第28話 メドゥーサの恋人 (真波馨)
「小田切、避けろ!」
上司の怒号に、小田切刑事の体は反射的に飛びのいた。間髪入れず、大人の頭ほどある大きさの石が彼のいた場所に落下する。直撃していればひとたまりもなかった。
「警部! 我々はどうすれば」
指示を仰ごうとした次の瞬間、今度は無数の火の粉が前橋警部の頭上に降りかかる。警部はコートを頭に被り、火の粉から懸命に走って逃げていた。近くには環稀こと各務珠菜の姿もある。
そうだ、他のメンバーは無事か?
志乃河霧音――いや、今となっては各務霧人か――と各務音菜が一緒にいる。なぜか二人の周りが後光を受けたように輝いているが、気のせいだろうか……それに、彼らの傍に寄り添っている影は何だろう。ぼんやりしたシルエットだが坊主のように見えなくもない。
志乃河創一朗は、手で何かよくわからない形をつくってぶつぶつと呪文めいたものを唱えているようだ。彼は陰陽師らしいから呪法なぞを用いてあの怪物を退治してもらいたいが、蛇神カガミノヲロチは強大な力を持つ神だ。今だってカタコンベ内部で好き放題に暴れ、壁という壁を壊しその度に無数の石や火の粉が雨のごとく降り注いでいる。あの化け物を倒すなんて、彼一人には荷が重いだろうか。
「くそっ……あんな奴相手に俺ら人間がどう立ち向かえば」
「方法なら、ないこともない」
いつの間にか、隣に八辻栄子――いや、各務瑛菜が影のごとくぴったりとくっついていた。カガミノヲロチが巻き起こす暴風で、長い黒髪が顔の周りをゆらゆら漂っている。まるで、ギリシア神話に登場する怪物メドゥーサだ。頭髪が無数の毒蛇で、見た者を石に変えてしまうという鬼神。
「方法って、あの化け物を倒す手段があるというのですか」
小田切が訊き返すと、瑛菜はこっくりと頷く。
「蛇神カガミノヲロチは、私たち七人が集ったことにより永い眠りから解き放たれた。いわば、私たちはカガミノヲロチが復活するために必要な生贄。私たち七人の力であの怪物が目覚めたということは、逆にあれを封印するためにも私たち七人分かそれ以上の力を要するはずよ」
「そうはいっても、少なくとも私や前橋警部は何の特別な力も有していない、ただの人間ですよ。貴女たちや志乃河創一朗のように呪術を操れるわけでもない」
「一つ訂正するけど、私に呪術を操る力なんてないわ」
瑛菜は苦笑し、乱れた髪を指で押さえる。
「幸いなことに、今ここには八人の同士たちがいる。全員が力を集中させれば、あのおっかない神様を封じることも不可能じゃない」
八人? 今たしかに、彼女は「八人」と口にした。小田切は頭の中でひい、ふう、みいと数えてみるが、どう考えても今ここにいるのは七人だ。各務霧人、音菜、珠菜、瑛菜、前橋警部、倉敷、そして自分。まさか、招かれざる八人目が紛れ込んでいるとでもいうのか。
そういえば、公安課の倉敷の姿がない。あのインテリ眼鏡、まさかどさくさに紛れて外へ逃げおおせたのか。いや、きっと救助を求めに行ったのだろう。そう願いたい。
「力を集中させるって、具体的には?」
混沌とする思考を一旦停止させ、小田切は現実に目を向ける。すなわち、この状況を打開する策を練ることだ。
「カガミノヲロチ復活の決め手は、各務霧人にあった。癪だけど、あの子に尋常ならざる力が宿っていることは認めるわ。霧人なら、あるいはカガミノヲロチを封じることもできるかもしれない。私たちは、ありったけのエネルギーを霧人に集中させるのよ。全員のエネルギーが霧人に注ぎ込まれた瞬間、あの子の中でカガミノヲロチを上回る力が発動される」
ただ、と瑛菜は瞬時口ごもる。
「ただ……ここでカガミノヲロチを封印すれば、その瞬間ここを支えていた力のバランスが一気に崩れるかもしれない。あの化け物があれだけ暴れまわってもこのカタコンベが崩壊しないのは、カガミノヲロチと私たちの力で絶妙にバランスを保っているからなの。それが崩れたら」
「カタコンベも崩落する、ということか。しかしそれなら、あの化け物を外へおびき寄せて倒すしかないってことに」
「それが、そうでもないのよ」
縦横無尽に動き回るカガミノヲロチを、瑛菜はじっと睨みつけている。すべての諸悪の根源はあいつにある、とでも言わんばかりに。
「たとえば、私たちがカタコンベ内部でカガミノヲロチを退治する瞬間、外からも同様に力を加えるの。カタコンベの力のバランスが崩れることを防ぐためよ。外から力を加え続けていれば、カタコンベの中で化け物退治をしてもここが崩落することはない。尤も、それだけ強い力を持つ者たちが都合よく外に集まってくれるかは、運に頼るしかないけれど」
志乃河創一朗のような術師の集団を外に待機させるよう、前橋警部に進言すべきだろうか? 真面目に考えている自分が一瞬だけ馬鹿みたいに思えてしまった。
「私が言った方法を実行するには、大きなリスクも伴うわ」
「リスク?」
「私たちのエネルギーを霧人に注ぎ込む。それは、自分を含めて八人分の力を体内に溜めるということ。それはほんの一瞬だけれど、かなり体力を消耗するはず。場合によっては、霧人の体がもたないかもしれない。あれでも一応人間の殻だから、八人のエネルギーを宿すようにできてはいないのよ」
「それは、つまり」
言いよどんだ小田切に代わり、瑛菜はずばりと真意を突く。
「霧人が死ぬ可能性もある、ってこと」
人類の存続のために、一人の少女――少年か?――を犠牲にしろというのか。だが、そうしなければあの怪物を倒すことはできず、日本壊滅の危機も免れない。これはまるで……。
「まるで、トロッコ問題だな」
え? と瑛菜に訊き返される。小田切は咄嗟に「いえ別に」と首を振ってから、瑛菜を真っ直ぐ見据えた。
「今貴女がお話したことを、珠菜さんは?」
「もちろん理解しているわ。というか、もとは珠菜姉さまからの受け売りだもの」
「であれば、前橋警部にも今の話は伝わるはず……どうやら、腹を括るしかないようですね」
意を決した刑事を、瑛菜は不安そうな面持ちで見つめている。その視線に気付いた小田切が、「何か?」と顔を向ける。
「実は、この作戦でリスクを負うのは霧人だけじゃないの」
「と、いうと」
「自分の中に宿るエネルギーを放出するのは、口で言うほど簡単じゃない。力を上手くコントロールできなければ体内のバランスが崩れ、最悪の場合は」
「霧人さん同様、死ぬかもしれない」
唇をきつく結ぶ女性に、小田切はうっすら微笑みかける。
「俺は、こう見えても警察です。日本国民の安全と秩序を守ることが警察の仕事であり使命。あの怪物を倒すために己の命が散るのなら、それも本望です」
「でも」
「覚悟はできていました。それに、たとえここで命果てようともこの世に未練はない。ようやく、会いたかった人に再会できたのだから」
瑛菜は潤んだ目を大きく見開く。「それはどういう意味」と言いかけた瞬間、小田切は目の前の女性を強く抱きしめた。
「会いたかった――八重子」
「ヤエコ――」
呆然とした顔の瑛菜を、小田切刑事はじっと見つめる。
「記憶にないかもしれないが、間違いない。君は辻八重子――各務家惨殺事件で集団自殺した、俺の恋人だ」
「な、何を言っているの。出鱈目なこと言わないで!」
瑛菜は、小田切の体を突き離そうと藻掻く。だが、鍛え上げられた刑事の抱擁を華奢な女性がそう簡単に解けるはずがない。
「そうだ、最初は俺だってまさかと思ったさ。十五年前に失踪した恋人が各務一家惨殺事件で亡くなっていて、今頃になってその恋人そっくりの女性が各務一家の者を名乗り俺の前に現れるなんて」
「馬鹿なことを。きっと、この非日常な状況に頭が混乱してしまったのね」
瑛菜は嘲笑しようとするが、顔が引きつって上手く笑えないようだ。
「頭が混乱しているのは君のほうだ、八重子」
「私は各務瑛菜よ! 八重子なんて人、私は知らない」
両手で頭を抱えて坐りこむ女性に対し、それを見下ろす小田切はあくまで冷静だ。
「八重子が失踪してから、俺は必死に彼女の足跡を探し続けた。すると、共通の友人から奇妙な証言を得たんだ。
もともと八重子は、就職活動が上手くいかなくて落ち込んでいたし、同じタイミングで実家とトラブルを起こして両親と絶縁までしていた。不運が重なり、かなり精神的に参っていたんだ。
そんなとき、彼女は友人にもらしたそうだ。『死ぬのなんて怖くない。私一人じゃないから。オロチの神が、私たちの穢れた魂を濯いで天へ帰してくれる』と。その数日後、八重子は行方をくらまして各務一家の事件が発生した」
周囲で火の手が上がる中、瑛菜――はたまた八重子か――がはっとした表情で小田切を凝視する。
「正直なところ、俺はさっき君に言われた通りまだ頭がこんがらがっている。各務家の内部で当時何が起きていたのか、過去の事件と現在の事件をどう絡ませていいのか、上手く整理できていないんだ。だが俺の予想がもし正しいのなら、八重子は各務一家惨殺事件で集団自殺を装い殺害された。そして、何の手違いがあってか彼女の魂が君の――各務瑛菜の中に入りこんだ。そう推測している」
長い黒髪の女は地面にぺたりと坐り、「違う、違う……」とうわ言のように呟いている。だが小田切の話は堰を切ったように止まらない。
「俺は、刑事になって必ず彼女を探し出すと決意した。警視庁には、捜索願が出た行方不明者のデータベースがあると聞いていたからそれが使えると思ったんだ。けれど、両親と絶縁した辻八重子の情報はそこに登録されていなかった。それでも警察の力を使えばどこかで手がかりが見つかるはずだと信じて、必死に探し続けたよ。
そして、とうとうこの事件に遭遇した。『ストレンジテイル』で働いていた八辻栄子という女性。その名を聞いた瞬間、直感が告げたんだ。『この人かもしれない』って。まったく数奇な運命だよ」
失笑する小田切を、女は涙の溜まった目で見上げる。その白い頬を雫が伝い、小田切はそれを指ですくい取った。
「けれど、君も迂闊だったね。俺に見つかりたくなかったら『八辻栄子』なんて安易に命名しちゃ駄目だ。かつての恋人そっくりの美女がそんな名前を名乗っていたら、疑わざるを得ないんだから」
「私、私は……」
小さく嗚咽する女性を再び抱き寄せながら、ふと小田切の脳裏をある名前が掠めた。各務一家惨殺事件を連想させる小説を執筆していたという、七人のユーザーたち。それぞれの名前を耳にしたとき、一人の名が小田切の頭の片隅にずっと引っかかっていた。
真波馨。たしか、辻八重子が絶縁したという実家の母親の名は「カオル」ではなかったか。それに、母の旧姓はたしか「波江」だったはず。もし、八重子が両親と断交する前に母親が何らかの方法で娘にある種の暗示をかけたのだとすれば……その母親が、例の小説を作り上げたユーザーの一人だったとしたら……。
そんなことが、あり得るのか? 小田切自身は懐疑的だが、あの狂った『主催者』は告白していたではないか。自分や各務家を含めこの事件に関係する人物たちは皆、『主催者』によって創造された物語世界の駒にすぎないのだと。
だとすれば、これから目の前で起きる出来事にいちいち驚くことはもう無意味なのかもしれない。これは、誰かの頭の中で進行している虚構にすぎないのだから。
八重子の耳には届かないほどの小さな声で、小田切は不意に呟いた。
「やはり、君はメドューサだったのかもしれないな」
ギリシャ神話に登場する女怪メドューサは、女神アテナの神殿で海神ポセイドンと交わったためにアテナの怒りをかい、その美貌を醜い怪物に変えられてしまったと伝えられている。八重子もまた、カガミノヲロチという禁忌に触れたためメドューサにされた憐れな犠牲者だ。そんな彼女を、自分に救うことができるだろうか?
できるさ――この世界は、何でもありの虚構なのだ。
愛する者の手をきつく握りしめ、小田切は力強く告げた。
「俺たちの手で終わらせるんだ。この悪夢を」




