後悔は
俺が自殺することを決意したのは昨日、長年付き合っていた彼女に振られてしまったからだ。俺にとって彼女は、初めてできた恋人だった。目を閉じれば彼女の姿が浮かび上がってくる。
伸ばした髪がはらりと舞い、その間から彼女の屈託のない笑顔が見える。
付き合い始めのころ、彼女はよく笑っていた。俺はその笑顔が何よりも好きだった。
なのに……何月が経つと忘れてしまうものなんだな。
辛いときは彼女がそばで寄り添ってくれていた。それがいつのまにか当たり前になっていた。
そんな優しかった彼女に俺は振られてしまった。
――だから死のうと思った。
◆◆◆
俺は昨日、初デートで訪れたレストランという、俺たちにとって思い出深い場所で彼女に結婚を申し込んだ。――いや、正確には、申し込もうとしていた。
『大事な話があるからディナーしよう』
とメールで彼女を呼び出した俺に、彼女からの返信は、『私からもある』だった。
この時の俺は、彼女も結婚のことについて話したいのだと勝手に勘違いして舞い上がっていた。
それがとんだ見当違いだったとも気づかずにだ。
「でさ、田沢の奴がさぁ」
レストランにて、テーブルにつくなり俺はたわいもない世間話を始めた。
「ふーん……。あ、そう……」
その時の彼女の反応はいまいち芳しくなかった。つまらなそうな顔をし、俺とは目を合わせない。
「ほら見て。夜景が綺麗だよ」
「……そうだね」
無理やり話題を振っても彼女はひとこと呟くだけで、すぐに会話が途切れてしまった。
話はまったくといっていいほど盛り上がらなかった。
なかなか会話も弾まないまま、料理が運ばれてきた。
俺はどのタイミングで切り出そうか思案しながら、料理を口に運んでいた。だがその途中で、彼女の方が俺より先に話題を切り出してきた。
「……この際はっきりと言っておくわね。あなたが今日どんな話をするか知らないけど、あなたとはもう無理よ」
無表情な顔で、彼女はそう言った。
その非常に淡白なせりふに、俺の脳みそは理解が追いついていなかった。
「どういう……意味だ?」
理由を聞いた俺に彼女は、「自分の胸に聞いたら?」と呆れた顔を向けた。そして、
「それと私、他に好きな人いるから。あなたみたいな優柔不断とは今日限りにするわ」
などと口にする。
「え。あっ……それって……」
そのせりふを聞いた瞬間、俺の中の何かが静かに致命的に崩れ落ちてしまった。理解してしまったその意味に、俺は動揺が隠せなかった。
背筋に冷たい汗が伝い、心臓がどくどくと大きく鼓動するのを感じた。
明らかに動揺していた。そしてその動揺は確実に彼女に伝わっていただろう。
にもかかわらず俺は、平静を装いながら、
「そうか……俺も……実はそのことで、今日は……お前を呼んだんだよ……」
と、何故だか言いたかったこととは真逆のせりふを口に出していた。
「そう。それはよかったわ」
彼女は今一度こちらに顔を向けると、呆れた顔で一瞥し、また静かに食事に戻った。
その後のことは正直言ってよく覚えていない。俺たちはろくに会話もせずに食事を淡々と済ませ、軽く別れの挨拶をしたあと、それぞれの帰路についたのだった。
呆然とした状態で俺は、とぼとぼと夜道を歩いて帰った。脳裏には沢山の彼女との思い出が駆け巡っていた。
彼女と俺は新卒で入った会社の同期だった。仕事で会うたびに親しくなり、いつしか恋人同士になっていた。
そして約十年がたった今、俺たちはもうすぐ三十三になる。俺はそろそろかと思って結婚に踏み切った。それがあの行動だった。
だが実は、彼女の方は以前からずっと言い続けていたことだった。あれはもう五年以上前だろうか。
「ねぇ、もうそろそろ結婚しない?」
「うーん。そうだなあ……でも今仕事忙しいし……」
彼女はずっと待ち続けていた。俺はこんなにも直接的に言われていたのにもかかわらず、仕事が忙しいとかなんとか言い訳しつづけて、その結婚を避け続けていた。
もちろん彼女のことは愛していた。ただ結婚となると、どうしてももう一歩踏み出せずにいる自分がいた。俺は彼女が、俺のことをずっと好きでいつづけてくれると、そう思い込んでいた。だから結婚なんてしなくてもこの関係はずっと変わらないだろうと、なんの根拠もなしに漠然と思っていた。いや、意識すらしていなかった。それが当たり前だと思っていたからだ。
だがそんなことはなかったのだと、今更ながらに気づいた。気づいた頃にはもう手遅れだった。失ってから初めて、失ったものの大切さに気づかされる。
こんなにも彼女のことが俺の中の大きな部分を占めていたことに。
だから俺が改めて彼女に振られたと認識した昨夜の帰路、俺の中の何かがぷつりと切りはなされ、俺は自殺しようと決意した。
他人から見れば、そんなことで? なんて馬鹿にされるだろう。もう一度彼女とやり直せるように努力しろよ、とか、他に女なんていくらでもいるだろうよ、とか。そんなふうに思われるかもしれない。だけどそんなことは俺だってわかっていた。
さまざまな負の感情が波のように押し寄せてきた。
驚き、悲しみ、恨み、恥、空虚、劣等感――。
だが、俺が自殺しようと決意した感情は、このどれでもない。自殺を決定付けた感情――それは“後悔”だ。俺はいま、後悔で押しつぶされそうだった。
もう絶対にやり直せないのだ。
俺の脳裏に、あの時の彼女の顔が浮かんだ。俺が動揺を隠しながら、彼女の言葉に同意した後に見せたあの顔。
呆れ尽くして救いようがないと判断されたあの無表情な顔を――。
あれを思い出すだけで、俺はいますぐにでも死にたくなる。あの顔は二度と見たくない。
どうして俺はこんなことになるまで全く気付けなかったのだろう。どうしてそんな状態にもかかわらず結婚できると思ったのだろう。自分の行動なのに本当に不思議でならない。あの時の俺はいったいどうしていたのだろう。
そしてまた後悔に苛まれる。
――ああ、いますぐにでも死にたい。
家について、悲しみに埋もれながら眠りにつき、朝が明けた次の日。
俺は自殺しようと自殺スポットを調べた。そこに向かうことに決め、歩き始めた昼下がり。
そんな時だった――。
「なァんだか酷くやつれた顔をサれてますねぇ……。何か後悔されてますかぁ?」
見知らぬ男がいた。でっぷりと体格がよく、スーツを着ていた。
「何ですか?」
「ぃえ、なに。ぁなたが困っているよぅに見えたものて゛すゕら」
男は不気味に笑っていた。その眼は細く、不自然な笑みだった。
「だったら何だというんだ」
「手助けし、て差し上げよぅかと」
「無理だね。誰にもできないよこればっかりは」
言って、俺はその場を去ろうと顔を背けた。しかし――。
「もし、過去に戻れるとしても?」
「なに?」
動きかけた脚が止まった。
振り向いて、男の顔を見やる。
男はなおを不気味に笑っていた。が、その顔はふざけたり、嘘をついているようには見えなかった。
「過去に戻れる、だと?」
「ぇえ」
もう一度じっくりと見る。少なくとも俺には本心で言っているように見えた。
「俺を過去に送ることも……」
「はぃ。可能て゛すよ」
「だったら……!」
言いかけて、俺は口をつぐんだ。
……一体なにをしているんだ、俺は。
過去に戻れる? はぁ? そんなわけないだろう。馬鹿なのか。そんなあからさまな嘘に引っかかるわけ……いや、でも……もしも本当に過去に戻れるとしたら……。たとえそれが何かの罠や詐欺だとしても、過去に戻って彼女ともう一度やり直せるのだとしたら……どうだ……?
…………。
……戻りたい。やり直したい。後悔したくない!
そうだ……俺は死のうとしてたじゃないか。そんな俺が――たとえこれが嘘だったとしてもどうってことないじゃないか。
だったら――
「頼む! 俺を過去に送ってくれ!」
俺の叫びに、男はより一層不気味に嗤い、
「はぁぃ……」
細い眼をより細くした。
◆◆◆
男は具体的な過去に戻る方法を説明した。と言ってもそんなに難しい説明ではなかった。その方法はいたってシンプルだった。
「で、このボタンを押せばいいんだな」
「はぃ。押した瞬間ニ意識だゖか゛過去へと送られマす。そし て押したゕ ゛最後、現代に戻ることは出来まセん」
「なるほど……。で、戻れる過去は、俺が過去に戻らずに過ごすはずだった残りの寿命分と」
「はぃ」
「その範囲内であれば任意の過去に戻れるんだな」
「そのとぉりて゛ごさ゛ぃます」
ニタリと嗤った男。果たしてこの男は何者のか。そんなのはわからないし、どうでもいい。
そうして俺は転送装置を押した。
彼女と一からやり直すために。
もう後悔しないために。
俺はあの日を思い浮かべた。
彼女と始めてデートしたあの日を――。
――ポチッ
次の瞬間、景色が切り替わった。
見たことのある風景。ここは……
……間違いない。あのレストランだ。
目の前には彼女が座っている。
その彼女は――無表情だった。
【解説】
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過去に戻って彼女との関係をやり直そうとした男。しかしその目論見は失敗に終わった。なぜなら過去に戻る条件として、『過ごすはずだった残りの寿命分』しか戻れないとなっている。残りの寿命が10年なら10年前まで戻れるが、15年、20年前には戻ることができない。では主人公の寿命はどのくらいだったのか。主人公は不気味な男に会う前は自殺しようとしていた。つまり、男の寿命は後一日かそこらだった。つまり戻れても一日前。それは二度と見たくないと思った彼女の顔を見た、前日のことだった。