視える子
僕の姉の娘、つまり姪には不思議な力があるようだった。それが予知能力なのか霊能力なのかはわからないけれど、とにかく彼女には、普通の人には見えない何かを見ることができるという、そういう力を持っていた。
その姪――名を黒原玲というが――彼女とは法事や正月の親戚の集まりで顔を合わせるくらいで、そう頻繁にあったりすることはなく、詳しく知っているというわけではなかった。
僕が彼女の不思議な力に気づいたのは、彼女がまだ六歳の頃だった。
あれは太陽の光がじりじりと肌を焦すとある夏の日のことだ。避暑も兼ねて、当時五歳だった息子と妻を連れて、長野県にある実家に帰省していたときのこと。僕らが帰省して三日くらい後に、姉一家三人( 姉とその夫と玲 )が夏休みの小旅行と称して、実家に遊びにやってきた。
思い返せば姪と初めて会ったのは彼女がまだ生まれてまもない頃ことだ。小さな手のひらが僕の小指を小さいながらもしっかりと握っていたことが印象に深い。
そんな時から数えても両手で足りるほどの回数しか会ったことのなかった彼女には、特別な印象も持ちようがなく、そのときもやはり姉の娘以上の感情は持ち合わせていなかった。
そして実家での期間限定の生活を送っていくなかで、父として(そして叔父として)イベントを作らないわけにもいかず、姉たちが到着した次の日に近所で夏祭りが行われるということだったので、僕たちは息子と姪を連れて遊びにいく運びになった。
が、しかし当日になって息子が体調を崩した。さらに義理の兄も急な仕事が入ったとかで、来て早々に家族全員が帰るというのも忍びなく、義理の兄だけが一人帰ることになった。
当初、僕はこれは中止にする予定でいた。姪が行きたいと駄々をこねる素振りもなかったので、そこまで問題はなかった。しかし姉が「玲と夏祭りに行ったら?」と提案してきた。
「姉さんが行けば」
「嫌よ。蚊に刺される」
「虫除けスプレーすれば」
「それにああいううるさい所嫌いなんだよね」
「……」
「見たい番組あんのよ。いいじゃん知らない子の面倒見てって言ってんじゃないんだからさ。あんた叔父でしょ」
だったらあんたの娘だろ、と思ったがしかし特別に断る理由もなく、姪も嫌がったりしなかったので二人だけで行くことになった。
「どう、楽しい?」
「……うん」
反応の乏しい子だと思った。たとえそれが、よく知りもしない親戚のおじさんの前という状況を差し引いたとしても。
僕らは二人だけで色々と見て回った。
祭りはかなりの賑わいを見せていた。どこからか聞こえる太鼓の音と人々の陽気な笑い声。ソースの焼けた匂いが気分を静かに高揚させた。
あたりを見渡せば、定番のたこ焼き屋やフランクフルトの屋台などがあった。変わり種か、夏だというのにおでんが売られていた。よく見ると《冷やしおでん》と書かれた幟があった。いったいどんな味だろう。
想像をめぐらせていると、ふいに僕の名を呼ぶ声が聴こえた。振り返って声の主を探せば、それは小中学生時代の同級生だった。
「やあ、久しぶりじゃん。元気してた」
「おお、え、もしかして波瑠魅? 東條波瑠魅なのか? うわあ懐かしい。え、いつ以来だ」
「中学卒業してくらいだよ。本当久しぶりね。ねえ、今どこに住んでんの?」
「東京。てことは波瑠魅はずっと長野か?」
「いや、違うの。まあ……ちょっと色々あって戻ってきたって感じかな。それよりもなに、結婚してたの」
「あ、この子は姪っ子。でも結婚はしてる。今帰省しててさ、姉も実家にいるんだよね。それで」
僕は久しぶりに会った旧友に、ついつい姪のことも忘れて長立ち話をしてしまっていた。その間、姪は文句ひとつ言わずに黙って横に立っていた。
久しぶりに会った彼女は、当時の面影を残しながらも、やはり会っていなかった年月を感じさせるものを含ませていた。どこかやつれているようにも見える。
当時を振り返りひとしきり話し終えて、ふと姪の存在を思い出した僕は、「じゃ、またどこかで会おう」とか、「元気でな」とか、そんな当たり障りのないセリフで締めくくって彼女と別れた。
背中を向けて去っていく旧友を横目にどこか哀愁を感じながら、僕は隣の彼女の手をかるく握った。
「話長くてごめんね。じゃ、どっか行こうか」
そうして再び歩き出したとき、彼女は前を向いたままか細い声で言った。
「ねえ、どうしてあのお姉さんは首に蛇がいたの」
「ん? なに。へび?」
祭りの喧騒もあってか、何を言っているのか理解できなかった。
「へびって何?」
「首のところ。茶色の蛇がいた。上に伸びてた」
繋いでいた彼女の手がひんやりと冷たく感じた。今度ははっきりと聞き取れたが、彼女の言っていることはやはりわからなかった。
当然ながら旧友の首に蛇などはいなかった。タオルを掛けていただとか、ネックレスをつけていた、というわけでもない。涼しそうな薄青のTシャツで、下は生地の薄いロングスカートを履いていた。
何を言っているのだろうと、疑問に首を捻るが、
「さあ、なんでだろうね」
たいして気にもならなかった僕は適当に話を合わせて受け流した。幼い子は時に大人が理解できないことを口にする。その類だろうと、僕はそれ以上深入りすることはしなかった。
そのあとは特別おかしなこともなく、至って普通に祭りを楽しんで帰路についた。
「え!? 自殺した?」
実家から東京に戻って三日ほど経った後のことだった。母からの電話で、東條波瑠魅が自殺したことを知らされた。
「な、なんでよ!」
「さあ、詳しいことはわからないけど、でも首を吊って死んでたらしいわよ。あんた祭りの時会ったって言ってたじゃない。どうなのよ」
「どうって……いや、そんな自殺するようには」
見えなかった。ただ、疲れているようには見えた。肉体的にではなく、精神的に。
「お葬式こっちでやるらしいから、あんたもちゃんと会ってあげなさい」
「うん……。わかったよ……」
電話を切ると、体から力が抜けていった。言いようもない何かが全身に襲ってくる感覚。そのとき、姪があのとき言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
首に絡みつく茶色の蛇――首吊りのロープ。
(もしかして、姪には彼女が自殺する未来が見えていたのでは……)
そんな気がしてならなかった。
それが、彼女に不思議な力が備わっているのではと思った最初の出来事。当時は驚きこそすれど、偶然かタチの悪いこじつけにすぎないだろうと、そう思っていた。
しかしそれから何年も経って、僕はようやく彼女のそれが本物であることを確信した。
玲の祖父、つまり僕の父の葬式で彼女に会った時、それは確信した。
あの夏祭り以来、何度か会う機会はあったものの、その時もさほど話はしなかったし、さらに時がたち小学校を卒業して中学に入る頃には例に漏れず彼女も思春期に突入していて、そして赤の他人ではないが大して話をしたことのない親戚のおじさんである僕には、目を合わせても話しかけてはくれなかった。
「本日はお忙しい中、亡き父の葬儀にご参列を賜りまして、誠にありがとうございます」
喪主である姉の挨拶が始まると、いよいよ場の空気は静かに重くなった。
葬儀は滞りなく進行した。
嗚咽を漏らして泣きはじめた見知らぬ参列者を見かけた。年々衰えていく父の体を見ていた僕は、覚悟を決めていたからか、泣くことはなかった。だが本音を言えばあの人のように涙を流したかった。
出棺が終わると、ひとまず遺族たちの肩は少し軽くなった。どうしたってこういうのは慣れるものではない。
喪主である姉は霊柩車に乗り、火葬場へと向かった。遠く小さくなっていく車をみんなで最後まで見送る。ついに見えなくなったとき姪が――黒原玲が、同じ方向を向きながら僕に話しかけてきた。
「叔父さん。ちょっといい」
驚かずにはいられなかった。まさか彼女の方から話しかけてくるとは。
彼女は一度僕と目を合わせると、人気のない方向へと歩き出した。僕もその後についていく。
話を聞かれたくない内容なのか、彼女は小声で話し始めた。
「叔父さんならもう気付いているでしょ。私に不思議な力があるって」
「そりゃあ、……そうだよね。だって」
「だからお願いがあるの!」
彼女は一度あたりを見回して人がいないのを確認したのち、言った。
「叔母さんを救って!」
彼女の目には力がこもっていた。
ここでいう叔母とは僕の妻のことを指しているのだろう。それはわかる。だがなぜ――
玲は声に悲壮感をつけて言った。
「私には昔から幽霊が見えていた。死期の近い人を見れば、死の原因が朧げにその人に映る。だからわかるの、叔母さんが危ないって。でも……私にはどうすることもできない。ずっとそばにいることはできないから。それに」
一度言葉を切り、悔しそうに口を曲げ、
「こんな話、誰も信じてくれないから。だから」
そう、彼女は言った。たしかにこんな話、誰も信じてはくれないだろう。
僕は信じる。だけど、
「僕も悔しいよ。でも無理だよ。こればっかりは」
「そんなことない。もしかしたら救えるかも」
「いや無理だ」
「無理じゃない。出来ることは何かあるはず。私が見たのは水。おそらく溺死だとおもう。だから水辺に近づかないように」
「だから――」
必死さがひしひしと伝わってくる。もうあの頃の彼女ではない。そこにはしっかりと感情がこもっていた。
おそらく彼女は何度も同じような経験をしたのだろう。見えているのに救えない。それはどれほど辛いことなのか。
しかし、
「――僕には出来ない」
彼女の目から色が抜けていくのがわかった。だが仕方ないのだ。無力な自分に嫌気がさすよ。
僕は言い訳するように、彼女に言った。
「僕の妻はね、幽霊とかおばけとかそういうのが世界一嫌いで苦手なんだ。だからね、余計に怖がらせることになるんだ……。それにね」
僕はこの事実を言おうか少しだけ迷った。聞けば彼女は、失望どころか絶望するだろう。
そうさせたくないと思う気持ちとは裏腹に、しかし僕は言ってしまった。
「少しだけ嬉しいんだ」
自分でも不思議だった。妻に死んで欲しくないと思うと同時に、このまま死んでくれてもいいと思っている自分の気持ちに。
玲は力無く、ただ呆然と立っていた。
彼女の父親がやってきて、探していたのか物陰にいた彼女を見つけると、表情を少し明るくして彼女の名を呼んだ。しかし、彼女は動かなかった。
「死ねよ」
最後に彼女は僕にそう吐き捨てた。目から涙が溢れ、上目遣いに憎しみを込めて僕を睨んでいた。
ははっ、死ねよ……か。
自然と乾いた笑みがこみあげる。
父親が近づいて、肩に手を置いた。
「ここにいたのか玲。何してんだ、誰かと話しでもしていたのか」
父親はやや俯く彼女の顔を覗き、その険しく歪ませている彼女に気づくと、そっと抱きしめ、優しく頭を撫でた。
「玲……あっちに行こう。みんな待ってるよ……」
父親は、娘を皆が集まる場所へと連れていった。
一人残された僕は、去りゆく彼女に向かって届かない声をかける。
「とっくに死んでるよ」
今や霊となった僕には妻を救うことなどできない。父親が死んだというのに、涙ひとつ落とすことができない自分に何が出来るというのだ。
それにもう、資格などない。
妻ともう一度、話が出来るからと、妻の死を願ってしまった今の僕には。




