第16話 疫病神 (真波馨)
鷹野橋智也の検視で警察署内が騒然となる少し前、前橋篤郎警部は部下とともにM街に到着していた。一般市民から「M街の喫茶店でただならぬ物音が聞こえた」と通報があったのだ。
「おいおい、またえらい有様だな」
カフェ『レイニーサウンド』の店内に一歩踏み込んだ警部は、頭髪をボリボリ搔きながら現場を見渡した。
彼が驚くのも無理からぬこと。椅子やテーブルはことごとくひっくり返され、観葉植物のプランターやティーカップ、ティーポット、皿などの割れた破片が床に散乱し、窓ガラスも一部破損している。まるで店の中で突風が吹き荒れた後かと思われる光景なのだ。
それだけなら、店が強盗にでも襲われたのかと想像できる。問題は、店内の中央あたりに転がっている人間らしきもの――。
「こりゃ、ホラー映画に出てくるゾンビだな」
顔をしかめながら「よいしょ」と腰を落とす警部。その隣では、前橋の忠実な部下である小田切刑事が中腰になり、やはり眉をひそめてゾンビのような死体を眺めていた。
「白のワイシャツに黒エプロン。服装からして店員でしょうか」
「喫茶店でコーヒーを淹れていただけなのに、こんな悲惨な死に方をしなきゃならんとはな」
憐れむように言って、前橋警部は床上の死体を観察する。服装こそありふれているが、シャツの袖から出た両腕は骨と皮かというくらいやせ細り、骸骨の模型を見ているようだ。足もおかしな方向に折れ曲がり、床でダンスでもしているようなポージングが不釣り合いに滑稽である。
特記すべきは、首から上の様相だろう。その姿はまるで人間ではなかった。顔は煤色に変色し、顔面の脂肪という脂肪を吸収しきったかのようにげっそりとしている。縮れた長髪はもともとの髪型かもしれないが、その髪が顔回りに張り付きいかにも不衛生だ。白目を剥き、口をこれでもかというくらい大きく開ききったまま死後硬直がはじまっている。その口元に鼻を近づけると、警部は盛大に顔をしかめて鼻孔を指で塞いだ。
「なんだ、この臭いは」
「死臭、ですかね」隣の小田切刑事も、ハンカチで鼻を押さえている。
「にしたって、今まで嗅いだことのない悪臭だぞ……ん、首に絞められたような痕跡があるな」
目を細め、屍の首元を凝視する。たしかに、紐状のもので締め上げたような索痕が頸部に残っていた。
「絞殺でしょうか。それにしたって、どんなに強く締め上げてもこんなふうにはなりませんよね」
小田切の言う「こんなふう」とは、もちろんゾンビのような見た目を指している。
「当たり前だろ。これが絞殺体なら、俺たちは今まで数知れないゾンビたちとご対面していたことになるぜ。まあ、詳しいことは解剖に回さにゃ何とも言えんな……で、仏の身元は」
「詳しくはまだ特定できていませんが、死体のそばに『Utagawa』と刻まれたネームプレートが落ちていました。鑑識が発見し回収済みです」
「じゃあ、やはりこの仏は」
言いかけたとき、小田切が「え?」と首を回して傍らの上司を見る。鼠色のコート姿の男はハッと息を呑むと、
「いや、何でもない。それで」
「あ、はい……捜査員が店近辺で聞き込みをしたところ、集まっていた野次馬の中に店の常連客がいて色々と証言してくれたようです。そこから、ここの店主が雅楽川広重という男性であることが判明しました。風変りな名前も相まって、客の間ではちょっとした名物店主だったようです。愛想はあまり良くないが、淹れる珈琲はなかなか美味しかったと」
「となると、仏さんがその浮世絵師みたいな名前の店主である可能性が高いわけだ」
「そうですね。それからその客によると、『レイニーサウンド』には名物店主のほかに看板少女もいたとのことです」
「看板少女?」鸚鵡返しに問いかけた先輩刑事に、小田切はこくりと頷きいつの間にか手にしていた手帳のページに目を落とす。
「客の証言によればかなりの美人だったようで、彼女目当てに足繁く店に通う者もいたとか。ただ、ネームプレートもしていなければ素性が判るような会話をしたことも一切なく、どういった人物であるかは謎のままだったと」
「店主の謎めいた死に、謎の美少女ねえ。胡散臭えな」警部は吐き捨てると、「それじゃ、ひとまずその看板少女とやらに話を聞くとするか」
腰を上げた前橋に、小田切は困ったような視線を向ける。
「それが、少女は現在行方知れずのようです」
「何? どういうことだ」素っ頓狂な声を上げた警部は、部下に説明を促す。
「先ほどの常連客の話では、一、二週間ほど前から店に姿を見せなくなったと。店主に尋ねても、『自分も彼女とは連絡がつかなくて困っている』としか言わなかったそうです。雅楽川は少女がどこに住んでいるかも知らないので、探しようがないのだと」
「しかし、曲がりなりにも雅楽川は経営者だろう。従業員の素性を何一つ知らないまま採用したってのか」
「それが、どうも雅楽川は『レイニーサウンド』の雇われ店主だったようです。客が雅楽川と雑談を交わしたときの内容によれば、彼は看板少女に頼まれて店を任されており、実際的には少女が店のオーナーに近い存在だったと。その話を聞いて、客は腑に落ちたのだそうです。時折、少女が雅楽川に対してテキパキと指示をしていたり、雅楽川と少女の立場が逆転したような光景を見かけることがあったのも、そういった内情があったからなのだと」
「なるほどねえ。それにしても、よくそんなペラペラお喋りしてくれる証人に都合よく会えたものだな」
その何気ない発言に部下が目を泳がせた一瞬を、前橋警部は見逃さなかった。
「ええ……運のいい捜査員だったのでしょうね」
喉に骨が引っかかったような物言いの部下を、じっと睨む。だがやがて、興味を失ったように顔をそむけると、
「で、第一発見者は」
「えっとですね。現場の近くを歩いていた男子大学生数名が『店の中から格闘するような騒々しい物音がする。もしかして強盗ではないか』と110番をプッシュし、通信指令室に通報が入ったのが十四時十分。M街内を警らしていた機動捜査隊が現場に駆け付け、遺体を発見しました。物音を聞いた学生らによると、音が静まって数分が経った頃、店の中から一組の男女が出てきてバイクで走り去るところを目撃したそうです」
「男女のカップルねえ。この惨状がそいつらの仕業なのか」
「そこまではまだ……ただ、その男女というのが何とも奇妙だったと」
「奇妙?」
「ええ」小田切刑事は手帳をせわしなくめくりながら、「カップルのうち男のほうは、坊主頭で白い袈裟姿。見た目は比較的若く、『えらい美形のお坊さんだな』と見たときに感じたそうです。女のほうは、恰好はいたって普通でしたがこれまた『かなりの美少女』だったと口を揃えて証言しています」
「イケメンだとか美女だとか、所詮は個人の主観だからな。そんな情報が捜査の役に立つとは思え――いや、待てよ」
前橋はスーツのポケットを探り、一枚の写真を取り出す。
「おい、さっき署内でDBマップを見てたろ」
「防犯カメラに志乃河霧音が映っていた映像ですね。バイクで公道を走っていた」
「それだ。その映像で、志乃河霧音と同乗していた人物――あいつも、寺の坊さんみたいな恰好をしていたな」
先輩刑事の手元を、小田切は覗き込む。防犯カメラの映像を拡大し印刷したもので、いかつい黒バイクに跨った男女の姿が写り込んでいた。いかんせん走行中の一瞬を捉えただけなので顔までは正確に判別できないが、それでも運転席の人物が白っぽい服装で坊主頭であることは確認できた。
「では、通報者の学生たちが見たのは志乃河霧音と連れの男だと」
「その男女は『レイニーサウンド』を出てからバイクで逃走したんだろ。坊主と美少女なんて組み合わせも滅多にあるもんじゃねえし、可能性は大だな」
「正確には、志乃河霧音は女装した男性ですけどね」小田切は冷静に指摘してから、「だとすれば、志乃河霧音は疫病神ですね」
「疫病神、か。たしかに、あのジャーナリストのときと似ているな、こいつも」
足元で息絶えた雅楽川を見下ろし、警部は忌々しげに呟く――そのとき、彼のスーツの胸ポケットの中でスマートフォンが震えた。
「ああ、俺だ」
液晶画面を耳に当てた横顔が、瞬時に凍り付く。通話はものの一分足らずで終わった。
「小田切、ここは後回しだ。一旦引き上げるぞ」
有無を言わせぬ声色に、今までにない険しい表情。先輩刑事の様子にただならぬものを感じ取ったのか、部下の顔にも緊張が走る。
「何か進展があったんですか」
前橋警部はゆるりと首を振ると、呻くように言った。
「いや、緊急事態だ……署内で正体不明の化学物質がばら撒かれたらしい」




