第17話 ムオン (みのり ナッシング)
前橋と小田切が交通規制をくぐり抜けて警察署に到着したとき、敷地内では地獄絵図が広がっていた。
封鎖された建物の窓からは黒煙が上がり、棟の一部は損壊していた。混乱のさなかに爆発も起きたらしい。パトカーに加え消防車や救急車、様々な車両が乱雑に停められ、急ごしらえの救護テントもそこかしこに建てられていた。
傷病者の何人かは地面に横たわったままだ。苦しげな呻きと、乱れ飛ぶ怒声が現場に渦巻いていた。
そんな中でもひときわ目立ったのは、あちらこちらに控える物々しい装備の隊員達。NBCテロ対応専門部隊だ。警察署内でばら撒かれた化学物質を除染するべく緊急配備されたのだ。頼もしい味方であることは間違いないのだが、小田切の目には、不吉な地獄の使者のように映った。
前橋は吐き捨てるように呟いた。
「今日は、お客さんが大勢いるぜ」
呼んでない客がな――少々毒の効いた冗談でも言わなければ乗り切れそうになかった。小田切も、唇を強く引き結んだ。見えない敵への怒りと正義感の炎が、その双眸で燃え盛っていた。
無論、胸の奥を熱くしたのは前橋も同じであった。特殊な経歴を持つ彼は、今まで何度もこれ以上の惨劇を目の当たりにしていた。職業人としての理性は、その激情を表に出すことを決して許さない。しかしむしろ心の奥底では誰よりも熱く使命感を滾らせていた。
今も目の前を白衣姿の怪我人が運ばれていった。ぺちゃんこになった白い両袖が、だらりと担架からはみ出している――腕を失ったのか。
「重傷だ! 通してやれ!」
まだ息があるのか、プラスチックの酸素マスクが曇っている。ひどい火傷を負っているように見えた。前橋は目を逸らし、小田切はハンカチを口元に当てた。まだ若い刑事の顔面は蒼白だった。マッシュルームカットの頭髪も元気なく垂れ下がり、額を覆っていた。
「錯乱した職員が、押収物のロケットランチャーをぶっ放したそうです。滅茶苦茶ですよ」
「だな。しかもこれじゃあ中には入れそうにない」
「あっれえ~。その声は」
突如として響いた軽薄な声に、小田切は怪訝な顔で振り返った。視線の先にいたのは、地獄に不釣り合いな若い捜査官。性別不詳のおちゃらけた表情と、トランプのカードを模したピアスは、絶望的なまでにスーツに似合っていない。まるで子供のような外見が不気味な印象を与えていた。
「所轄の人はもう締め出されちゃったでしょう? どうしてまだ残っているのかなあ」
「君、学生か? こんなとこに来ちゃダメだろう」
小田切が威圧するように腕を組んだ。その姿を見た前橋は小さく舌打ちした。
「馬鹿野郎、こいつは麻薬取締官だ」
「え」
「そうそう、ボクちゃん~。あたしは仕事で来てんのよ」
マトリの刑事はへらへらした笑いを浮かべながら、小田切の前に立った。
そのまま十指をピタリと合わせ、小田切の暖簾のようなうっとしい前髪に分け入れると、左右に開いた。麻薬取締官は大げさに両腕を広げ、センター分けになった男を嘲り見た。小田切はキレた。
「なにするんだ、てめえ!」
「落ち着け、小田切」
前橋は、その見た目に似合わぬ怪力で小田切を羽交い締めにしながら、取締官を睨めつけた。
「おい須藤。どういうことだ」
その時、重厚な着信音が響き渡った。アン・ディー・フロイデ。喜びの歌だ。音の発信源は、組み合った二人の所轄刑事ではなかった。懐から携帯電話を取り出した麻薬取締官は、「ああ。そう」と短く受け応えると、通話を終えた。
それから思い出したように小田切に笑いかけた。
「ベートーヴェンは好き?」
「くそったれ!」
「その辺にしてやれ、須藤」
前橋の膂力に抗えず、小田切は振り上げた拳を降ろすしかなかった。諦めて前髪を整え始める。
「なんて報告だった」
「友人が見舞いに来いってうるさくて――」
「とぼけるんじゃねえよ」
「おお、怖い。
事情が変わったんだよ。やばい妄想を口走る大麻野郎がいるって聞いて駆けつけたら、この有様だからね」
須藤と呼ばれた刑事は相変わらずヘラヘラとした表情で、前橋の質問を躱した。小田切はその真意を問いただそうと口を開いたが、相手の方が一枚上手だった。
「君は小田切刑事だね」
「なに?」
「熱くなるのは結構だけど、いいのかなあ。時間がなくなるよ」
「どういうことだ!」
「桜田門の皆さんが入り口を固めているでしょ。所轄の人間を追い出してね。早くしないと証拠がなくなっちゃうよ」
「……そういうことか」
厳しい顔で頷いた前橋に対し、小田切には状況が飲み込めなかった。だがその間に、軽薄な刑事は「じゃあね~」とスタスタ立ち去ってしまった。
「なんなんですかっ、あいつ!」
「あれでも優秀な刑事だ」
「どうしてあんなガキが」
「歳は知らん。だが、少なくともお前の倍は生きている」
「え」
「さぁ急ぐぞ。本庁の奴らが証拠を掻っ攫っちまう前にな」
唐突に走り始めた前橋を見て、小田切の困惑は絶頂に達した。自らの職場で起きた非常事態。巫山戯た女捜査官。そして、た、大麻! 違う。たった今、防護服姿の隊員へ突進していく上司――あ、一人ぶっ倒した。また一人。
「なにしてるんだ。早く来い」
あっという間に二人を行動不能に追い込み、装備を剥ぎ取った前橋の間延びした声を聞いて、小田切は考えるのを辞めた。黙って駆け寄る。
「着ろ」
「はい」
そして防護服を身に纏った二人は、裏口から侵入を果たしたのだった。
外の喧噪が嘘のように、建物内は静寂に包まれていた。空気が死に絶えている。恐ろしいほどの静寂のせいで、呼吸をするのも憚られるようだった。
「ひどい有様だ」
「……はい」
廊下には混乱の跡が色濃く残っていた。凹んだ壁、割れた蛍光灯、そして飛び散った血痕……小田切は奥歯をギリと噛み締めた。
地下にある解剖室へ到着した二人は、まだ手遅れではないと知った。
「本店の方々は到着していないようですね」
「奴らも自分の身は可愛いさ。気を付けろよ、有毒ガスは残っている――おい!」
前橋は解剖台へ駆け寄った。そこには全裸の男が横たえられていたのだ。
「警部! こいつが鷹野橋ですか!?」
「いや……違う!」
解剖台の上で倒れていた五体満足の男は、あの鷹野橋智也ではなかった!
「馬鹿野郎!」
「え」
「鷹野橋は両腕をもがれていた! これを見ろ! 腕が取れたりくっついたりするものかっ!」
動揺した小田切の視線は、偶然にも床に落ちたネームホルダーを捉えた。その職員証の白衣姿の男と、目の前の顔が一致した。
監察医は、ぐはっと血を吐いた。
「おい、大丈夫か!」
「遺体が……起き上がった……」
「鷹野橋は生きてやがった! いや、作動していると言った方が正しいか――ええい、どっちでもいい。
重要なのは、奴が怪我人に紛れて、建物の外に脱出したということだ。あの傀儡人形は、いったい、どこへ――」
その時、館内無線が入った。かろうじて機器は故障していなかったらしい。心をざわつかせるザラついた音声が、無音に支配されていた建物内に響き渡った。
『現在、被疑者が救護車両を奪い逃走中。立ち会っていた麻薬取締官が人質に取られている模様、繰り返す――』
小田切の脳裏をよぎったのは、ハートの形――それはトランプの耳飾り。
「あの金髪の女ですか!」
「須藤ユズル……あいつは知っていたんだ。『証拠』が病院へ運ばれるとな!
先回りするぞ」
「ど、どこへ」
「決まってるだろう!」
前橋は、鷹野橋の怪文書にあったあの場所の名前を口にした。
「M街のカタコンベだ!」




