑事ができるかわからないし、残りは俺がこのまま墓場まで持っていこうと思う。願わくば、二度とこんな厄介な事件に巻き込まれたくないものだ。俺はやっぱり、現実的な犯罪者を追っている方が性に合っているからな。
何? 報告書なのにこんな口調でいいのかって? うっせぇな。これが俺のスタイルなんだよ。
※警告 本報告書は極秘指定されています。許可なく閲覧した場合、法律に従い処罰される可能性があります。 警察庁警備局公安課××室室長
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この物語のテーマがなんだったのか、それはこの事件、過去の出来事、真実を追いかけた人々の数により様々だと思います。
甘えん坊で考えの足りない私が見つけた一つのゴール。
それは変化。
世界は永遠ではないから、必ず変わった姿に化けてしまう。
多様化する社会で私達、人間がどう生きるか試される。
考え方の変化、気持ちの変化、未来の変化……。
私達の世界は、これから誰にも頼らず縛られることなく、一人歩いて行きます。
子が親から巣立つように私達は、作者という親から自立した命として、自分たちで物語を歩き始めるのです。
志乃河・霧音は新しい世界で生きてます。
志乃河霧音
エピローグの執筆者
悠玄……Kan
小田切貴士……真波馨
前橋篤郎……奥田光治
志乃河霧音……にのい・しち




