この町の住人は全員、狂っている。
この町の住人は全員、狂っている。
「あ、中原さん、おはようございます」
家を出てすぐのところ、道の真ん中で私は声をかけられた。声をかけてきたのは、ご近所に住む山田皿子さん。
私は会釈しながら応えた。
「おはようございます山田さん。どこかお出かけですか?」
「はい。こんなによく晴れた日は、用事がなくても出かけなければもったいないですよ。そう思いません?」
「まあ、はい」
「それでちょっとこれからピクニックにでも行こうかと思いましてね」
「へぇ、そうなんですね……」
私は適当に相槌を打った。
山田さんは一見すると、礼儀正しいどこにでもいそうな眼鏡をかけたアラフィフの女性。だがしかし、彼女はこの町の住人であることを忘れてはならない。
「よかったら中原さんもご一緒しませんか」
山田さんは私を見つめ、提案する。
レッドフレームの奥の目がきらりと光る。私はそれを断った。
「いえ、私はこれから息子と行くところがありますので」
「どちらへ」
「商店街の方に」
「そうなんですね……残念です」
「ええ、私も残念です」
目を伏せて、少し表情を作る。申し訳ないと思っている態度を滲ませて。しかし、それは本心ではない。
少しの間、取り留めのない雑談をしたのち、私は一度深く礼をして、山田さんと別れた。山田さんは土砂降りの中、傘も差さずに手ぶらでどこかへと歩き出した。
私は差していた傘を少しずらし、目だけで空を見上げた。
――いったい、この空のどこを見れば晴れていると思えるのだろうか。
「いい、山田さんとは話をしちゃだめよ。もしも話をすることがあっても話を合わせてあげること。絶対に間違ってるって指摘しちゃだめだからね」
そう息子に言い聞かせる。以前私はそれで痛い目を見ていた。下手に指摘しないのが吉なのだ。
そう、この町の住人は狂っている。
息子は、うんと頷いた。
しばらく歩いているといくらか雨は弱まってきた。そして今度は酒稲商店の鳥崎心さんとばったり出くわした。彼はカッパを着込んでいた。
「やあ、中原さんこんにちは。こんなところで会うとは奇遇ですね。これからどちらへ?」
「ええ、ちょっと息子と買い物に行こうかと」
「へぇ……。そうですか。ところで、どうですか、うちも安くしますよ」
鳥崎さんが媚びたような声を出す。にやけた顔が鼻につく。それだけなら問題ないのだが、しかし彼もまた気が狂っているのだ。
「そうね、また今度伺うわ」
「今度と言わず今来てくださいよぉ。ほら今、活きのいい魚仕入れてきたところなんで」
鳥崎さんは台車で運んでいた発泡スチロールのケースの蓋を開けて見せてくれた。
「どうですか。この新鮮な真鯛。見事なもんでしょう。中原さんのために勉強させてもらいますよ」
ケースの中を見つめる。――ああ、やはり狂っている。
「そうですね……。でも今日はお肉の気分なので、また次の機会にしようかしら」
「そうですか。残念です」
「ごめんなさいね。またいつか伺わせてもらうから。その時はよろしくお願いします」
「はい! いつでも大歓迎です!」
鳥崎さんはまた下卑た笑みを浮かべて、頭を深く下げた。会釈と愛想笑いを返し、私たちは歩みを再開させた。
「いい、鳥崎さんとも話をしちゃだめよ。さっきのあれ見たでしょ。もし話すことがあっとしても適当に受け流しなさい。間違っても逆らっちゃだめよ」
また息子に言い聞かせる。先ほど鳥崎さんが見せてくれたケースの中には何も入っていなかった。酒稲商店は四年前に潰れている。彼は毎日、ああやって何も入ってない空のケースを行ったり来たりさせているのだ。
そうして私たちは住宅街を抜け、商店街へと続く大通りを進んだ。雨はもうすっかり上がっていて、傘を閉じても問題はなかった。
「あっらぁ! 中原さんじゃないの〜!」
「野呂さん」
背後から声をかけてきたのは野呂郁子さん。おしゃべり好きなぽっちゃり体型が目につくおばさんだ。
「最近どう、お元気?」
「ええ。おかげ様で。ほら、ご挨拶なさい」
息子は無言で頭を下げる。
「……あ、えっと……こんにちは!」
「……」
「すみません。人見知りなもので。ところで野呂さんの息子さんのほうは?」
「元気よぉ、もう。元気元気。あっはははははは!」
何が面白いのか、野呂さんは陽気に大笑いした。しかしこんな明るい彼女もまた狂っているのである。
彼女は笑い終わると話題を変えた。
「あ、そうそう。ところでここだけの話なんだけど、朝方に大雨降ってたでしょう。また山田さん傘も差さないで歩いてたのよ」
「それなら私話しましたよ。どうやらピクニックに行くそうです」
「あらそう。でも私、やっぱりあの人は火星人なんだと思うの。ほら、火星って水が少ないんでしょ? だから雨の日とかでも平気で外出るのよ。そう思わない?」
「ええ、そうかもしれませんね」
「でしょう。やっぱりそうなのよ。地球征服を目論んでるに違いないわ。今のところ怪しいと思うのは山田さんとあと柏木さんと所沢さんかしらね。あの人の頭の形は絶対火星人よ」
「なるほど」
ほら言わんこっちゃない。本気で火星人がいると信じている。
「中原さんも気をつけたほうがいいわよ。いつ何時襲ってくるかわからないわ。今はまだ私も情報を集めているだけなんだけど、もしよかったら今度お茶でもしながらそのお話ししませんこと」
「いえ、まあ、そうですね」
行くわけがない。私はやんわりと断った。
「そう、でも気をつけてね。絶対よ」
「はい。それではまた」
話も早々に、私たちは野呂さんと別れ、商店街へと向かった。私はまた息子に言い聞かせる。
「野呂さんにも気をつけなさい。あんな話、信じちゃだめよ。火星人なんているわけないんだから」
「…………」
◇◇◇
「あ、野呂さん!」
「あっらぁ鳥崎さん。こんばんは」
「こんばんは。ん? あれ、どうされたんですか渋い顔して」
「いやねぇ、ついさっきね中原さんとお話ししてたのよぉ。そしたらねぇ……」
「息子さん……ですか?」
「そうよ。もう、やんなっちゃうわね。いまだに息子と出かけてるっていうんですもの」
「そうですね。俺がさっき会った時もそうでしたよ。亡くなられてもう七年でしたっけ……」
「まあ、仕方ないですわよね。一人息子でしたもの」
「そうですね……。ところで中原さんどこに行こうとされてました?」
「商店街よ。ついさっき会ったばかりなの。まだ買い物袋も提げてなかったからこれから行くのかしら」
「そうですか」
「それがどうかしたの?」
「いや、俺と会った時は真昼間でしたのでね……」




