全てはシナリオのままに
今日もいつも通り夕方の満員電車に揺られて俺は職場へと向かう。電車を降り、改札を出て、ビル街を抜けてとある一軒家へ。
「おかえりなさい、お父さん!」
ここが俺の職場。ここの父親役が俺の仕事だ。
「ただいま圭一。いい子にしてたか?」
「うん! 僕ね、今日ね、いい子にしてたよ」
「そうか。ならご褒美にこれをやろう」
俺は事前に用意されていた物を取り出して、息子役に渡した。
「うわあ、これ欲しかったやつ! いいのお父さん」
「ああ、大切に遊びなさい」
やったぁ、やったぁ、と息子役が大いにはしゃぐ。その笑顔は及第点といったところか。
その横でエプロンで手を拭う女が現れた。
「あなた、お帰りなさい」
母親役の女だ。俺は鞄とコートを預けた。
「ただいま。今日の夕飯はなんだ」
「あなたの好きな鯖の味噌煮よ」
「そうか。ありがとう。愛してるよ」
リビングに向かい席につき、運ばれてくる食事を、新聞を読んでいるふりをしながらいただく。
俺はこの仕事に誇りを持っている。半端な振る舞いは許されない。完璧を追求しないのは言語道断。共演者であれそれは同じこと。
先のセリフは『あなたが好きな鯖の味噌煮よ』が台本上では正しい。一文字の違いだがミスはミスだ。
妻役はその間、皿洗いをしていた。
「ほら圭一。もう遅いから寝なさい」
「えー、もうちょっと遊びたい」
「いいから寝なさい!」
先ほど渡した物で遊ぶ息子役に強めの口調で言いはなつ。大声を出すのは得意ではないが、台本に書かれているのだからするまでだ。息子役は肩を落として寝室に向かった。だがそれを見て、
(おい待て!)
と心の中で叫んだ。
台本ではもう少し食い下がるはずなのだ。これでは時間が早すぎる。シナリオが狂う。子供だからと許されることではない。
が、しかし……今は指摘できない。それが腹立たしい。叱った後に引き止めるのは不自然だ。苛立ちはあるが、俺は黙って食事を続けた。
しばらく静かな時間が流れた。俺は大して好きでもない鯖の味噌煮を胃に詰め込む。やがて妻役が皿を洗い終えて向かいの席に座った。
「あなた、今度の週末どこか旅行しに行きましょう」
「おーそうだなあ……。どこがいい」
「温泉なんてどうかしら」
「おーいいなー」
「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」
「おーそーだなー」
妻役は呆れて会話を終わらせた。が、これは仕方がない。そうするように指示されているのだから。女の方も少し怒っているように見えるがあれも演技だ。実際は怒ってなどいない。
妻役はテレビをつけて見始めた。
台本によると日本をめぐる旅番組を見ることになっている。が。
(――!)
横目で確認して、俺は奥歯を噛み締めた。
妻役は何故だかニュース番組を見ていた。チャンネルを間違えて覚えていたのだろうか。本来とは違う番組。ああ、苛立ちが募る。
だがここでもそれを指摘はできない。間違いを指摘するという行為は台本にないからだ。怒りを堪えて、俺は黙って新聞を読むふりを続けた。
しばらくして俺は重大なことに気がついた。台本ではこのあと妻役から「ねえ、ここなんてどうかしら」と声がかけられる予定だ。それは番組の中で出てきた草津温泉の映像を見ての台詞だった。が、今女が見ているのは違う番組。その台詞が出るには状況としてそぐわない。
ちらりと時計を確認する。あと五分でその台詞が放たれる時間になる。妻役はまだ気が付いていない。
俺は必死になって考えた。シナリオ通りにしなければならない。
(……違うぞ。見ている番組が違う……!)
俺は小声で間違いを指摘した。今からならまだ間に合う。――気づけ!
しかしテレビに夢中になっているのか、全く気が付かない。仕事に集中しろ! と大声を張り上げたい気持ちを飲み込む。
時間は刻一刻と過ぎていく。
俺は仕方なく台本にはない咳払いを一回だけ大きくした。脂汗が額から伝う。初めてだ、台本にないことをするのは。
この異変に気づけと念をこめて咳を放つ。なのに、なのに、なのに、まだ気づかない。何故だ! 俺の苛立ちは抑えがたいところまで来ていた。
その時、リビングのドアが開いた。
咄嗟のことに振り向いた俺は唖然とした。
そこに立っていたのは息子役の男の子。しかし本来そこに立っているのはおかしい。そんなシナリオではなかったはずだ。「ママー暑くて寝られなーい」
目を擦る小僧に、ついに俺は苛立ちが頂点に達し、声を荒げてしまった。
「なんでそんなところにいるんだよッ!」
息子役はビクッとした。すると母親役が大声を出した。「どうしたのよいきなり大声出して!」
「それはこっちの台詞だ! 何だよさっきから。こんなの台本にないぞ!」
「え、なに、台本って何よ。あなたどうかしたの?」
「いい加減にしろ! もう演技はやめろ、俺は怒ってんだよ」
「演技って何よ。ちょっと、ほんとどうしちゃったのよ」
怒りで拳をダンと机に叩きつける。母親役は恐怖で顔がひきつり、少し体を後ろに仰け反らした。もう何もかもが狂ってしまった。
息子役が泣き出した。
「うぇーん。怖いよー」
「黙れ!」
涙を流している。チッ、うるせぇ。演技もろくにできない大根のくせして一丁前に泣いてんじゃねえよ。
「うっせぇんだよ! いい加減にしろ!」
すると息子役は大声をあげて喚き出した。泣きたいのはこっちだよ。
ああ、もう、狂った。お終いだ。こんなはずじゃなかったのに。チクショウチクショウチクショウ……
「ねぇ……ほんと、どうしたのよ……」
「お前も黙れッ!」
女が俺を見る。ふざけるな。全てお前のせいだろうがっ!
何もかもお前が悪いんだろうが!
泣き止まないガキに女が近づいてあやす。その隙に俺は台所へと向かう。
「ちょっと! な、やめて!」
「ああうるさいなあ。お前が悪いんだからな」
この怒りはどうにかして晴らさなければならない。今まで完璧にこなしてきたのに、どうしてこんななんてことのない日に全てが崩れなければならないんだ。
髪を掻きむしり、顔が怒りでぐしゃぐしゃになっていくのを感じる。これは駄目だ。
「やめてェ!!」
だって仕方がないだろう。お前たちが悪いんだから。
俺は何度も刃を振り下ろした。あんな演技に付き合わなければならない俺の身にもなってくれよ。そして喉や腹に突き立てる。生暖かい赤い液体が、腕を振り上げるたびに顔や服にかかる。不快でしょうがない。
「ふぅ……」
俺は振り下ろすのをやめた。もう二人は動かない。濁った瞳は何も映していない。
俺は時間を確認した。
時刻は午後十時四十三分。
「ふふ、ふは、はははっ。ははははッ! あははっはっはっはぁぁ!!!」
定刻通りだ。
握っていた包丁を手放す。血溜まりの上に金属の硬質音を立てて落ちていった。
本当の名も知らぬ役者たちよ。全てを許してくれ。俺だってこんなことしたくなかったさ。
俺は鞄から自分の台本を取り出した。
『
妻A「ちょっと、やめて!」
夫B「ああうるさいなあ。お前が悪いんだからな」
妻A「やめて!」
夫Bが妻Aに跨り包丁で腹部を刺す。そのあと息子Cの首を刺す。
しばらく続ける。
夫B「ふぅ……」
午後十時四十三分、包丁を落とす。
』
許しておくれ妻と息子よ。
台本にそう書いてあるから。
仕方がないだろう。
そう、全てはシナリオのままに――




